野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



13階のレストランの内部です。

この日、宿泊客が大勢いたようで、このテーブルはあっという間に満席となってしまいました。

料理コーナー

左から肉団子、サバ、ハム、ウインナー、スクランブルエッグ

左から納豆、漬物、おひたし、魚の煮物、肉じゃが

ご飯とみそ汁、右端のケースの中には幅1センチにカットして皿に乗せた明太子がありました。

サラダコーナー

パンコ-ナーです。クロワッサンは、小ぶりですがなかなか美味しかったですよ。

レストランの窓から那珂川越しに見る早朝の福岡市内、眺望はなかなか良かったと思います。

つづく

 



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今回宿泊した西鉄イン福岡。ツインルームのシングルユース、朝食付き7500円と格安でした。

面積が23,6㎡という客室のベッドルーム。最近は少なくなったブラウン管テレビが置かれていました。テレビの下には冷蔵庫もあります。

小雪がちらついていた窓からの眺望は、那珂川越しの中洲のビルです。

バス・トイレユニットが狭い分、ベッドルームは広く、幅110cmのベッドも清潔でした。ひとつ難点があるとすれば、枕が少し高かったことぐらいでしょう。

ベッドのバネルで室温調節ができました。

ビジネスホテルなのでバストイレユニットは狭かったのですが、バスタブは深く中国のシティホテルのものよりも格段に使いやすかったです。

中国のホテルでは、バスタブが浅く、身体全体をお湯に沈めると浴槽からお湯が溢れだしそうになるケースが多いのです。福岡の夜明け

会社の中国人スタッフに聞いてみると、人が入ったバスタブの中に体を沈めるのは不潔なので、冬でもシャワーしか使わないという答えでした。那珂川の下流は北側となるようです。

つまり、ホテルのバスタブは、シャワーのためのスペースと考えられているので、深さは必要ないということなのでしょう。その拡大、那珂川河口の先の博多湾です。

東京・大阪など大都市では、シティホテルの利用が多いのですが、たまにはビジネスホテルも良いですね。

つづく 



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この日はすごい吹雪でしたが、今回宿泊したホテルは、西鉄イン福岡です。

明治通から入ると、このような狭い通路を通ってロビーにでます。

フロント前は、床が石貼りのロビー

ロビーには、インターネットコーナーもありましたが、ここまできてパソコンを触る気持ちにはなりませんでした。

インターネットコーナーから見たロビーです。右がホテルフロント

壁には、明治末期の福岡の大地図が掲示してありました。那珂川に架かる橋のすぐ左下が西鉄イン福岡のある場所でしょう。当時は福岡城が堀に囲まれていたようです。

客室階の廊下。左が福岡城側、右が中洲側です。

長期滞在客には有難い、ランドリーコーナーもありました。

エレベーターロビーに置かれたズボンプレッサーです。

つづく



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645年に中大兄皇子(626〜672年)が中臣鎌足(614〜669年)と共謀して蘇我入鹿を誅殺した(乙巳の変)は、「大化の改新」につながる重大事件ですが、入鹿の従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂(?〜649年)もその暗殺への協力者でした。特別史跡山田寺跡

入鹿の暗殺直後に入鹿の父親、蘇我蝦夷も館に火を放って自殺、天皇家を上回る実力を持っていた蘇我宗家が、蘇我氏に伝わる貴重な歴史資料と共に滅亡しています。山田寺は、蘇我氏傍流(蘇我入鹿のイトコ)の蘇我倉山田石川麻呂によって641年に発願され、648年には僧侶の居住が始まっていたようです。

蘇我宗家の館は、飛鳥板蓋宮からほど近い(約600m)甘樫の丘の麓にあったようですが、傍流の蘇我倉山田石川麻呂の屋敷は、その名前から推測すると飛鳥宮から1600mくらい離れた山田寺跡地付近にあったのではないでしょうか。敷地の東側

また、竹内峠の西、王陵の谷を含む石川までの地域も、彼の領地だったと(その名前から)推測することができるようです。敷地の北側のお堂には山田寺址の石碑

蘇我倉山田石川麻呂は、乙巳の変の後に改新政府の右大臣に任命されますが、異母弟の蘇我日向の讒言で長男の興志ら妻子と共に649年に山田寺で自害しています。山田寺は、その後14年間も放置されたままでしたが、663年になって石川麻呂の娘(遠智娘)を妃とする天智天皇が造営を再開しています。お堂

この事件は入鹿に替わって強大な実力を持った蘇我倉山田石川麻呂を除くための中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀だった可能性が指摘されています。塔の芯柱が建てられたのは、天武天皇が即位した673年、以後造営は順調に進み、蘇我倉山田石川麻呂の37回忌に当たる685年に丈六仏の開眼法要があり、40年もかかった工事が完了しています。。金堂跡地北側

その事件から10年後に生まれた中臣鎌足の次男、藤原不比等(659年〜720年)は、この蘇我氏の衰退をしっかりと研究し、息子の藤原四兄弟を結束させ、天皇家を補佐しながら一族が繁栄する藤原家の基礎を作っています。天武天皇時代に山田寺造営を進めたのは、天智天皇の次女(蘇我倉山田石川麻呂の孫で天武天皇の后)の持統天皇ではないかと考えられています。金堂跡地の南側

毛利元就が3人の息子に三本の矢の教訓を与えた背景には、蘇我氏の衰退と藤原氏の成功という歴史を知っていた可能性があり、結果的に毛利家は幕末までつづくのです。699年、持統天皇の孫に当たる文武天皇も山田寺に封戸を与え財政援助しています。685年からこの頃までの14年間が最も繁栄した時期だったのかも知れません。

平安時代の1023年、藤原道長が南都と高野山に詣でたときに山田寺に立ち寄り、その荘厳な伽藍を見て感動したと扶桑略記にあるので、完成から340年後も立派に残っていたようです。しかし、それから164年を経た1187年、興福寺の僧兵によって山田寺の本尊、丈六薬師三尊像が強奪され、興福寺東金堂の本尊となっています。(後の火災で頭部のみとなった旧山田寺仏頭のこと)

山田寺は、その後歴史から姿を消しますが、1982年の発掘調査時に飛鳥時代の回廊がそっくり倒壊したままで出土し、丈六薬師三尊像の強奪以来795年ぶりに歴史ファンの注目を集めたのです。

参考文献:日本の遺跡発掘物語9から山田寺跡 吉野富士雄著



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公式HPによると、岡寺(龍蓋寺)は天智天皇626672年)の勅願によって義淵(643?〜728年)が創建しています。その時期を天智天皇の最晩年とすると西暦672年前後となるのでしょうか。雪の仁王門(1612年の建立の重要文化財)

興福寺を総本山とする法相宗の祖、義淵は観音様の申し子として天智天皇に引き取られ、天智天皇の皇子、草壁皇子(662689年、文武天皇の父で岡宮御宇天皇とも呼ばれる)とともに岡宮で育てられたという伝説があります。仁王門の内側

その後の義淵は、蘇我馬子が建立した法興寺(現在の飛鳥寺で596年頃に創建)で法相宗を修め、草壁皇子の岡宮の地に創建した岡寺に入っています。(草壁皇子の没後とするなら689年頃でしょうか、義淵47歳)

岡寺の創建時の伽藍の場所はよくわかっていませんが、西に隣接する治田神社に古い礎石があり、白鳳時代の瓦が出土しているので同地にあった可能性が大きいようです。治田神社

義淵は、703年に僧正となり、玄(?~746)の他に奈良時代を代表する行基668749)・良弁(689774)・道鏡(700772)・隆尊(706760)などが弟子だったので、義淵の岡寺は当時日本仏教の総本山という位置にあったのではないでしょうか。本堂は1805年の建立

岡寺の正確な創建年は不明ですが、740年の正倉院書の中に龍蓋寺(岡寺)所蔵と書かれた仏典があるので当時既に岡寺が存在していたことは確実です。下の写真は義淵僧正の廟所(義淵の没後632年を経た1360年の建立、建立からすでに652年が経過しています)

平安時代初期(868年)の太政官符には、新薬師寺、法華寺、唐招提寺、興福寺、本元興寺、崇徳寺、西寺、海龍王寺、龍蓋寺(岡寺)の9寺から最勝会の僧を指定しているので、当時はまだ大和を代表する寺院だったようです。本堂

その後の岡寺は次第に衰退し、後に法相宗総本山興福寺の末寺となり、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務、江戸時代以降は真言宗豊山派総本山長谷寺の末寺となって今日に至っています。中央は楼門-慶長年間(15961615)頃建立 

その岡寺には、かつて三重塔がありましたが、1472年の大風で倒壊、それから514年後となる1986年にやっと再建されています

岡寺は、平安末期(900年前頃)から始まった西国33所観音霊場の7番札所となり、以来1100年以上の永きに渡り民衆の信仰を集めています。高台にある岡寺から見た明日香村 

岡寺は、京都にある有名寺院などより遥かに古い歴史を持った寺院でした。

参考文献:寺院神社大事典(大和紀伊)平凡社編



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蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院という法興寺は、元興寺とも呼ばれていますが、その後身が、現在の飛鳥寺です。かつての寺域は南北290m、東西200~250mという広大なものだったようです(明日香村の説明文)

法興寺は、蘇我氏の氏寺として6世紀末7世紀初頭にかけて造営された日本最古の本格的仏教寺院で、日本書紀には587年に蘇我馬子が建立を発願したとあります。東門

その造営のために百済から造寺の専門家が招聘され、(多数の日本人職人を指導しながら)592年に仏堂と歩廊とを起工、596年には法興寺を造り竟(おわ)りぬと日本書紀にあります。飛鳥寺本堂はかつての中金堂の位置にあります。

また仏像制作にも百済の専門家が呼ばれ、「鞍作鳥」をはじめとする日本仏師を助けてブロンズ製の本尊、釈迦三尊像を完成しています。本堂の南側、正面は塔の中心部を示す石

日本初の天皇勅願寺は、639年に造営開始された大官大寺ですが、蘇我宗家滅亡後の飛鳥寺も645年には天皇家の統制下に入ったようです。その645年に暗殺された蘇我入鹿の首塚という石塔が飛鳥寺西門跡の外にありました。

当時の飛鳥寺は、百済から多数の僧が招かれた仏教教育センターとなっていたようで、法相宗の祖、義淵もここで修業して後に岡寺に入っています。南側農地の先に回廊が接続された中門、さらに南門があったようです。

天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされていましたが、都が平城京へ移ると法興寺も移転(今の奈良市元興寺)、飛鳥の法興寺は本元興寺と呼ばれて残ったようです。

しかし、鎌倉時代初期の1196年の火災で焼失した後の衰退は著しく、本居宣長1772年に飛鳥寺を訪ねた際には「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったそうです。

昭和3132年(19561957年)の発掘調査の結果、当初の法興寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍が出土、中国南朝の伽藍配置を模したものと考えられています。

今の本堂は、江戸末期の1825年に再建されたものですが、現在の本堂の場所は馬子の建てた法興寺中金堂の跡地で、本尊の飛鳥大仏は飛鳥時代と同じ場所に安置されていることが判明しています。

参考文献:古代東アジアの仏教と王権 鈴木靖民編

つづく



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福岡出張で宿泊したホテルの窓から見た中洲の夜景です。

4階にベトナム領事館があるというアクア博多ビル。このビルのテナントスペースは満室だそうです。

 その拡大。まだ多くのサラリーマンが残業しているようですが、外が寒いので夜景写真はこれで終了し、寝ることにしました。

実は、一晩寝て元気が出たので、翌朝6時前から早朝散歩にでかけてみました。西大橋から見た中洲です。ネオンが消えているので冴えませんね。

中洲から見た福博であい橋とその先の西中洲です。

中洲の那珂川沿いにある遊歩道で、誰も歩いていません。

灘の川橋?から見た那珂川下流。余りに暗いのでピンボケ写真となっています。

そこから迷路のような地区を通って天神バスセンターまで足を伸ばしました。

福岡一番の繁華街ですが、早朝だったので誰も歩いていません。

つづく 



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折角福岡まで出かけたので、前から興味があったキャナルシティ博多を見てきました。キャナルシティ博多は、16年前の1996年に開業、現在では延床面積251,940㎡という巨大な複合商業施設となっています。

英語で「運河」を意味するキャナル の名前の通り、地下1階には運河が流れ、この運河を挟んだ西が「グランドハイアット福岡」、東側にキャナルシティ博多のほとんどの施設が配置されています。

運河沿いのステージでは、マジックショーなどの様々なイベントが行われ、週末には音楽ライブや地元テレビ局の番組収録なども頻繁に行われているそうですが、平日の寒い日だったせいか、この日にイベントは無かったようです。

建築デザインは、アメリカ人の建築家ジョン・ジャーディ、そ大胆なデザインは当時の日本の業界で高く評価され、2002年の電通本社商業施設、2003年に完成した六本木ヒルズの商業施設やなんばパークスも彼の事務所が担当しています。

従って、これらの施設には何となくアメリカ的な共通した部分があり、オーランドのウオルトディズニーワールドで見た建物や施設のデザインとも似ているように感じました。

実は、中国人も大胆なデザインが大好きで、現在の中国の大都市には、ジョン・ジャーディのものよりもっと奇抜で巨大な建物がどんどん完成しているようです。

このキャナルシティ博多のすぐ西側は、九州最大の歓楽街として有名な地区(中洲)で、風俗店ラブホテルが軒を並べていていました。

そこで、夕方ちょっとその歓楽街を見学してみると、狭い道の両側に軒を並べた風俗店の客引きから何度も声を掛けられました。

客引の声を無視して歓楽街から国体道路に出ると、急に雪が強くなってきました。那珂川に架かる春吉橋のたもとに出店していた屋台も寒そうですね。

つづく 



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日韓の俳優が共演する映画「マイウェイ 12,000キロの真実」を見ると、日韓の主役二人がノモンハンでソ連軍と戦い、ソ連の捕虜となる場面があります。

そこで1939年にあったノモンハン事件を調べて見ると、ノモンハン付近でソ連軍と日本軍との国境紛争が発生した際、関東軍(満州に駐在していた日本陸軍)は、配下の第23師団(小松原師団長)に、全面攻撃を命令しています。

当時の日本軍は、日露戦争で戦ったソ連(ロシア)軍を過小評価していて、ソ連軍の戦力分析を怠ったまま、国境を超えた外国領土への爆撃を強行し、戦争に突入したのです。

結果的に日本軍の損害は、戦死:7,720人、戦傷・戦病:約11,000人、合計約19,000人、日本軍としては日露戦争(19045年)以来最大の犠牲者を出してノモンハンは終っています。

実は、日露戦争の終戦時、作戦失敗や日本軍の弱点などが故意に削除され、日本軍は、肉弾突撃で物量を誇るロシアに勝てたという記録が参謀本部によって造られています。

弱点や問題点を明らかにすることより、それで傷つく官僚(軍人)達の体面を優先したことによって、それ以来の日本軍では苦戦に陥っても肉弾攻撃で必ず勝てると徹底して教育されたのでした。

日露戦争からノモンハン事件まで35間、この教育を受けた日本軍のエリト参謀達は、戦いの第一線から兵器・弾薬が無いとの連絡が入ると、無敵の戦術「肉弾突撃」を躊躇することなく命令し、このノモンハンでも多くの兵士を無駄死させたのです。彼等は責任を取ることなく、後に東京の参謀本部などに栄転しています。

この体質は、太平洋戦争の敗戦まで続くのですが、日露戦争の正しい記録を残し、その反省に立った対策を取ることができていれば、戦争に引き込まれることも無く、兵士の無駄死も無かったと思います。

先日、福島原発事故で政府対策本部の議事録が作られていなかったことが明らかになりました。

これが議事録の作成によって傷つく政治家や官僚の体面を考慮したのであれば、日露戦争時の日本軍と同じことを繰り返したことになるのではないでしょうか。

参考文献:ノモンハンの夏 半藤 一利著



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西大橋を渡って最初に見た巨大なビルは、19954月に開業した福岡県と民間の共同ビル、地上14階、延床面積97,493m²のアクロス福岡です。

このビルには、南の天神中央公園に面して屋上緑化ステップガーデンがあり「生物多様性保全につながる企業の緑100選」に選出されています。ビル内吹き抜けの上の光屋根

ここには、オフィスの他に福岡シンフォニーホール、福岡パスポートセンター、国際会議場などの公共施設が入居しています。贅沢な1階吹き抜け部の大空間

さて、南公園を横断して天神の中央、渡辺通まで足を延ばすと、突然雪が降ってきました。ここには西鉄の駅があるので、大阪で例えれば難波に当たる地区と考えればよいのでしょうか。

天神のメインストリート、渡辺通をホテルニューオータニのある南東方向に向かって歩いていると、吹雪の状態になってきました。Bivi福岡前

そこで、なんばウオークのような天神地下街に避難することにしました。地上に人影が少なかったのは吹雪を避けて地下街に避難した人が多かったせいでしょう。

少し時間が経ってから地上に出てみると、雪は小降になっていました。三越前

渡辺通と昭和通交差点まで歩き、昭和通を東に進むと、辰野金吾・片岡安事務所の設計で1909年に完成した日本生命福岡支店が福岡市赤煉瓦文化館として残されていました。辰野金吾の作品は、1903年に完成した淀屋橋の日銀大阪支店や1912年のオペラドメーヌ高麗橋(旧大阪教育生命保険ビル)などが有名です。

そこから中洲に渡り、那珂川通を南東に向かって歩いていると、ちょうど屋台が店開きをするところでした。

つづく

 



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今年一番の冷え込みがあった日、17年ぶりの福岡に行ってきました。途中、新幹線のぞみは積雪のために厚狭駅に臨時停車するハプニングが。

到着した博多駅で、つばめマークがペイントされた九州新幹線の車両を初めて目にしました。

改札出口までの通路は、新大阪駅と違って広いスペースが確保されていて歩き易かったですね。また博多駅のコンコースに下りて入ったトイレが清潔だったのにはびっくりしました。(写真なし)。

新幹線改札から近い博多駅の筑紫側の様子です。すこしごちゃごちゃしていたので裏口に当たるのでしょう。

長い通路を通ってたどりついた反対側の博多口。広い駅前広場が確保され、正面には巨大なビルがありましたのでこちらが正面ということなのでしょう。

振り返って見た巨大な駅ビルには、阪急百貨店がテナントとして入っているそうですが、阪急のマークを見つけることができませんでした。

さて、大阪と同じ初乗り料金200円という地下鉄に乗って市内へ移動します。

地下鉄博多駅もそうですが、到着した中洲川端駅のホームには、線路とホームとの間に転落防止用の開閉ゲートが設置されていました。

地下鉄から地上に出て西大橋を渡ると、福岡市の中心となる天神地区です。

つづく



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聖徳太子誕生の地とされる橘寺には古い縁起が無く、中世に編纂された聖徳太子伝や諸寺縁起集の記事があるだけです。

従って橘寺の創建年代は不明で、西暦680年、橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた(当時は尼寺だった?)と日本書紀にあるのが文献上の初見とされています。

しかし、橘寺のパンフレット「橘寺の創建と変遷」によれば、推古天皇がこの地に寺を建てるよう聖徳太子に命じた606年を創建年としていました。

当初は東西870m、南北650mの寺地に金堂、講堂、五重塔をはじめ66棟の堂舎が立ち並んでいたともありました。観音堂左は護摩堂

発掘調査の結果では、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明しています。

五重塔は、1148年に落雷で焼失、60年後に三重塔として再建されましたが、1506年に多武峯の兵による焼き打ちで再び焼失しています。経堂

この時の焼き打ちで、橘寺に伝わる古文書類も失われてしまったのではないでしょうか。鐘楼

本坊の前にある土壇には、その基礎石(直径90cm)が残っていて、芯柱を入れる穴と添柱の穴から、塔の高さは38m余りあったと推定されています。

多武峯の兵による焼き打ちから幕末までの368年間、僧舎1棟を残すだけで、寺地は基礎石だけ残った状態だったようです。本坊

現在の本堂は、1864年に再建されたもので、本尊として聖徳太子坐像が安置されています。本堂(太子堂)

この本堂の脇には、左右に善相と悪相が彫られ、人の心の二面性を表現している飛鳥時代の二面石があることが知られています。



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川原寺から南東への坂道を上ると、国営飛鳥歴史公園石舞台地区に入ります。左の道の100m先が石舞台古墳です。

古墳としての墳丘は失われていますが、下部は一辺55mの方形で花崗岩の貼石を積み並べ、墳丘の周りに幅68mの空堀がめぐり、幅約7mの外堤は一辺約80mという巨大なものです。入場料は250円

石舞台古墳の被葬者は、聖徳太子の叔父に当たる蘇我馬子(550?~626年)であったとする説が有力で、過去の発掘調査で出土した土器も7世紀前半のものが最も多かったようです。

没年が馬子とほぼ同時代と推測される舒明天皇の父(中大兄皇子の祖父)、押坂彦人大兄皇子の牧野古墳(径50m)石室の全長は、17m、皇子よりも大きな石室を造ることができた7世紀前半の権力者は、蘇我馬子しかいなかったことが傍証となっています。

石舞台古墳の石室の全長は19.1m、玄室を覆う天井石は、入り口から奥の方(写真の右)が77トン、手前(写真左側)が64トン、今から1384年くらい前に約3キロ先の高市村から修羅を使って運ばれてきたと推定されています。

馬子の墓を造営(628年)したのは、嫡男の蘇我蝦夷(586~645年)、同年には推古天皇が崩御し、山背大兄皇子(聖徳太子の子)と田村皇子(敏達天皇の孫)が候補となりますが、蝦夷が支持した田村皇子が舒明天皇として629年に即位しています。このことからも、当時の蘇我氏の実力が判ると思います。

舒明天皇(593~641年)の崩御から2年後、蝦夷の嫡男の蘇我入鹿(610~645年)は、斑鳩宮の山背大兄皇子を攻めて自殺に追い込み、最高権力者の地位を確保しています。石室

645年、入鹿の専横を見ていた舒明天皇の次男、中大兄皇子は飛鳥板蓋宮の大極殿において入鹿を暗殺、馬子以来の蘇我本家が歴史から姿を消し、大化の改新へと続くのです。

小雪の舞う寒い平日だったせいで、観光客は全くいませんでした。飛鳥路をじっくりと楽しむのなら、大寒の時期の平日がお薦めです。石室の天井

参考文献:日本の遺跡発掘物語6石舞台古墳 石倉 明著



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聖徳太子(574~622年)が生まれた寺として知られる橘寺のすぐ北側の平地には、橘寺よりもはるかに広大な川原寺の跡地が広がっています。 

 

 

 川原寺は、天智天皇(626~672年)が母の斉明天皇(594~661年)の病気回復を願って建立したという説が有力なので、西暦660年頃にはこの地にあったことになります。 

 

 

 また川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ四大官寺とされ、天武天皇(631~686年)の病気平癒や追善祈願があったことも知られています。川原寺の南は現存している橘寺

  

 

 平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移しましたが、川原寺だけは移転せず、飛鳥の地にとどまっています。

  

 

 その後、持統天皇(645~703年)の法要、聖武天皇の延命祈願、光仁天皇の父の追善供養、桓武天皇の水田施入、嵯峨天皇、淳和天皇(786~840年)の祈願など奈良時代から平安初期まで、飛鳥の地で天皇家の寺院としての役割を果たしていたようです。 現在の飛鳥

 

 

 

また川原寺の道明は、長谷寺の創建にかかわった記録があり、空海(774~835年)は、高野山と平安京との中継基地として嵯峨天皇から川原寺を賜ったとされ、のちに空海の弟子の真然や聖宝(832~909年)が川原寺の検校となっています。川原寺跡地の東方向 

 

 

 このことから、川原寺が飛鳥の地にとどまったのは、最初は吉野山、後に高野山と京との間を往来する修行僧のための官寺を(中継基地として)残しておく必要があったのでしょう。雪の橘寺 

 

 

 1070年の史料に、川原寺(弘福寺)の火災が記録されていますが、すぐ再建されたようで、九条兼実の日記には1191年に再度炎上したことが記載されています。

 

 

 

 その後、鎌倉時代に再興されますが、室町時代末期の雷火で再び焼失、以後はかつての規模を取り戻すことはなく、現在は中金堂があった付近に、法灯を継ぐ弘福寺(ぐふくじ)として残っています。

 

 

 

 つづく

 

参考文献:怪異学の技法(川原寺と怨霊) 大江 篤著



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