野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1968年(昭和42年)、大阪読売新聞社から発行された「百年の大阪 第4巻」の中に「心斎橋巷談」という文章があるのでご紹介しましょう。

心斎橋南詰に完成近いユニクロ



1908年(明治41年)6月、大阪府が心斎橋の架け替え工事の入札をすると、南区高岸町の小西荘次郎が落札して工事が着手されています。


心斎橋筋の南入り口は戎橋


 

建築請負業の小西は、当時多くの弟子を抱えていて、注文以上に丹念に仕事にやり、弟子の面倒見も良いという評判の人物だったようです。

戎橋から心斎橋筋に入ったところ


 

工事がはじまると、小西は設計より高級な石材を使い、設計に無い凝った彫刻を取りいれ、目立たない部分を丹念に仕上げるなど、採算を度外視した仕事をしています。


 

その結果、資金が底をついて小西は破産、ほとんど完成していた工事は返上され、本人は責任を取ったのか消息不明となったようです。

今の心斎橋にはドラッグストアがいっぱい



 

1909年(明治42年)11月23日、設計図よりも格段に立派に仕上がった新しい心斎橋の渡り初めがあり、豪華な心斎橋は大阪の名所になっています。

大丸の少し南



 

その当時、心斎橋の南側(南詰)は、徳川時代からの呉服屋と小間物を売る店が戎橋まで続き、その中でも大丸は目立っていたそうです。

大丸



 

一方、北側(北詰)には呉服屋は1軒も無く、本屋、舶来品屋などが並び、船場のイトはんのそぞろ歩く姿は、南側よりも多かったとか。


心斎橋北詰の南入り口


 

そのせいか家賃は南側よりも高く、通り全体に格式の高さが漂っていて、北詰に買い物に行くときには洋服に着替えて出かける人も多かったとか。

心斎橋北詰の当時の限界は、アーケードに掲示された「心斎橋筋」の看板まで

 

心斎橋北詰の限界は、順慶町(南船場3丁目北)で、西に曲がると新町通りまで飲み屋の多い井戸ケ辻となり、そこは道頓堀の芝居がハネると賑わったようです。



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )