野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



軍記物語「義経記」によれば、義経を捕らえよとの院宣を受けた金峯山寺(蔵王堂)の衆徒は、静御前から義経一行が吉野にいることを聞き出し、恩賞に預かろうと衆徒だけで義経を打ち取ることを決めています。・・・ユネスコ世界文化遺産に登録されている吉野水分神社(重要文化財)

文治元年(1185年)12月20日、義経一行は、武装した衆徒100人を発見、そのとき佐藤忠信は、身代わりとなって義経の鎧と兜、太刀を受けて時間を稼ぐ役を引き受け、少数の家臣と一緒に衆徒を相手に戦っています。・・・佐藤忠信が矢を射た花矢倉からの金峯山寺(蔵王堂)、天気が良ければここから大阪市内が見えるそうです。

義経一行16人は、佐藤の奮戦の間に東の多武峰寺に向け逃れていますが、武装した衆徒との合戦で佐藤の家臣はすべて討ち死にしたと義経記にあります。・・・2012年吉野の紅葉

しかし佐藤忠信は、衆徒側最強の豪傑、「横川の覚範」との一騎打ちに勝利、覚範が倒されたことと日が暮れたことで、衆徒は一旦金峯山寺に引き揚げたようです。・・・吉野に残る「横川の覚範」の首塚と供養塔

跡をつけた佐藤忠信は、金峯山寺南大門の下の山科法眼の坊に潜入、そこで衆徒に発見された際に、義経身代わりの佐藤忠信と名乗って12月21日の明け方に吉野を脱出しています。(義経記には義経から受けた鎧は、蔵王権現に捧げたとありますが、吉水神社に重要文化財として現存しているので吉水神社に捧げたの間違いでしょう)・・・吉水神社

「義経記」に描かれた吉野での佐藤忠信の活躍は、吉野で名高い桜の季節の物語となり、歌舞伎の義経千本桜となって江戸時代に大当たりを取っています。・・・秋に見る吉野の桜紅葉

一方の義経ですが、多武峰寺(現在の談山神社)から十津川を経て伊勢神宮に入り、所願成就を祈って黄金造りの太刀を奉納しています。・・・ユネスコ世界文化遺産登録の国宝金峯山寺蔵王堂

多武峰寺は藤原鎌足の霊廟、十津川と伊勢神宮は天皇家との係わりが深く、義経に対する近衛基通と後白河法皇の密かな支援があったという説が有力です。・・・金峯神社下にある義経隠れ塔の標識

翌、文治2年(1186年)9月20日、佐藤忠信は京都で鎌倉方に発見されて自害、そのころ奈良に潜伏していた義経は、北陸道を辿って奥州の藤原秀衛のもとに向かっています。・・・2012年、吉野の紅葉

文治3年(1187年)春、妻室を連れて奥州平泉に入った義経は、吉野に潜伏してから2年半後の文治5年(1188年)閏4月、藤原泰衡によって襲撃され、妻子とともに自害しています。

参考文献:義経の悲劇 奥富 敬之著   : 義経記 佐藤 謙三 小林 弘邦訳

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




源義経(1159〜1189年)の死から200年後に完成したとされている軍記物語「義経記」の中の義経と、2012年秋の吉野を紹介しましょう。・・・2012年吉野高城山の紅葉

「義経記」の史料的価値は低いとされていますが、義経が吉野に潜行していたことは、地元に多くの伝承が残っていますので間違いないと思います。・・・この吉水神社にも義経の伝承が存在します。

文治元年(1185年)11月1日、頼朝が鎌倉から大軍を率いて駿河国黄瀬川に達すると、11月3日、義経一行300名は九州の緒方氏を頼って京を落ちています。・・・吉水神社境内の義経伝承を記した看板。

途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けこれを撃退、6日に摂津大物浦(兵庫県尼崎市)から九州へ向け船出していますが、暴風のために散り散りとなって押し戻され、義経主従十数人(義経記では16名)だけが吉野山を目指したようです。・・・吉野山の金峯神社

義経主従は吉水院に5日間滞在、その後、義経を逮捕せよとの院宣(11月25日付け)が下されたことを知り、吉野の奥の大峰山を目指そうとしています。ところが途中の積雪と大峰山が女人禁制だったことで、12月16日愛妾の静御前と別れています。・・・分かれた場所は吉水神社から山道を1時間半ばかり登った金峯神社の義経隠れ塔辺りだったのでしょうか。・・・義経隠れ塔

義経一行と別れた静御前は、護衛として付いた家来に金品を持ち逃げされ、一人金峯山寺に迷い込み、そこの衆徒に発見されています。・・・金峯山寺(蔵王堂)

その後、静御前は、京都を経て鎌倉に送られ、義経の居場所についての尋問を受けています。静御前が文治2年4月8日、鶴岡八幡宮で白拍子として舞い、義経を思う歌を披露した話は有名です。・・・今年のイロハモミジの紅葉

義経の子を懐妊していた静御前は、7月29日鎌倉で男子を出産しています。(その義経の子は、すぐに殺害されています)・・・サクラモミジの紅葉

我が子を殺された静御前は、9月に釈放され、母親の磯禅尼と共に京都に戻っていますが、鎌倉を去る際に北条政子から多額の金品を受けたようです。・・・吉野金峯神社下のひっそりとした義経隠れ塔

参考文献:義経の悲劇 奥富 敬之著   : 義経記 佐藤 謙三 小林 弘邦訳



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日の記事の続きです。阪急本店から阪神百貨店を通り、大阪駅の西側に10月31日にオープンした、エキマルシェ大阪に立ち寄ってみました。

ここの店舗数は全部で82店、デリカフードやスイーツの店が増えたようです。オープンしたばかりなので、かなり混雑していました。

さて、大阪駅中央改札前を通って、駅の北側にあるJR伊勢丹三越に移動します。

JR伊勢丹三越のエスカレーターは、オープン当初の混雑がうそのようです。圧倒的な面積を誇る阪急との競争では苦戦しているのではないでしょうか。

JR伊勢丹三越の5階からは、JR大阪駅の北と南の連絡通路「時空の広場」に出ることができます。

時空の広場から見たグランフロント大阪は、ほとんど完成していましたが、オープンは2013年3月だそうです。

この日は雨でしたが、この大屋根のお陰で「時空の広場」は濡れることはありません。

時空の広場は、鉢植えの花で一杯でした。

さて、大丸は、大阪の人になじみがあるせいでしょうか阪急ほどではありませんが、JR伊勢丹三越よりも混雑していました。大丸のエスカレーター

大丸地下一階に下りてみると、阪急では行列ができていた堂島ロールのモンシェールの売り場がガラガラに空いていました。そこで堂島ロールを1本買って家路につくことに。買い物は、空いている店のほうが楽ですね。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日は生憎の雨。そこで映画を見た後、梅田のデパート巡りをしてみました。まず入った阪急梅田本店は、エスカレーター4台がまとめて設置され、各階への移動がスムーズにできるようになっていました。

9階にあるイベント広場です。ここでは英国フェア2012が開催中で、バグパイプの演奏などがあって賑やかでした。

イングリッシュガーデンということでしょうか、珍しいダリアの花の展示もありました。

広場を見下ろす階段式の観客席がありました。

広場の入り口から観客席を見たところ

阪急百貨店一階のショーウインドーの展示

地下鉄から阪急梅田駅までのコンコースの囲いが撤去され、広々とした通路となっていました。

コンコースから地下階への移動は、6台ものエスカレーターが動いていました。

エスカレーターを下りると、天井の高い地下一階があり、そこが地下鉄への連絡コンコースとなっています。

雨の日でも濡れることなく移動ができる地下街は、都市に住む利便性です。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日の記事の続きです。1179年、平家によって後白河法皇の院政が停止されると、平清盛の娘を妻としていた近衛基通(20歳)は、内大臣・内覧・関白、さらに翌年には安徳天皇の摂政と進み、従一位に叙され、藤原氏トップ(氏長者)となっていました。・・・今回は吉野の桜紅葉(サクラモミジ)を紹介しましょう。蔵王堂周辺

1185年春、平家を壇ノ浦で崩壊させた義経(27歳、1159〜1189年)が京に凱旋しています。後白河法皇(59歳、1127〜1192年)は、鎌倉の頼朝に対抗する軍事力として利用できる 義経を検非違使兼左衛門少尉に任官させています。・・・吉水神社の一目千本から見ると、桜が紅葉してきているのが判ります。

後白河法皇は、天皇位についてからの30年間、日本の最高権力者として藤原家、平家を操ってきた海千山千の人物でした。・・・一目千本からの桜紅葉(サクラモミジ)は、春と違った風情があります。

 一方の若い義経(27歳)には、武闘派の側近はいても、頼朝(39歳、1147〜1199年)に仕えた大江広元(38歳、1148〜1225年)のような文治派側近がいなかったことが致命的でした。・・・桜紅葉

京都に凱旋した義経(27歳)は、若さ故か、諌める側近がいなかったせいか無断で朝廷の官位を受け、さらに平清盛の義弟、平時忠の娘を娶り、押収した平家の機密書類をその妻に渡すなど、立場をわきまえない行動をしています。・・・桜紅葉

これを知った頼朝は激怒して、義経の殺害を図りますが、逆に義経に首謀者が捕えられ、頼朝の命令であることを白状したことは昨日書いた通りです。・・・桜紅葉

義経(27歳)は、すぐに頼朝追討の宣旨を後白河法皇に奏上し、挙兵しようとしていますが、このときに義経と法皇を仲介したのが近衛基通(26歳、1160〜1233年)でした。・・・桜紅葉の拡大

近衛基通は、翌年源頼朝によって全ての任を解かれ、篭居させられています。基通は、同年輩の義経に親近感を感じていたのかもしれません。・・・桜紅葉

さて、基通に代わって摂政となったのが、頼朝と年齢が近く、思慮に富んだ九条兼実(37歳、1149〜1207年、基通の叔父)でした。・・・株によって少し色が異なる桜紅葉

それから10年後の1196年、頼朝との関係が冷えていった九条兼実(47歳)が失脚、雌伏していた近衛基通(37歳)が関白として再登場するのです。

参考文献:源義経 元木泰雄著

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




吉野は、平安時代末期の西行(1118~1190)や源義経(1159〜1189年)と縁のある土地です。当時の朝廷を支配していた藤原氏と、2012年秋の吉野の西行庵の風景を紹介しましょう。・・・奥千本バス停からまず目指したのは西行庵です。途中にある峠

公家の家格の頂点に立ち、摂政・関白、太政大臣まで昇任できたのは、吉野を訪問した記録がある藤原道長(966~1028年)の御堂流で、その流れから近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家が五摂家となっています。・・・峠からは谷を挟んだ正面に西行庵が見えています。

1166年、御堂流の藤原忠通(1097〜1164年)の嫡男、近衛基実(1143〜1166年)が24歳で急死、その子近衛基通(1160〜1233年)がまだ幼少であったことから、弟の松殿基房(23歳、1144〜1231年)が藤原氏トップ(氏長者)の地位を継ぎます。・・・山道のモミジの紅葉は、一部だけでした。

平清盛が死んだ2年後の1183年、木曽義仲(30歳、1154〜1184年)が平家を駆逐して上洛すると、松殿基房(40歳)は、将来性を見込んだ木曽義仲に娘を正室として差し出しています。しかし、半年後に源義経(25歳、1159〜1189年)など鎌倉軍との戦いで義仲は戦死、同時に松殿家も失脚しています。・・・谷沿いの道

1185年、義経(27歳)は、屋島、壇ノ浦と続いた戦いで平家を壊滅させて京都に凱旋、頼朝(39歳、1147〜1199年)への対抗勢力として使えると考えた後白河法皇(59歳、1127〜1192年)は、源義経を検非違使兼左衛門少尉に任命、義経はこれを頼朝に無断で受けたことが問題となっています。・・・西行庵のある広場は、人里離れた静かな場所でした。

後白河法皇に籠絡され、官位を勝手に受けた義経に対して頼朝は激怒、土佐坊以下の家臣60騎を刺客として義経に向けますが、土佐坊は逆に義経に捕えられ、頼朝の指示であることを白状しています。・・・西行庵

これを知った義経は、頼朝嫌いだった御堂嫡流の近衛基通(26歳、1160〜1233年)を仲介して朝廷に源頼朝追討の宣旨を要請、藤原氏嫡流の近衛基通は、平家を崩壊させた義経の将来性に賭けたのでしょうが、結果は失敗に終わっています。・・・モミジの最上部だけが少し紅葉していました。

翌月、頼朝が大軍を率いて鎌倉を出発すると義経は京都を脱出、頼朝は近衛基通など院近臣を解官し、基通の叔父に当たる九条兼実(41歳、1149〜1207年)を内覧の地位に付け、翌年には九条兼実が摂政となって氏長者を宣下されています。・・・谷沿いの帰り道から見える紅葉

藤原道長の嫡流である御堂流は、このときに九条家が近衛家と同格となり、その子孫、九条、二条、一条3家は近衛家、鷹司家(近衛の分流)と共に五摂家となるのです。五摂家は、源頼朝、義経、義仲という源氏との関係で完成したのでした。・・・吉野西行庵の紅葉には、少し早いようでした。

参考文献:源義経 元木泰雄著

つづく



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




紅葉にはちょっと早いと思いましたが、平安時代の歴史に登場する人物に所縁のある吉野まで出かけてみました。

ケーブルの吉野山駅からはバスで奥千本まで

奥千本からケーブル駅まで戻る途中にある高城山展望台は、紅葉の絶景ポイントです。

展望台直下の状況

2012年の紅葉、関西周辺では、モミジの紅葉を早く見ることができる場所の一つでしょう。

吉野山の下千本、中千本付近にあるモミジの紅葉には少し早かったですが、高城山展望台だけは早くも紅葉真っ盛りでした。

黄色のモミジが秋の風情を演出していました。

黄色のモミジが太陽の光を受けて黄金のように輝いていました。

その下にある花矢倉展望台からは、紅葉したサクラ(サクラモミジ)に囲まれた蔵王堂が良く見えました。

サクラモミジについては次回以降紹介したいと思います。

つづく



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、所用で岡山まで行くことになり、少し時間があったので林原美術館に立ち寄ってみました。林原美術館へは岡山駅前からの電車が便利です。

岡山駅からこの県庁通りまでの運賃は100円。ここから徒歩での移動となります。

岡山城を目指して歩くと、立派な長屋門があり、そこに林原美術館という看板が掲示されていました。

林原美術館では、「能のいでたち」という企画展を開催中でした。

中には旧岡山藩主池田家に伝わった能の衣装や能面が多数展示されていて、その衣装デザインは、素晴らしいものでした。

さて、林原美術館の前、堀の向こうは岡山城、その先は後楽園です。折角なので岡山城まで足をのばしてみました。

岡山城、内下馬門の石垣です。

この辺りには、岡山城の石垣の中でも屈指の巨石が使われています。

その先に見えるのは菊花展の会場、鉢植えされた見事な「菊」が多数展示されていました。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




コスモス

此の花咲くや館のハイビスカス

ダリア

コウテイダリア

コウテイダリアの中心部

シロスジアマリリス

ハネセンナ(南アフリカ、西インド諸島原産)

オウコチョウ

昼間に開花させているクジャクサボテン

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2012年世界スーパージュニアテニスは、10月28日に終わりましたが、その試合でテニスボールがラケットに当たる瞬間をカメラで捉えることができました。・・・シャッタースピードは1/3200秒

先日紹介した記事でのサーブ写真を見ると、ラケットがかなり撓っているように写っていました。・・・下の写真のシャッタースピードは、1/10000(一万分の一)秒、これもラケットが少し撓っているように見えます。

ある読者から、本当に撓っているのかという質問を受けた際、1/3200秒のシャッターで撮ったので、間違いないでしょうと回答しましたが、申し訳ありません、誤りでした。その理由を説明しましょう。・・・ボールが平たい餅のように変形していますね。シャッタースピードは1/6400秒です。

まず、デジタルカメラでは、撮影したデーターを撮像素子からメモリーカードに読み出す際に「記録の時間差」が発生します。例えば1画素読み取りに0.1マイクロ秒(1千万分の1秒)とすると、1千万画素なら、1千万分の1×1千万=1秒です。・・・シャッタースピードは1/5000秒

この「記録の時間差」のために、撮像素子1枚の写真の画素全部の露光開始と終了のタイミングに若干のズレが生じるのです。・・・シャッタースピードは1/3200秒

通常のデジタル一眼カメラでは、読み出している間、画素に光を当てないメカニカルシャッター(フォーカルプレーンシャッター)が採用されています。この場合のシャッターは、物理的に光を遮るため、最高級機でも1/8000秒くらいが限界のようです。・・・この写真のシャッタースピードは、1/13000(一万三千分の一)秒。

一方、1/16000秒の高速シャッターが切れる電子方式では、物理的に光を遮るものが無いために「記録の時間差」が表に出て、動いているものが歪んで写ることになります。 ・・・シャッタースピードは1/4000秒。

また電子シャッターは、強い光を撮像素子に取り込むと、画像に白い縦筋が混じる(スミア)現象が発生する欠陥があります。・・・トスボールが停止しているように写っているので、インパクト直前の状態でしょう。スピンサーブを狙っているのではないでしょうか。シャッタースピード1/4000秒

そのために通常のカメラは、メカニカルシャッターを採用しているのですが、カメラを連写モードとした場合に、高速連続撮影に適した電子シャッター方式に切り替わるようです。・・・シャッタースピード1/6400秒。デジタルカメラでラケットとボールが当たる瞬間を写すには、1/6400秒よりも早いシャッタースピードで撮影する必要があることが判りました。

その高速連写モードでテニスのサーブを撮影すると、ラケットが撓っているように写ったのでした。・・・大変お騒がせして申し訳ありませんでした。・・・しかし素人でもこんな写真が撮れるようになったのは、そんなデジカメの進化のお陰です。

 



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




先日、鶴見緑地公園に秋の花を見にでかけてみました。入り口に置かれたコスモスです。

コスモスは、露出をオーバー気味にすると、雰囲気が出るようです。

バラ園のバラと青空

秋のバラが満開でしたが、春のバラと比べると少し元気が無いように見えました。バラと雲

バラと青空

此の花咲くや館の熱帯スイレン

熱帯スイレンの中心部

これも熱帯スイレン

此の花咲くや館のハイビスカスも、まだまだ元気に咲いていました。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




毎年11月前半行われる野球大会に、社会人野球日本選手権大会があり、今年も11月3日~13日までの10日間、京セラドーム大阪で開催されています。・・・セラドーム大阪の天井

出場チーム数は、都市対抗野球優勝(1)、全日本クラブ野球選手権優勝(1)、地区連盟主催大会優勝チーム(11)、北海道地区 (1)、東北地区 (1)、北信越地区 (1)、関東地区 (4)、東海地区  (3)、近畿地区 (4)、中国地区 (2)、四国地区 (1)、九州地区 (2)合わせて32チームです。・・・大応援団のNTT西日本

試合は、この32チームによるトーナメント制で、決勝戦までの5試合を連勝すれば優勝です。・・・応援団席が寂しい三菱重工横浜

毎年夏に開催される都市対抗野球では、補強選手制度がありますが、日本選手権ではこの制度がないので単独チームによる日本一決定戦となっています。・・・NTT西日本の先発は阿部

去年は東北地方太平洋沖地震の影響で開催が中止されていて、今年は2年ぶりの開催となったので、大会初日に京セラドーム大阪まで行ってきました。・・・三菱重工横浜の先発は亀川

この大会は、延長11回で決着がつかない場合、テニスのようなタイブレーク制を採用しています。・・・三菱重工横浜のチアガール達

つまり12回からは、前イニングの最後の打者から数えて3人がランナーとなって、1アウト満塁から試合が再開されるのです。・・・この日、最高気温16度と肌寒かったのですが、盛り上がっていたNTT西日本のチアガール達。

実は、今大会の第一試合(NTT西日本対三菱重工横浜)が11回まで0点のままとなり、タイブレークとなっています。・・・12回表の三菱重工横浜は0点。NTT西日本は1アウト満塁で打者高本

結果的には、応援で優勢だった地元のNTT西日本が犠打による得点で勝利したのですが、プロ野球でも取り入れて見ると面白いかも知れません。・・・高本がサヨナラ犠打を打った瞬間

ネット裏の良い席から試合を見ることができ、チーム毎に特色のある応援も楽しむことができる、これで千円なら安いと思います。・・・喜びのNTT西日本とがっくりの三菱重工横浜



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ニュートラム中埠頭駅から大阪南港野鳥園まで、遊歩道を散歩しながら、途中で見かけた蝶を写真に撮ってみました。

ヒラヒラ舞う蝶が止まったと思って、そっと近づくと、さっと飛び立ってしまう。蝶の撮影はこの繰り返しとなります。蝶の写真を撮るのがこんなに難しいとは思いませんでした。

小型のシジミチョウも、近づくとさっと飛び立つので、その姿を大きく撮るのは大変です。シジミチョウは、羽を立てた姿を横から撮るのが正解のようです。

やっと、じっと止まってくれている大型の蝶を見つけました。ツマグロヒョウモンのオス。この蝶は雌の方が美しいのですが、この日は見つけることができませんでした。

遊歩道には、普通のコスモスとは種類が違うキバナコスモスが咲いていました。コスモスと比べると花びらが少し厚く、別種となるので互いを交配することはできないようです。

野鳥園の観測所から池を見ると、ウミウの集団が日光浴の最中でした。

こちらはチュウサギのようです。

チュウサギの飛翔。野鳥が羽を広げて空中を飛ぶ姿を撮るのも至難の業ですね。

最後にツマグロヒョウモンの姿をもう一枚だけ紹介させてください。

昆虫撮影もなかなか奥が深いですね。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、靱公園テニスセンターで開催された2012年世界スーパージュニアテニスの準決勝を見てきました。この翌日、女子シングルスで優勝したシニアコバ(チェコ)、まだあどけない顔をしています。

シニアコバがミスショットをした瞬間の表情も少女そのもの。

ところが、チャンスボールが来ると、一気に阿修羅の如き表情に変身するのです。第一シード選手として出場し、期待通り優勝する選手ならではでしょう。

こちら対戦相手のDUNNE(第五シード、英国)。錦織のエアケイと同じフォームでフォアハンドショットを放っていましたが、準決勝で敗退。

日本人でただ一人準決勝に進出した奥野彩加も惜しくも敗退。

奥野に勝って決勝に進出、決勝戦ではシニアコバに破れ準優勝したKENNEL(第四シード、スイス)の厳しい表情。

一方、男子の準決勝は、KYRGIOS(第一シード、オーストラリア)が勝って決勝に進出。翌日の決勝戦でも内田海智に勝って優勝しています。

準決勝でKYRGIOSに敗退したCORIC(第四シード、クロアチア)

日本人でただ一人準決勝に進出して勝利。翌日の決勝戦に出場しましたが、惜しくも準優勝に終わった内田海智のサーブ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




3日前の早朝のことでした。シーサイドコスモ遊歩道まで出かけてみると、なにわの海の時空館の上空が晴れ、オリオン座とおおいぬ座をはっきりと見ることができました。

さて、この日の月ですが、その沈む方位は285度、良く晴れた「なにわの海の時空館」前から見ると、神戸市兵庫区の方向に見事に光っていました。月の光が海面に強く反射しています。

この日の月齢は、ほとんど満月に近い13。このくらいの大きさの月なら、カメラのオートフォーカス機能も迷うことは無いようです。・・・肉眼では、ほぼこれくらいのイメージでした。

月は、神戸の山に隠れはじめました。月がこの大きさとなると、カメラのオートフォーカス機能が迷い始めます。しかし、山の上にある送電線鉄塔が写っているのでピントはほぼ合っていると思います。・・月が円形で無いのは、高度が下がったために起こる大気の揺らぎのせいでしょう。

月は、次第に山の彼方に沈んでゆきます。この写真のオートフォーカスも、しっかり決まっているようです。

半分以上が神戸の山に沈んでしまいました。

大阪港から神戸の山に沈む月でしたが、時期によっては明石海峡の先の海に沈む月を見ることができます。月が沈んだあとの大阪港

例年、3月と8月頃、明石海峡に沈む満月を見ることができるのですが、問題は天候です。・・・この日、明石海峡大橋がかすかに見えていました。

月が沈む早朝の西の空、そこに雲が全くないという撮影チャンスは、めったに無いのです。・・・東の空もやっと明るくなってきました。

夜明け前のシーサイドコスモ遊歩道まで出て来た人だけが、それを実感することができるのです。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »