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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



小野篁(802~852年)は、最初の遣隋使であった小野妹子の子孫で、紫式部(973~1031年)が源氏物語を書く150年前に亡くなっている。



その篁は、遣唐副使としての職務を放棄したことで嵯峨天皇(52代786~842年)の逆鱗に触れて隠岐中ノ島に一時流され、配流された跡地に今も石碑が残っていることは以前紹介したことがある。



嵯峨天皇は、篁の能力と人物を高く評価していたようで、結局1年半後には許されて帰京しているが、二人に関する面白いエピソードがいくつか伝承されている。



今から1156年前に亡くなった篁の墓は、京都市北区北大路堀川交差点の南西にあるが、順徳天皇のひ孫、足利義満の伯父であった四辻善成(1326~1402年)が顕した源氏物語の注釈書「河海抄」に篁の墓に関して「紫式部の墓は、雲林院白毫院の南、小野篁墓の西にあり」という記述が残されている。

参議小野公堂域碑



その場所を尋ねて見ると、小野篁から44代目の子孫が明治2年(1869年)に建立した漢文の巨大な顕彰石碑があり、墓地の正面小野相公墓と書かれた墓石の裏側には明治24年(1891年)とある。



周りの敷地を保有している島津製作所の創業が明治8年(1875年)、同社の紫野工場の創業が1944年なので、この顕彰石碑は、それよりも古くからこの地にあったようである。



平安時代の初め、堀川北大路の南西は、狩猟地や遊歩道があった紫野と呼ばれた原野で、嵯峨天皇(52代786~842年)の弟であった淳和天皇(53代786~840年)がそこに離宮を建てている。

五輪塔(左が小野篁、右が紫式部)



淳和天皇の死後、天皇の遺志で遺体は火葬、散骨されたらしいが、ご遺灰の一部は離宮の地にあった寺院「雲林院」に納められ、そこが墓所となっていたようである。



そのためか54代仁明天皇(嵯峨天皇の第二皇子810~850年)によって僧正遍昭(816~890年)が招かれて雲林院は官寺に昇格している。

平安末期には、現在の大徳寺の寺域とその南側にある紫野雲林院町から堀川通までを含む広大な敷地を有する大寺院となっていたようである。

北大路に面した大徳寺



藤原家の嫡流、藤原冬嗣(775~826年)の長女である順子(809~871年)は、仁明天皇の女御として文徳天皇(55代827~858年)の生母となっている。

雲林院の門



実は冬嗣の12番目の娘(順子の妹)は、小野篁の妻であったので、仁明天皇と小野篁は義兄弟の関係にあったのである。

仁明天皇が官寺とした雲林院に、義弟小野篁の墓所が置かれた可能性は大きいと思われるので、四辻善成が顕した「河海抄」の中にある記事の信憑性は高い。

雲林院境内



雲林院は、鎌倉時代になると衰えて北側の跡地に大徳寺が建立され、応仁の乱では一旦焼失したようであるが、江戸時代(1706年)になってから北大路通りの南側に雲林院観音堂が再建され、今も昔の由緒を伝えている。


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