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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



天王寺を出発するJR紀州路線の快速電車が堺市、三国ヶ丘の次に停車する駅が鳳駅で、その駅から歩いて5分くらいの雑然とした場所に和泉国の一宮、旧官幣大社の大鳥大社がある。



1871年に制定され1946年に廃止された社格制度によれば官幣大社は、65社もあったが、今も大社と称している神社は、この大鳥大社を含め出雲、春日、住吉、諏訪、宗像等15社だけである。



この神社の参道は、鳥居の50メートル先から直角に右に曲がり、さらに30メートル進んで左に折れ、30メートル先の左側が拝殿という形状をしているのが珍しい。



季節がら設置してある茅の輪を潜り、舞台のような拝殿の奥が本殿である。



本殿の周囲は、高い塀で囲まれているので屋根しか見えないが、かなり巨大な建造物で、1701年に柳沢吉保が造営し、明治になって国宝に指定されたが1905年の落雷で焼失したという。



現社殿は、焼失から4年後の1909年に再建されたものであるが、100年近い年月が経っているせいか社叢に囲まれ、しっとりとした美しさがあると思うのは私だけか。

その落雷の火災は甚大であったようで、和泉国の一宮、旧官幣大社という立派な社格の大鳥大社には国宝や重要文化財に指定される貴重なものは残っていないようである。



拝殿の手前には、1159年(平治元年)熊野詣から帰京する途中に参拝した平清盛の歌碑があったので、今から848年前に大鳥神社がこの地に存在していたのは確かなようである。



清盛の歌は「かいこぞよ 帰りはてなば 飛び翔り 育み立てよ大鳥の神」というもので、今は「かいこ(幼虫)」のような平氏であるが、京都に帰ったあかつきには(羽化した蝶のように)自由に飛べるように育んで欲しい」と大鳥神に願ったもので、「かいこ」とは平氏の家紋が揚羽蝶であったから出たと私は解釈したがどうであろう。



このあとすぐに京都に帰り、源氏を破った清盛は、武士として始めて公卿の地位についているので大鳥の神への願いは叶ったのである。

京都の皇族・貴人の間に流行した熊野詣に際し、参詣者が祈願に立ち寄った99の神社を九十九王子といい、街道の起点にある窪津王子(大阪市天満橋付近)から数えて8番目に当たるのが大鳥王子(大鳥神社)であるという。



本殿拝殿からもとの参道に引き返し、参道を突き当たりまで歩くと、摂社の大鳥美波比神社があるが、平安期の大鳥王子の場所はこの辺りであったらしい。


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