梅雨にはいったある日、中之島の西側を散歩していると、湊橋南詰西側に宮本輝さんの小説「泥の川」の一節を刻んだ石碑を見つけました。
小説「泥の川」は、<堂島川と土佐堀川がひとつになり安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく>から始まります。<・・・>部分が小説から・・・堂島川と土佐堀川がひとつになった安治川
湊橋から西を見ると、手前が土佐堀川、左手はアーチ状の昭和橋とその先が木津川、右手が端建蔵橋、その先が安治川です。
堂島川に架かる上船津橋から下流の船津橋を見ると、手前にある水道橋?の背後に隠れていました。
<その川と川がまじわるところに三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である>・・・船津橋の北詰
<藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろと渡っていった>・・・船津橋から堂島川の上流を見ると、その水質は相当改善されているようです。
船津橋から端建蔵橋に向かって橋を渡って見ましょう。中央、半円形に突き出たところが中之島の西端部です。
<安治川と呼ばれていても、船舶会社の倉庫や夥しい数の貨物船が両岸にひしめき合って、それはもう海の領域であった>・・・安治川の下流、左には今も倉庫、右は大阪中央卸売市場
<だが反対側の堂島川や土佐堀川に目を移すと、小さな民家が軒を並べて、それがずっと川上の、淀屋橋や北浜といったビル街へと一直線に連なっていくさまが窺えた>・・・船津橋北詰から見た堂島川の上流方向は、超高層ビルがひしめいていました。
参考文献:「泥の河」 宮本 輝 著
つづく
湊橋は「きっちゃん」の住んでいた船が係留されていた場所ですね。そしてすぐ後ろの公園の水道を使っていたんですね。
私も大阪市内で荷馬車や船上生活者たちを実際に見ていた年代です。
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