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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



攘夷一辺倒の孝明天皇によって兵庫開港は差し止められていましたが、慶応2年12月25日、孝明天皇が病気で急逝、御大喪が済んだ翌慶応3年(西暦1867年)2月5日、徳川慶喜は、仏国公使レオン・ロッシュを謁見するために大坂城に入っています。大阪城の追手門

   

 

仏国公使ロッシュを親しく謁見したのは、兵庫開港が遅れている問題を、諸外国外交団と調整してもらうためだったようです。大手門

 

 

 

 

同年3月5日、慶喜は朝廷に改めて兵庫開港を奏請、これに対して薩長派の公卿が反対したため、朝廷最高ポストにいた摂政の二条 斉敬(18161878)は、慶喜の奏請を却下しています。追手門内枡形の多門櫓 

 

 

しかし、すでに兵庫開港を決意していた慶喜は、3月25日に大坂城で英国全権公使ハリー・パークス(18281885年、中国を第二次阿片戦争に引き込んだ外交官)を内謁見しています。パークスが通った多門櫓の内側

  

 

パークスは、英国士官多数を引き連れて大坂城に堂々と登城、慶喜との謁見を終わったあと、大坂城本丸大広間の庭でサラブレッドに乗馬した英国騎兵の競技を披露、将軍と幕府幹部は、大型の馬を自由自在に操る騎兵の高度なテクニックに目を見張ったといいます。西の丸から見た大阪城天守閣(幕末には存在しなかった)

  

 

謁見を終えたパークスが京都を見物したいと申し出たため、幕府は代わりに敦賀への旅行を許可しています。パークスはこの桜門から本丸に入っています。 

 

 

慶応3年4月15日、パークス一行は敦賀を目指して大坂から伏見を通過したことで、朝廷は(京都に駐在していた将軍、京都守護職、京都所司代を無視し)薩摩・因幡・備前の3藩に京都警備を命じる前代未聞の挙に出たのです。パークスが登城した当時の桜門の写真(蛸石の蛸模様がはっきり写っています)

 

 

このパークス一行伏見通過事件で、幕府の権威は完全に失墜、8カ月後の王政復古では、薩・土・安芸・尾張・越前の5藩が御所を固め、その2か月後の夜、将軍慶喜、京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬は二条城を密かに脱出、大坂城に入るのです。大阪城天守閣の西側  

翌年1月、鳥羽伏見の戦いが始まると幕府は崩壊、第二次アヘン戦争を引き起こし清朝を引き倒したパークスは、日本でも幕府を引き倒すきっかけを作ったのでした。大阪城天守閣の夕景 

 

 

参考文献:明治大帝 立野信之



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大阪港天保山埠頭に1989年に就航し、独立行政法人航海訓練所が運航している海王丸が入港していたのでちょっと見てきました。

海王丸の船首像は、先代海王丸から引き継いだ横笛を吹く若い女性紺青」、舳先のカーブに合して取りつけられています。

海王丸は、一般社会人向けの体験航海、遠洋航海コースも実施しているようですが、海事教育を優先するため、一般募集枠が少なくなる場合もあるそうです。搭乗タラップは船に収納されているのでしょうか。

この海王丸は、帆走時に抵抗となるプロペラの角度を調整できる機能付の可変ピッチプロペラを採用していて、帆走性能は日本丸を上回るようです。後方から見た海王丸。

同じ帆船の日本丸とは、船首像、船体のライン数、救命艇の形状、後部フード(舵輪の屋根)が違っているそうです。 こちらは先頭からみた海王丸。

横から見ると、帆柱が少し後方に傾いて見えます。NTTドコモビル屋上のアンテナ塔が、5本目の帆柱のように写っていました。メインマストの高さは、甲板から43,5mもあるそうです。

海王丸の総トン数は2556トン、全長110m、幅13,8m、帆の面積は2760㎡とか。真横からの写真。

この船には、最大199名が搭乗でき、航続距離は1万8千キロといわれています。真正面からの写真。

これは咲洲シーサイドコスモから見た海王丸です。距離が遠いので画像が少しボケています。

公式HPによれば海王丸は、明日9月15日に出港し、9月28日に神戸港に入港する予定だそうです。



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大阪南港から「フェリーさんふらわあ」に2泊する九州旅行もいよいよ最終日、3日目を向かえました。3日目の朝、日の出を見にデッキに出てみると、もうカメラを構えた先客がいるではありませんか。

淡路島と言えば、明石海峡大橋です。船が左に舵を取ったので、朝日は橋の中央に来て、海と「さんふらあ」のデッキをオレンジ色に染めていました。

橋が近づくと、さらに5~6人の客がデッキに出てきましたが、確かにこの風景は、一見の価値があると思います。

「フェリーさんふらわあ」は、いよいよ明石海峡大橋の下を潜ります。

時速40キロのスピードで、あっという間に通過してしまいました。

通過後の明石海峡大橋全景。

橋は次第に小さくなってゆきます。

「フェリーさんふらわあ」は、淡路島をバックに、神戸沖を一路大阪に向かいます。煙突の橙色は、名門の商船三井グループの印。

朝7時20分、「フェリーさんふらわあ」は、定刻よりも少し早く、大阪南港コスモフェリーターミナルに到着です。

8回に渡って、2泊3日の九州旅行を紹介しましたが、たまにはこんな旅行も良いものですね。



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高千穂からの帰りは、豊後竹田を通って旧やまなみハイウエイに乗るルートを取ります。その途中、久住高原にあるくじゅう花公園に寄り道しました。この入場料600円はツアー料金の中に含まれていました。

雄大な久住高原にある「くじゅう花公園」は、20ヘクタールの敷地(大阪長居植物園が24ヘクタール)に、500種、300万本もの花が植えられているそうです。今の時期ケイトウが満開でした。

標高800mのよく整備された園内には、客を楽しませる12ものショップとハーブの足湯がうまく配置されていました。

1993年に開園していますが、2003年をピークに入場者が減少しているそうです。こちらは九重連山方向、花公園は日が当たっていますが、山は雲に覆われていました。サルビアも満開でした。

そのために財務状況が悪化、2009年からは社員の有志が新会社を設立し、運営を続けているそうです。こちらは阿蘇山方向。阿蘇も雲に覆われています。

この花公園の観賞時間は、40分しか無かったので、急いで園内を一周してみました。もうコスモスの花が咲き始めています。

この花公園のコスモスは、9月中旬から10月にかけて見頃を迎えるようです。

小道の先は、花公園のお土産ショップとレストランです。

園内をほぼ一周し、彩りの丘に咲くケイトウを写真に撮っておきました。右上が入場ゲートです。

長居植物園に匹敵する面積に、圧倒的な株数の花を贅沢に配置した「くじゅう花公園」、機会があれば、又行ってみたいと思います。

つづく



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天岩戸神話の故郷、高千穂峡には、こんなに立派な橋も架かっていました。

今回の2泊3日の旅行には、昼食が付いていて、昼食は、橋の傍にある古民家の中で頂きました。

ふるさとの茶屋 神楽宿 千穂の家への入り口ですが、なかなか良い雰囲気です。

このスロープを上り、途中から右に曲がるとその古民家があります。

260年前に建てられたという茅葺の古民家です。神社にあるような千木が屋根の上に載っているのが、高千穂の民家の特長です。

ツアー料金に含まれていた昼食です。中央の蕎麦のようなものは、黒米で作ったという、のど越しが良いそうめん。

古民家の座敷は、夜神楽の舞台としても使われていて、その舞台飾りの真下が昼食会場となっていました。

すこし坂を上った先には、古民具の展示館もあります。この建物の屋根にも千木が載っていましたが、日本の神社建築のルーツは、高千穂にあるのかもしれません。

その中は、古い民具で一杯です。ゆっくりと見て回る時間が無かったのが心残りでした。

つづく



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高千穂旅行の記事の途中ですが、もう一回だけ中断させて頂き、昨日シーサイドコスモから見た大阪港の風景をご紹介しましょう。

最も天保山寄りまで歩いてから、よく見ると、天保山埠頭に帆船が寄港しているようです。

写真を拡大してみると、船尾に海王丸という文字が確認でき、どうやら2年ぶりに大阪に寄港したようです。

9月9日金曜日には、中学生対象の船内見学会があったようですが、海王丸は何と梅田の高層ビルのすぐ手前に写っています。

こうして見ると、梅田と大阪港は、意外と近いようなのです。

すこし時間が経つと、日が沈みかけ、梅田のビルが少しオレンジ色に染まりはじめました。

そのオレンジ色の元、夕日です。

その夕日を拡大してみました。

この日の日没は、6時15分、ゆっくりと神戸の須磨の谷に沈んでゆきました。

 



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お待たせしました。高千穂シリーズの続きです。さて、黒潮が押し寄せる宮崎県(日向)は、南方からの文化の玄関口となっていて、考古学上の遺跡が多いことで知られています。なかでも高千穂地方の遺跡の数は目立ち、縄文早期から晩期に至る遺跡は10か所以上に上るそうです。そこで高千穂峡とともにその歴史と天孫降臨伝説をご紹介しましょう。

高千穂には、縄文時代だけでなく弥生時代の遺跡も多く、さらに古墳遺跡も40か所以上もあるので、高千穂地方が日本の古代文化の中心地だったことは間違い無いようです。写真は高千穂峡を真名井の滝まで下るポイント。

日向国風土記逸文には、「臼杵の郡の内、知穂郷。天津彦彦火瓊瓊杵尊(以降ニニギノミコト)、天の磐座を離れ、天の八重雲を押し分けて(中略)日向の高千穂の二上の峯に天降りましき」とあります。ここから3つの橋が同時に見渡せます。

ニニギノミコトは、天照大神孫に当たり、天照大神の命により、葦原中国(日本)を統治するため高天原から地上に降りたとされています。岩(玄武岩)が川の水で深く浸食されています。

これを天孫降臨と呼び、ニニギノミコトが降臨した場所、日向の臼杵郡知穂郷は、現在の「高千穂町」です。すこし開けた場所もありました。

島連峰の「高千穂峰」という説もありますが、高千穂峰の場合は、山の名称だけで付近に「高千穂」の地名が無いので、高千穂町説の方が有力視されています。絶壁

さて、高千穂の元となったチホの地名は、古くから文献に登場していて、この地域が永い歴史を持ち、集団としての神の聖地を古くから護持してきたことを示しています。約30分で真名井の滝が見えてきました。

そのひとつ、高千穂町にある天岩戸神社は、西本宮から谷越しにご神体(天岩戸)の神域を見ることができます。高千穂峡屈指の写真スポット。

天岩戸は、天上界(高千穂などの高い場所)にあるはずなのに、伊勢神宮外宮、伊勢市二見、京都府、徳島県など高千穂以外にある天岩戸は低い場所にあるので神話と合致していません。真名井の滝を上から

ニニギノミコトのひ孫、神武天皇は、日向国から大和への東征を開始したとされているので、高千穂地方は、日本の歴史に深くかかわっているのです。

参考文献:日本の神々 神社と聖地 九州 谷川健一編

つづく



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毎日通勤している御堂筋が少しづつ変わってきているので、九州旅行の記事を1回だけ中断してご紹介しましょう。まず御堂筋から心斎橋筋までの道頓堀遊歩道です。南側はもう工事が終わったようですね。

道頓堀からほど近い、ルイヴィトンの新しい店は、もうオープンしていました。

大丸心斎橋店北館の外を飾る曲がった壁は、元あった「そごう本店」のSをデザインしていたのではないでしょうか。

長堀通のルイヴィトンは、工事中でした。ショップを囲うパネルも、ルイヴィトンらしい高級感がありますね。

少し前までベネトンショップだったビルは、ちょうど改装工事中でした。

よくみると、東京スター銀行と書いてあります。御堂筋から多くの銀行店舗が撤退する中、なかなか頑張っていますね。

東京スター銀行の先、御堂筋に面したこの土地には、かつてオフィスビルがあったのですが、解体後は駐車場のままです。御堂筋に面した広い土地がこれでは寂しいですね。

先日完成した本町南ガーデンシティビルにはバリケードが置かれ、せっかく完成したのに使われていないようです。これも御堂筋の寂しい現状です。

そのすぐ北側にある新築ビルには、やっと自動車会社の入居が決まったようです。

 



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熊本県との県境にある宮崎県高千穂町には、岩戸隠れ神話で有名な天岩戸神社があります。天岩戸神社西本宮

岩戸隠れの神話とは、古事記と日本書紀の両方にあり、高天原(たかまがはら、天上の国)での建速須佐之男命(以下スサノオノ)の乱暴を怒った姉の天照大神(太陽神)が天岩戸に隠れ、世界が真っ暗になってしまったというものです。

スサノオの乱暴は、暴風雨などの災害を象徴し、天照大神の岩戸隠れは、日食や冬の日射時間が短くなることを象徴しているとも言われています。案内図に天岩戸の場所が描かれています。

 

また、高天原(高地にある高千穂地方)が、火山(阿蘇山)の噴火で昼間でも暗くなったことを伝えているという説もあるようです。

八百万の神々は、天照大神を天岩戸から連れ出すために天安河原で相談し、まず鶏を集めて賑やかに鳴かせ、次に岩戸の前で女神(天宇受賣命、以下アメノウズメ)に踊らせ、皆が精いっぱい笑ったそうです。祓所の先は神体山

その笑い声で天照大神は、天岩戸を少し開け「なぜ、アメノウズメは楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているの」と、聞いたといいます。神門

そのとき隠れていた天手力雄命(タジカラオ)が一気に天照大神を岩戸の外へ連れ出し、高天原と下界(葦原中国)が元のように明るくなったのでした。アメノウズメが舞うときに持ったという招霊の木(オガタマノキ)

日本各地に見られる鶏を放し飼いにした神社は、八百万の神がこのとき鶏を集めたことを起源としているのです。社殿の先、谷の向うが神体山(天岩戸のある山)、神職の案内があれば社殿の裏にも入れますが、写真撮影はできません。

天照大神を怒らせたスサノオは、八百万の神によって高天原から追放され、葦原中国の出雲に流れてヤマタノオロチ退治へと話は続くのです。神楽殿

神話の高天原とは、天上界のように高い山の中にある高千穂地方のことで、天岩戸神社の神体山にある洞窟は、神話の天岩戸だったのではないでしょうか。

つづく



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別府港を8時に出発したバスは、曇り空の海地獄前を通り、大分自動車道に乗って豊後富士(1583m)の北側を迂回するように湯布院インターまで走り、そこから旧やまなみハイウェイに入ります。

バスの窓からちょっとだけ湯布院温泉のある盆地を見ることができました。湯布院への観光客は日帰りを含めると年間400万人もいるそうです。

さて、1964年から1994年まで日本道路公団が管理運営してい「やまなみハイウェイ」は、30年の期限満了とともに県道となり無料開放されていました。ハイウェイからは九州の雄大な草原風景が広がります。

日本道路公団が管理していた時期は、冬季の除雪が徹底されていましたが、無料の県道となった現在では、積雪のせいで通行止めとなることが多くなったようです。

さて、旧やまなみハイウェイに乗って1時間半、大分県から熊本県に入ると、南に阿蘇山を見下ろす瀬ノ本高原です。

 

それにしても、絶えず揺れるバスの中から、雄大な景色を写すのは至難の業でした。途中の展望台

この写真は、休憩した三愛レストハウス屋上展望台から撮ったものです。

三愛レストハウスを出たバスは、阿蘇山の東側を大きく迂回して熊本県から宮崎県へ、1時間半ものノンストップドライブとなりました。

うとうとしていると、バスは宮崎県の山中に入りました。今回の目的地はもう近いようです。

つづく

 



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「さんふらわあ」を運航する(株)フェリーさんふらわあは、もともとこの航路を運航していた関西汽船ダイヤモンドフェリーともに商船三井の子会社)の親会社として2009年に設立されています。大阪南港を夜8時に出港した「さんふらわあ」は、朝5時半頃に日の出を迎えます。

今回乗船した「さんふらわあ こばると」は、1998年に就航した総トン数9245トン、全長は153m、幅が25mもある大型フェリーです。6,7人の乗船客が早起きして、日の出を写真に撮っていましたので、この朝日は彼等のブログにも掲載されているかもしれません。

しかしフェリー業界を取り巻く環境は厳しく、来月(2011年10月)1日には、フェリーさんふらわあ、関西汽船、ダイヤモンドフェリーが合併し、新たに設立する「株式会社フェリーさんふらわあ」によって事業が継続されると発表されています。 こちらは船首側です。

その際には古くから馴染みのある「関西汽船」という会社名は、消滅するかも知れませんね。さて、朝日を撮ったあとは、レストランでの朝食です。この中からご飯とみそ汁セットで550円という和定食をチョイスしました。

「株式会社フェリーさんふらわあ」の新しい本社は、コストの安い大分市に置かれ、大阪と別府間(大阪と志布志間もあり)を毎日上下1便の運航は継続するようです。これが早朝のレストラン内部です。

大阪から別府間までの航行中、揺れを感じたのは別府入港の少し前、豊後水道を横断するときだけでした。 レストランの外にある自販機コーナーには、ビールもあり良心的な価格で販売されていました。

「さんふらわあ こばると」の煙突の塗装(ファンネルマーク)は、商船三井グループの船であることを示す橙色が採用されています。

この「さんふらわあ こばると」の旅客定員は710名、トラック100台・乗用車100台を搭載し、巡航速力22.4ノット(時速約40キロ)で航行しているとか。やっと別府の街が見えてきました。

定刻より少し早く別府に到着、これからいよいよ大分、熊本、宮崎3県をまたぎ、まるまる1日を使うバスの旅が始まります。

つづく



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先日、2泊(2泊とも船中)3日の格安九州ツアーを楽しんできましたので、ご報告しましょう。南港コスモフェリーターミナルに接岸した「さんふらわあ こばると」

ATCコスモフェリーターミナルからの乗船通路は、さんふらわあのレストラン階ロビーにつながっていて、我々格安ツアーの船室(ツーリスト)は、階段を上ったところにありました。

さんふらわあでは、週末限定で本格的なジャズ演奏のサービスがあり、音楽好きの乗船客には好評だったようです。

宿泊する大広間、隣とピッタリ近接した幅60センチが、今夜の寝床です。2泊3日の格安旅行なので仕方ありませんが、たまにはこんな旅も面白いものです。

船室に荷物を置いて、レストラン階に下り、ツアー仲間と賑やかな夕食となりました。

その食事中でしたが、さんふらわの出港を撮影するためにちょっと外に出てみました。

辺りがすっかり暗くなった午後8時、さんふらわあは、大阪府庁咲洲庁舎(旧WTCビル)の見えるフェリー埠頭から次第に離れてゆきます。

岸壁の明かりは強烈でしたが、海の上はかなり暗く、船の振動でぶれないように写真を撮るのが難しくなってきました。

しかし、夜出港するフェリーの上から、この程度の写真なら撮ることができるので、デジカメの性能向上は目覚ましいですね。

上の写真を最後にレストランに戻り、11時頃までツアー仲間とワイワイ盛り上がったので、明石海峡大橋の夜景は撮影できなかったのでした。

つづく



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下の地図、昆陽池の右、伊丹緑地と書かれた辺りには、かつて白洲次郎(1902~1985年)が住んでいた広大な白洲屋敷があったというので、見てきました。

白洲次郎の祖父退蔵は、明治維新前に三田藩(3万6千石の九鬼氏)の家老、明治に入ってからは藩主が就任した県令に次ぐ県大参事を務めていて、幕末までの白洲家は、妻正子の実家(薩摩藩士の樺山家)よりも格上の武家だったようです。猪名野神社の西側の道を進み、その先を東に曲がります。

 

 

 

1871年(明治4年)白洲退蔵は、貿易会社志摩三商店の社長に就任、友人だった福沢諭吉の推薦で1883年(明治16年)には横浜正金銀行頭取、後に官吏となり1891年(明治24年)に没しています。猪名野神社北側の伊丹緑地の遊歩道を伊丹阪方向へ進みます。

白洲次郎の父、白洲文平(ふみひら、18691935年)は、退蔵の長男で、名門の御曹司らしく1887年(明治20年)ハーバード大学に留学、続いてドイツのボン大学にも留学、そこで新渡戸稲造、近衛篤麿(文麿の父)、樺山愛輔(次郎の妻正子の父)、池田成彬などと出会い交流していますので、単なる商人ではなかったのです。道路の高架を潜る遊歩道をさらに先に進みます。

帰国した白洲文平は、三井銀行、大阪紡績(今の東洋紡)に勤務した後、神戸市に白洲商店を設立し綿花貿易で成功、その収益で大名家から放出された美術品を大量に収集し、米国ボストン美術館で白洲文平コレクション展を開催した記録が残っています。遊歩道の西(左側)は、かなりの高台となっていますが、そこが白洲屋敷だったようです。

絶頂期の文平は、伊丹に土地4万坪(上の地図にある昆陽池3,8万坪よりやや広い)を購入、広大な住宅やコレクションを展示する美術館、給水塔などを建てて楽しんだようです。遊歩道の途中にある白洲屋敷跡の石碑(左)

文平の二男、次郎(19歳)は、1921年(大正10年)英国に留学、文平は次郎が英国貴族と対等に付き合えるよう毎月1万円(現在の価値では毎月3000万円)仕送りしていたといいます。

 

祖父が大名家の家老で父親も海外留学経験者だった上流階級としての誇りと、金銭的にイギリス貴族と対等以上に付き合った経験があったこと、白洲次郎が終戦時に堂々とGHQと交渉できた由縁でしょう。

 

 

その後、文平の白洲商店は、金融恐慌で1928年(昭和3年)倒産しますが、翌年結婚した白洲次郎と正子は、伊丹町役場に婚姻届を提出、東京に転居するまで伊丹の白洲屋敷に新居を構えています。

伊丹の白洲屋敷は、昭和14年頃に人手に渡り(伊丹市教育委員会の記事)敷地は住宅地として細分化されますが、巨大な給水塔だけは昭和50年代まで残っていたといいます。細分化され住宅地となった白洲屋敷跡

白洲次郎が伊丹市に住んでいて、正子との結婚後に伊丹町役場に婚姻届を出していたことを知る人は、少ないのではないでしょうか。

 

参考文献:白洲次郎 占領を背負った男 北 康利著



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新京極通から1本東の河原町通に出て、少し北に歩くと御池通との交差点で、その北西角地に京都市役所があります。

河原町通を挟んだ市役所の東側は、幕末期の長州藩邸跡地で、現在そこに建っている京都ホテルオークラの南側(御池通)を、東に向かって散歩を続けます。

京都ホテルオークラの東側には、今も情緒豊かな高瀬川が流れています。

この辺りは、高瀬川の上流地点で、一之船入(桜の背後に見える水路)と呼ばれていた地域です。

その北側は、この地で1875年に創業した島津製作所の創業記念資料館で、9時30分から一般に公開されていました。

その向かいは、高瀬川を開いた角倉了以の別邸跡地で、いまは「料亭がんこ」として使われているようです。

その前の道を三条通りに向かって引き返すと、レンガ外壁の幾松維新庵ビルがあり、狭い右の路地に幾松という看板が出ていました。

路地の右隅に、「桂小五郎幾松寓居」と書かれた石碑があるので、幕末に活躍した桂小五郎と幾松(後の夫人)は、ここに潜んでいたようです。

南に下って三条小橋まで来ると、佐久間象山、大村益次郎の名前が刻まれた遭難碑があり、日本歴史を彩る有名人がこの辺りを歩いていたことが判ります。

歴史マニアにとって、京都の街ほど興味深い場所はありませんね。



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さて錦市場のある錦小路通の東の突き当りには、1003年に創建され、秀吉によって1587年この地に移転した錦天満宮神社が鎮座しています。鳥居の上(笠木と貫)が両側のビルの中にめり込んでいるように見えます。

政権を取った豊臣秀吉は、市中にあった寺院の多くをこの地域に集め、その境内が縁日の舞台や見世物小屋として使われたため、以降この地域が賑わったと言います。錦天満宮の拝殿

無味無臭、無菌で飲用適、持ち帰り自由という京都の名水「錦の水」。この写真反対側にある手水所に、取水できる「錦の水」の蛇口がありました。

そこから新京極通を北に歩きます。早朝だったせいで両側の店はシャッターが下り、人通りもまばらでした。

寺町に並んでいた秀吉以来の寺院の境内は、維新後となる明治5年整備され、寺町通の東側にこの新京極通が誕生しています。新京極通に面した、くさよけ(疱瘡除け)立江地蔵大菩薩善長寺

西南戦争が終わった明治10年頃からは、この地に芝居小屋、浄瑠璃、寄席などの興業場や飲食店が立ち並ぶようになったようです。蛸薬師堂永福寺も新京極通りに面し、ここから西に延びる道は蛸薬師通りです。蛸薬師の右隣は、広島県三原のパン屋さん、創業が昭和8年の八天堂。

明治30年代になると、東京浅草、大阪千日前と並ぶ日本三大盛り場として知られるようになっています。秀吉以来の境内を新京極通として手放したために狭くなってしまった蛸薬師堂。

さらに北に歩き、新京極通に面している誠心院の墓地に入ると、入り口のすぐ近くに和泉式部の供養塔がありました。誠心院も秀吉によって移転してきていますが、繁華街に面して和泉式部の供養塔があるとは、さすが京都ですね。

蛸薬師通から1本北側の通、六角通の東の突き当りは、かつて6500坪もの広大な境内があったという浄土宗西山深草派総本山誓願寺です。

今も 新京極通には、7つの寺院と1つの神社が軒を並べ、通りの歴史を伝えています。



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