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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



小倉百人一首11番目の「わたの原八十島かけて漕出でぬと人には告げよ海士の釣船」は参議篁(小野篁)が隠岐に配流される際に詠んだ歌であることは有名である。

豊田地区から近い明屋海岸



隠岐中ノ島の東側、豊田地区の民家の庭に、西暦839年始めに隠岐配流となった篁が住んだ場所があり、今も「小野篁遺址」の石碑が残っている。



石碑の建造年が刻まれていないので、設置時期は良く判らないが、設置者は、□爵 一条□□とだけ、かろうじて読むことができる。

私の推測であるが、1884年に公爵を受爵した 一条 実輝(1866~1924年、初代明治神宮宮司)が明治末期から大正時代に設置したものではなかろうか。

明屋海岸(右側山の灯台の麓が配流された豊田地区)



さて、今から1169年前、配流された篁はここで暮らし、「思ひきや ひなの別れに 衰へて あまの縄たき 漁りせむとは」と詠んだように、近くの磯で漁りをしてその日の糧を得ていたようである。

金光寺山にある篁の歌碑



隠岐では、戦後暫くまで油を浸した縄を焚いて夜に漁りをする習慣があり、サザエやアワビはいくらでも獲れた(地元ではサザエを拾いに行くという言葉が今も残っている)ので、食べるものには不自由は無かったと思われる。

「小野篁遺址」の石碑から少し山側に、「篁呼水井」という石が置かれていたが、篁が自ら掘った井戸の跡と言われている。

篁呼水井



篁は、98年前にあった「藤原広嗣の乱」で藤原良嗣(伊豆)、藤原百川(隠岐)兄弟が流罪となり、2年後には赦されたという前例を知っていたようである。

藤原良嗣は、赦されたのちに嵯峨上皇の外祖父となり内大臣、弟の藤原百川は、娘が桓武天皇(737~806年)の妃となり淳和天皇(786~840年)をもうけたため、没後正一位太政大臣を追贈されている。

金光寺山から見た豊田



今の金光寺山(標高164m)には、ドライブウエイを使って車で登れるので、当時の篁が歩いて登って眺めた風景を簡単に楽しむことができる。

篁は、豊田で1年2か月過ごした後、島後の都万村に移されているが、配流から1年半後の西暦840年夏には都に戻っているので、藤原良嗣、百川兄弟よりも半年も早い復帰であった。

豊田にある祠



篁が隠岐中ノ島の豊田に配流されてから既に1169年が経過しているが、篁が見たであろう豊田の風景や、明屋海岸の風景は当時の姿が良く保存されているようである。


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