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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事に続き、今回は48歳〜60歳までの西太后の話です。さて、東太后が亡くなった翌1882年、フランスがベトナムのハノイを占領、宗主国であった清朝は、ベトナムに出兵しますが、初戦の清国軍は負け続けます。長居植物園のシャクヤク園

2年後、一人の官僚から敗戦の原因は、重臣たちが無能のせいという上奏文が提出されたことを受け、西太后(1835〜1908年)は重臣をすべて更迭(甲申易枢と呼ぶ)、代わった重臣は凡庸な人物ばかりだったため、西太后の君主としての基盤はますます盤石なものとなっています。(更迭された重臣達の反乱は無く、第4の危機を回避)・・・シャクヤク

甲申(こうしん)易枢から3か月後、フランス軍は台湾を奇襲攻撃して清仏戦争が始まり、始めのうちはフランス軍が勝っていました。ところが後半戦は意外にも清軍の連戦連勝という展開となっています。・・・こちらは、黄色いオシベの品種。

しかし、西太后は美衣美食の生活だけを願って講和を急ぎ、現地では勝っていたのに敗戦を認めてベトナムの宗主権を放棄、フランス側は狂喜して講和条約に調印しています。・・・牡丹に似た白のシャクヤク

この背景には、堂々と贅沢な生活を楽しみたいと願った西太后と、李鴻章の思惑(彼の私的軍隊「北洋軍閥」の消耗を回避した)があり、二人とも国家利益よりも私的利益の方を優先したのでした。・・・絵画調モード

また、1889年にあった光緒帝(1871〜1908年)の婚礼費用は、総額550万両(現在の3000億円くらいか)。大臣、官僚、役人は、その中から多額のキックバックを受け取り、ますます役人が潤い、清朝の命脈はまだまだ続くのでした。 ・・・こちらはバラのように見えるシャクヤク

西太后が望む(婚礼や造園工事などの)贅沢は、国を挙げてのたかりの構造(ある意味では所得の再分配)を助長する意味があり、清朝政治体制を延命する手段として有効だったのです。普通モード、

1894年、戦争嫌いの西太后は、当時発明された「反日愛国」のスローガンを支持する若い光緒帝(22歳)の主張に負け、仕方なく日清戦争の開戦を決めています。・・・絵画調で撮ったシャクヤク

カリスマ的な専制君主、西太后でも止められなかった「反日愛国」を叫ぶ民衆のデモに現在の中国当局が全く手を出せないのは当然でしょう。 ・・・絵画調で撮った牡丹のツボミ

 中国のプレゼンスを清朝時代に戻したいと願う中国の政治家や官僚なら、清朝時代からあった「国を挙げてのたかりの実践」や「反日愛国スローガンの活用」を常に考えているのではないでしょうか。

参考文献:「西太后 大清帝国最後の光芒」 加藤 徹著

つづく



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