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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



天保山公園の中には、ひっそりと西村捨三翁像が置かれている。



西村捨三(1843~1908年)は、彦根藩の作事奉行であった西村又治郎の3男として生まれ、次男を失ったばかりの父親は男子誕生を喜んで得三郎と名づけている。

天保山公園



15歳で藩校の弘道館に入学するとすぐにトップの成績を挙げ、藩主井伊直弼が暗殺された翌年、江戸に留学せよという藩命が下っている。

しかし得三郎は、粗暴な性格の持ち主であったため、父親から粗暴な性格を捨てることを誓う意味で、捨三と改名するように言い渡されたという。

彦根城



捨三と改名した以降は、勉学に励んで頭角を表し、戊辰戦争にも活躍したことで旧藩主井伊直憲の欧米視察に同行を許されるまでになっている。

井伊直憲が西村捨三に贈った庭石(朝陽岡)



1876年(明治9年)、旧知であった大久保利通の推薦で内務省に出仕し、1886年(明治19年)内務省土木局長、1889年(明治22年)大阪府知事、1891年松方内閣の農商務次官を経て1893年(明治26年)に官を辞して北海道炭鉱鉄道の社長に就任している。



1897年(明治30年)、かつて府知事兼市長であった大阪から大阪港築港事務所長就任の要請があったために、北海道炭鉱鉄道社長や関係する会社の役員を辞め10年の任期で所長を引き受けている。

築港事務所は大橋の右下の公園付近



大阪港の築港事業は、築港公債を売って費用を捻出する計画であったが、当時民間は深刻な金融難であったために築港公債は全く売れなかったという。

所長に就任した西村は、資金集めに奔走することになり、当時金融界の大物であった安田財閥の安田善次郎(1838~1921年)を訪ねている。

天保山から見た安治川対岸



面談した安田善次郎が、一目で西村を信用できる人物と見抜き、ポンと大金を出して築港公債を購入したことで、他の銀行や商人が次々と公債を購入するようになり、やっと事業費に目途がついたようである。

民間から調達した工事費の総額1844万円は、当時の大阪市予算の20倍という巨大プロジェクトで、途中資材高騰や軟弱地盤による工事トラブルが続出したが、西村は工事全般を指揮して難局を乗り切っている。

築港基石



政府の予算のつかない大阪港建設は、大阪市長の倍の年棒を支払って招いた事務所長の実力が遺憾なく発揮され、1903年(明治36年)には大型船が接岸できる桟橋が完成、西村は安田善次郎との約束を果たしたのである。

この桟橋は、翌年始まった日露戦争(1904~5年)の際、関西地域にある工場から大陸に送る軍事物資の輸送に大活躍することになる。

大阪港天保山岸壁に接岸する客船



しかし西村は、過労がたたったのか任期半ばの1902年(明治35年)に脳溢血で倒れ、翌年には所長を辞任して郷里の彦根に帰り1908年(明治41年)に亡くなっている。


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