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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



聖徳太子(574~622年)が生まれた寺として知られる橘寺のすぐ北側の平地には、橘寺よりもはるかに広大な川原寺の跡地が広がっています。 

 

 

 川原寺は、天智天皇(626~672年)が母の斉明天皇(594~661年)の病気回復を願って建立したという説が有力なので、西暦660年頃にはこの地にあったことになります。 

 

 

 また川原寺は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ四大官寺とされ、天武天皇(631~686年)の病気平癒や追善祈願があったことも知られています。川原寺の南は現存している橘寺

  

 

 平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移しましたが、川原寺だけは移転せず、飛鳥の地にとどまっています。

  

 

 その後、持統天皇(645~703年)の法要、聖武天皇の延命祈願、光仁天皇の父の追善供養、桓武天皇の水田施入、嵯峨天皇、淳和天皇(786~840年)の祈願など奈良時代から平安初期まで、飛鳥の地で天皇家の寺院としての役割を果たしていたようです。 現在の飛鳥

 

 

 

また川原寺の道明は、長谷寺の創建にかかわった記録があり、空海(774~835年)は、高野山と平安京との中継基地として嵯峨天皇から川原寺を賜ったとされ、のちに空海の弟子の真然や聖宝(832~909年)が川原寺の検校となっています。川原寺跡地の東方向 

 

 

 このことから、川原寺が飛鳥の地にとどまったのは、最初は吉野山、後に高野山と京との間を往来する修行僧のための官寺を(中継基地として)残しておく必要があったのでしょう。雪の橘寺 

 

 

 1070年の史料に、川原寺(弘福寺)の火災が記録されていますが、すぐ再建されたようで、九条兼実の日記には1191年に再度炎上したことが記載されています。

 

 

 

 その後、鎌倉時代に再興されますが、室町時代末期の雷火で再び焼失、以後はかつての規模を取り戻すことはなく、現在は中金堂があった付近に、法灯を継ぐ弘福寺(ぐふくじ)として残っています。

 

 

 

 つづく

 

参考文献:怪異学の技法(川原寺と怨霊) 大江 篤著



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