軍記物語「義経記」によれば、義経を捕らえよとの院宣を受けた金峯山寺(蔵王堂)の衆徒は、静御前から義経一行が吉野にいることを聞き出し、恩賞に預かろうと衆徒だけで義経を打ち取ることを決めています。・・・ユネスコ世界文化遺産に登録されている吉野水分神社(重要文化財)
文治元年(1185年)12月20日、義経一行は、武装した衆徒100人を発見、そのとき佐藤忠信は、身代わりとなって義経の鎧と兜、太刀を受けて時間を稼ぐ役を引き受け、少数の家臣と一緒に衆徒を相手に戦っています。・・・佐藤忠信が矢を射た花矢倉からの金峯山寺(蔵王堂)、天気が良ければここから大阪市内が見えるそうです。
義経一行16人は、佐藤の奮戦の間に東の多武峰寺に向け逃れていますが、武装した衆徒との合戦で佐藤の家臣はすべて討ち死にしたと義経記にあります。・・・2012年吉野の紅葉
しかし佐藤忠信は、衆徒側最強の豪傑、「横川の覚範」との一騎打ちに勝利、覚範が倒されたことと日が暮れたことで、衆徒は一旦金峯山寺に引き揚げたようです。・・・吉野に残る「横川の覚範」の首塚と供養塔
跡をつけた佐藤忠信は、金峯山寺南大門の下の山科法眼の坊に潜入、そこで衆徒に発見された際に、義経身代わりの佐藤忠信と名乗って12月21日の明け方に吉野を脱出しています。(義経記には義経から受けた鎧は、蔵王権現に捧げたとありますが、吉水神社に重要文化財として現存しているので吉水神社に捧げたの間違いでしょう)・・・吉水神社
「義経記」に描かれた吉野での佐藤忠信の活躍は、吉野で名高い桜の季節の物語となり、歌舞伎の義経千本桜となって江戸時代に大当たりを取っています。・・・秋に見る吉野の桜紅葉
一方の義経ですが、多武峰寺(現在の談山神社)から十津川を経て伊勢神宮に入り、所願成就を祈って黄金造りの太刀を奉納しています。・・・ユネスコ世界文化遺産登録の国宝金峯山寺蔵王堂
多武峰寺は藤原鎌足の霊廟、十津川と伊勢神宮は天皇家との係わりが深く、義経に対する近衛基通と後白河法皇の密かな支援があったという説が有力です。・・・金峯神社下にある義経隠れ塔の標識
翌、文治2年(1186年)9月20日、佐藤忠信は京都で鎌倉方に発見されて自害、そのころ奈良に潜伏していた義経は、北陸道を辿って奥州の藤原秀衛のもとに向かっています。・・・2012年、吉野の紅葉
文治3年(1187年)春、妻室を連れて奥州平泉に入った義経は、吉野に潜伏してから2年半後の文治5年(1188年)閏4月、藤原泰衡によって襲撃され、妻子とともに自害しています。
参考文献:義経の悲劇 奥富 敬之著 : 義経記 佐藤 謙三 小林 弘邦訳