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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



日債銀は、1957年長期信用銀行法に基く日本不動産銀行として設立され1977年に日本債券信用銀行に行名変更されたが、長銀と同じようにバブルで崩壊してしまった。

日債銀大阪支店があった旧日債銀ビル



金融再生委員会と預金保険機構は、日債銀を投資グループに売却したときに、債務超過を穴埋めするため、3兆円を超える公的資金の投入を行ったが全額が返済されずに国民負担となっている。

その破綻のプロセスは、元行員であった田代恭介氏の小説「日債銀破綻の原罪」に詳しく描かれているので紹介したい。



1969年には第4代頭取として勝田が就任し、その後18年間の長期に渡って、頭取・会長として実権をふるい、バブル崩壊直後の1992年に死去するまで名誉会長の座にあった。

勝田は、会長に退いたときに「会長として院政はしない」と発言して本質を知る行員の失笑を買っているが、最後まで院政を敷いて人事権を手放さなかったという。

御堂筋のそごうと旧日債銀ビル



勝田は、気に入らない部下は強引に左遷・降格した超ワンマンであったが、昭和史の専門家としても有名で、「重臣たちの昭和史」という本を出版している。

しかし日債銀の社員をゴーストライターとしていたようで、頭取のお気に入りのゴーストライターが、役員にまで出世したのも行内では有名な話だったという。

旧日債銀ビルは今、関西アーバン銀行ビル



1982年に頭取となったのは、勝田と良く似た頴川(1947年東大経卒)で、「貸して・貸して・貸しまくれ」、と積極融資の大号令をかけ、不良債権を心配する慎重派役員や幹部社員は全員左遷されてしまった。

元日債銀社員の田代恭介氏は、小説「日債銀破綻の原罪」の中で、日債銀の巨額の不良債権は頴川の経営戦略に位置づけられた無謀な拡大方針によって組織的に生み出されたと喝破している。

関西アーバン銀行1階御堂筋側は喫茶スペース



バブルの直前の1988年6月、勝田は名誉会長、頴川は会長に退き、松岡誠司頭取が誕生しているが、拡大路線と社内の序列はそのまま引き継がれている。

勝田は、丁度バブルがはじけた1991年5月に名誉会長のまま79歳で亡くなっているので、10億円近い退職金を貰った上に日債銀の破綻を見ずにあの世に行った悪運の強い人であった。

隣は日航ホテル



ちなみに、公的資金3兆円が回収不能となるまで不良貸付をドンドン進めた張本人の頴川が役員退任時に貰った退職金は約6億円といわれているが、彼は時効により刑事立件を逃れている。


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