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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



京都東山に近い鈴声山小山の地には、一条天皇(980~1011年)の生母で、藤原道長(966~1028年)の姉、東三條女院藤原詮子(962~1002年)の離宮がありましたが、そこに984年、比叡山常行堂の阿弥陀如来(慈覚大師作)を移したのが真如堂の始まりです。赤門

その後、一條天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として、浄土宗の開祖法然や浄土真宗の開祖親鸞をはじめとする念仏行者の信仰を受け、民衆(ことに女人)の厚い信仰を集めてきています。本堂への通路の両側にはもみじの古樹が多い。

しかし、応仁の乱(1467~77年)では、この辺り一帯が東陣となり、その戦火で堂塔は消失しますが、本尊だけは比叡山の黒谷、滋賀県穴太に避難して無事だったようです。本堂への石畳

その後、真如堂は京都各地を転々とした後、1519年に一旦旧地に戻りましたが、1578年、秀吉により京極今出川下るに移転させられて火災で類焼、1693年東山天皇の勅で、やっと元の土地に再建されています。三重塔

その間、真如堂の墓地だけは、鈴声山小山の地に残っていたようで、墓地の中には春日局(1579~1643年)の実父、斎藤利三(1534~82年)の墓があり春日局が真如堂に肩入れしていた記録が残っています。本堂前

本堂は、1693~1717年(24年間も)かけて建立された十五間四面・総欅・単層入母屋・本瓦葺で、使われている材木にはすべて「○○家先祖代々菩提の為」と記されているので、当時の多くの信者の寄進によったのでしょう。本堂

 

また三井家は、初代三井高利以来、真如堂の檀家で、本堂の仏具などには、寄進者の三井家の(四つ目紋)家紋が付いているものが多く見られるようです。梵鐘の左側に見える2か所の小穴は、戦時供出した際に金属成分を調べるために開けられたもの。

真如堂は、秋のもみじで有名で、今の季節も境内至る所にもみじの古樹を見ることができます。庫裡への渡り廊下

そのもみじが見ごろとなる季節には相当混雑するようなので、拝観者の少ない今の季節が狙い目かもしれません。もみじで覆われた本堂。

参考文献:玄翁禅師伝現出と真如堂信仰 小林 月史著



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