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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



徳川家康は、1603年京都の中心に二条城を造り、1605年には東山の黒谷と知恩院を城構えとし、徳川幕府の緊急時に備えています。 高麗門



従って黒谷には、大軍が一度に入ってこられないよう南に小門だけを設置し、西側には城門のような高麗門を置いたのです。 高麗門の内側



また金戒光明寺の4万坪の境内は、全体が小高い丘になっていて、最高部(三重塔辺り)から西側を見ると、御所や京都市内は勿論、大山崎、天王山あたりまで見渡せる戦略上の重要拠点でした。 三重塔



そのために京都守護職となった松平容保は、京都御所からわずか1600mの距離にあったこの金戒光明寺にまず本陣を置いたのです。 御影堂前にある熊谷直実鎧掛けの松



当時の金戒光明寺には、52の宿坊があり、会津兵1000名の宿舎として25の宿坊が使われているので、1か所当たり40名が滞在、藩主の容保は大方丈に入ったようです。 大方丈の入り口



金戒光明寺の山門は、応仁の乱で焼失しましたが、容保が本陣を置く2年前、万延元年(1860年)に再建されているので、完成したばかりの山門を容保が見ていることは確実です。 山門の下部は改修工事中



山門の北側にある御影堂は、江戸期のものが昭和9年の火災で焼失、1944年に再建なったもので、昭和時代の模範建築物だそうです。



金戒光明寺の山上墓地北東には、会津藩殉難者墓地が有り、会津藩が京都に駐留した文久2年〜慶応3年の5年間に亡くなった237霊と、鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀っています。



戊辰戦争の戦死者を記録した「戊辰殉難追悼録」によれば会津藩約3000、徳川幕臣1500、仙台藩1000、二本松、庄内、米沢藩が各300余り、この数字が会津軍の奮戦を正直に物語っています。会津墓地



幕府は、現在京都府庁舎がある土地(3万坪)に、文久3年から京都守護職屋敷の建築を始め(完成は翌年9月)、会津兵1000名は順次そちらに移転したようなので、金戒光明寺に滞在したのは1年半程度だったようです。


参考文献:京都守護職始末 山川浩著、幕末維新史の定説を斬る 中村彰彦著、松平容保とその時代 星 亮一著



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