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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



清朝末期の最高権力者、西太后(1835〜1908年)の専制期間は47年間、中国での女性権力者として知られる漢の呂后(紀元前180年頃)、唐の則天武后(西暦700年頃)の15年間に比べると、かなり長かったことが判ります。・・・長居植物園のバラ園を引き続いて紹介しましょう。

垂簾聴政を願う官僚達を味方につけた西太后は、咸豊帝の霊柩を北京に戻すと同時に実力派大臣3人を死刑とし、残りの5大臣も免職処分するクーデター(辛酉しんゆう政変)を断行、東太后が政治に関心が薄かったので西太后が清朝の実権を握っています。・・・絵画調モード

西太后には、歴史に残る事業の断行など男性的な野望は無く、贅沢な衣装と美食が楽しめる暮らしと、乾隆帝の幼少期に垂簾聴政をした皇太后「崇慶太后」と並び称されることを願っていたようです。・・・絵画調モードでは、花のクローズアップよりも、少し引いた写真の方が効果的なようです。

辛酉政変以降の清朝は、咸豊帝の実弟恭親王(1833〜1898年)を事実上の摂政とし、若い東西両皇太后が「崇慶太后」を真似た垂簾聴政を行う政治体制でした。

ところが、恭親王と両皇太后が衝突、野心家の西太后は皇帝印の力と味方の官僚を使って恭親王の罷免に成功しています。(1865年、恭親王クーデターの可能性もあった第2の危機を回避)

こうして1865年以降の清朝は、東西両皇太后が事実上の専制君主となっていますが、男性的野望を持たない女性君主を頂く官僚達は、清国4億人の税収を自由に(収賄)できるようになったのです。・・・これは絵画調モードで

1875年に西太后の実子、同治帝が亡くなると、西太后は有力な皇帝候補者を落として3歳の光緒帝(西太后の甥)を即位させることに成功、利権を共有する官僚達が味方したのでしょう。(1875年、他の候補者が皇帝となれば権力を奪われたので第3の危機回避)

さらに、(西太后にとって唯一頭が上がらなかった)東太后が1881年に亡くなり、47歳の西太后が清朝中国の事実上の君主に就任、西太后を後ろ盾とする官僚達がますます潤い、清朝は意外な安定期を迎えるのです。・・・絵画調モード

中国の歴史では、カリスマ的な政治家が実務派の政治家を失脚させたり、復活させたりするパターン(毛沢東による小平の例など)がありますが、西太后も罷免した恭親王を復活させるなど、まさにカリスマ的存在となっていたのでした。・・・絵画調モード

今回は、27歳〜47歳までの西太后の人生を紹介しました。

参考文献:「西太后 大清帝国最後の光芒」 加藤 徹著

つづく



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