淡路島の歴史の続きを池田忠雄が淡路から転封された岡山城の菊の花と一緒に紹介しましょう。
1615年、池田忠雄が転封した後の淡路は、大阪冬の陣で戦功があった、蜂須賀氏の支配下に入っています。
蜂須賀至鎮は、家老の稲田稙元を城代として由良城に入れ、以降稲田氏が淡路を管理するようになっていますが、もともと稲田九郎兵衛稙元は、蜂須賀小六正勝の客分という立場だったのです。
その稲田氏の知行高は、1660年に淡路7318石、阿波7039石など合わせて1万4千石と、大名並みとなっていました。
1666年、幕府は外様大名の蜂須賀氏を牽制する意味で、稲田氏を淡路城代とするよう指示、稲田氏は淡路島で裁判、警察権を持った最高行政職となったのです。
この時点から阿波蜂須賀家と淡路稲田家の対立が始まり、幕府の統制が無くなった1870年(明治3年)に淡路島で稲田騒動が勃発しています。
稲田騒動とは、明治2年の禄制改革の際、藩士を士族と卒の二階級に分けることとなり、稲田家の藩士が蜂須賀家陪臣であるという理由から卒に編入されたことに起因する騒動です。
明治3年5月、蜂須賀の家臣が稲田の家臣屋敷を襲い、死者37名を出す惨事となっています。
明治政府は、淡路をそれまでの徳島県管轄から外して兵庫県管轄とし、稲田家家臣団を北海道に移住するよう命じています。
稲田家家臣団の北海道での苦労は、2005年公開された「北の零年」(渡辺謙、吉永小百合主演)として映画化されたので、それを見た人も多いのではないでしょうか。
参考文献:淡路地方史 大江 恒雄著