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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1184年、一の谷の合戦に敗れた平家は、四国の屋島に落ちる途中、大鳴門橋から4キロ東にある淡路島福良湾に浮かぶ煙島に7日間滞在しています。・・・奇跡の星の植物館の古典菊の世界展の菊の花

ここで鎌倉方の熊谷直実に討たれた平敦盛が荼毘に付され、その煙が波の上に長く延びたので煙島と命名されたとか。

平通盛の妻で宮中一の美人と言われていた小宰相の局も、一の谷で平通盛が討ち取られたと聞き、福良湾からほど近い鳴門で入水自殺しています。

その遺体は、鳴門大橋から2km北、淡路島阿那賀の海岸に流れつき、里人が埋葬、お局塚として現存しています。

また淡路には、一の谷での源氏の大将、義経の愛人静御前の伝説も残っています。

静御前が義経と一緒に逃亡した吉野から鎌倉に送られたことは先日紹介しました。

京都に戻った静御前は、しばらく一条能保夫人(頼朝の妹)の庇護を受けていましたが、俗事から離れることを希望して一条家の所領だった淡路の志筑庄(現在の津名港付近)に転居したといいます。

志筑庄の福田寺には、「問う人も なくて静かの 墓の辺に 哀れをそふる 松風の音」という和歌をしるした静御前の絵姿が残っているといいます。

その福田寺から西に200m、南北朝時代とされる印塔が2塔あり、右が静の墓、左が義経の供養塔と伝わっているそうです。

参考文献:淡路地方史 大江 恒雄著

 



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