京都御所の西南部から鴨川を越えて東に直線1600m、春日北通りの突き当たりに黒谷金戒光明寺の高麗門があります。
京都守護職として1000名の兵を率いて京都に入った会津藩主松平容保(1836〜1893年)が文久2年12月(1862年)から金戒光明寺を本陣としたことは良く知られています。そこで、現在の金戒光明寺と、容保が京都守護職を拝命した経緯についてご紹介しましょう。 石段の先が御影堂
容保が火中の栗を拾うような京都守護職を受けたのは、松平春嶽の説得があったことが知られていますが、徳川親藩大名の中で最強の軍事能力を持っていたことが、指名された理由だったことは余り知られていません。 阿弥陀堂
かつて会津藩には、田中玄宰(1748〜1808年)という名家老がいて、徹底した藩政改革を断行、中でも軍制の改善は著しく、幕府が最強と認める軍隊を造り上げていたのです。 御影堂の正面にある納骨堂は新しい建物
会津藩が藩主の命令一下、整然とした軍事行動ができることは、翌年7月に御所の建春門外で馬揃を天覧に供した際に実証され、それ以降公卿の容保を見る目が変わったといいます。NHK大河ドラマの主人公、お江の供養塔
また孝明天皇は、容保を一層信頼するようになり、その直後にあった8月18日の政変(長州藩と三条実美以下のクーデター未遂事件)を容保が未然に防いだことで、前例の無い感謝の宸翰(直筆の文書)と、御製(天皇の和歌)を容保に与えたほどでした。お江の供養塔の東の丘が墓地
その孝明天皇が急死したことで、幼い明治天皇を担いだ岩倉具視以下過激派の公卿と薩長によって形勢は一挙に変わり、会津藩は朝敵となったのです。 法然(円光大師の廟)
1893年(明治26年)に容保が亡くなったとき、この宸翰と御製が遺品として出てきたことで、過激派公卿と薩長による会津攻撃は、孝明天皇の本意では無かったことが明らかになっています。墓地の上には三重塔
会津藩が朝敵でなかったことが明るみに出るのを恐れた、薩長藩閥の大物は、宸翰と御製のことを書いた本の出版を禁止、明治後半になってようやく許可を出しています。 三重塔の背後にある清和天皇火葬塚
参考文献:京都守護職始末 山川浩著、幕末維新史の定説を斬る 中村彰彦著、松平容保とその時代 星 亮一著