遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。

 



   土曜の朝 ..大型掃除機を事務所のなかじゅう引きずりながら 泥縄で今日の語りを一回浚ってみる。 どうして経営者が遠慮しなくてはならないのだろうと片隅で思いつつ 気兼ねしながら県立図書館にむかった。着いたのは45分前だった...わたしにはありえない時間だが タネを明かせば集合時間を間違えたのだ。何分間違えたのかはご想像に任せる。

   「おおきなおはなし会」は”子ども読書の日”に因んだ県立図書館の催しで協賛がトムの会である。だから出し物は絵本にかかわりのある大型紙芝居や大型絵本が主で語りはふたつだけだった。親子連れが多くなごやかなあたたかな雰囲気が視聴覚ホールをつつんでいた。

   午前の部のラストがわたしの出番だった。魔法のオレンジの木を語ったのだけれど、自分の声が身体の中からではなく 頭の斜め上のほうから聞こえるような気がした。...都合7回の歌のとき わたしが聴き手に向かって歌ったのは最初と最後の2回だけだった。...それは考えてしたことではなくて身体がそのように動いてしまったのだけれど...歌は速度も声の感じもその都度違っていたが それがよかったかどうかはわからない。....井の頭公園のライブから微妙にチューニングが会わない....ひとの靴を履いているような違和感が残る。...たぶん 今わたしは聴き手に向かって語っていない...以前のようには...。なぜだろう。


 そのままやまもとさんのヴォイスストレーニングに行くために半蔵門に向かった。やまもとさんのWSがひとあじ違うのは実際に発声するより 身体の構造のレクチャーが中心だということだ。ふたり一組になってF音 S音などの無声音を出し 身体のどこに息が行っているか確認する。

   発声に関わる人間の器官は今まで習ったところでは体幹とそのうえの頭蓋のすべてである。今日は肩甲骨ならびに横隔膜の確認をした。....肩甲骨は肋骨の上に載っていて靭帯でつながっている。肩甲骨の周囲・前後(腕の付け根まで)が凝りやすいのはなぜか構造を知ってはじめて理解できた...これはヒーリングにも活用できる。発声にとって緊張は障害となる。そして頸や肩甲骨のあたりはとても緊張しやすい。ふだん何気なくしているつもりもじつは緊張している。....ためしにパソコンの前にいるみなさん 首と肩から力を抜いてみてください...はぁーと息を吐いて...ほら 力が入っていることがわかったでしょう...?

   語り手に必要な声は役者のそれとは 違うのではないか...と感じはじめたのはこのごろだ。金属的な硬質の声...ではない 深い声 ときに固くもやはらかくもなり レンジのゆたかな歌うような声 激しくもやさしい声 豊穣の声 沁みいる声....もちろん役者のための声とも伝統芸能の声とも重なるのだが 水泳の筋肉とシンクロの筋肉が スピードスケートとフィギュアと筋肉がちがうように語りのための発声もすこし違うようだ...張る声では心に沁みない..と思う。ものがたりにもよるけれどすべてが聴き手に発せられる声ではない.....幾分かは自分に向かって発せられている。

   それぞれが自分の方法で自分の声をものがたりをのせ得るものにしてゆけばいいのだろうと思う。声は声紋というようにひとりひとり固有の性格や心情をもうつしだすものである。....日々の暮らしのなかで意識することでも変わってゆくだろう。

   すこし早めに一番町の集会所を出たのは会社の今後について頼みもし相談もするためにこれはという社員と約束をしていたからだ。急行は1時間20分でわたしを現実に連れ戻してくれた。...状況は刻々変わるが問題点は明確である。つなぐための努力を急がなくてはならない。...幾人かのひとたちと腹を割って話しあわなくてはならない。そしてわたしもいよいよ供物を差し出さねばならぬ時がきた。

   アリストテレスはひとの究極の目的は 本来の己になることだ...というようなことを言っている。...ひとは社会的な動物でひとりではなにもできない...つながらなくては....とすれば本来の自分とはつながる自分であり つなげてゆくことが己の目的と重なってゆくのが流れであろう...。死にゆくときこの世の限りあるつながりは切れる...だがつなぐとはそれだけではない...未来へ向かって橋を架けること...身を投げだすことである。...自分がもういないこの世のためになにができるか...それがひとの証であろう。

   ささやかな供物を捧げるのに どうしてわたしはこのように躊躇するのだろう....生と死に介在するもの 生と死のあわいをつなぐもの 見える世界と見えざる世界をつなぐもの....語り...とはそういうものだ。....もっと知りたい...しかし もっとたいせつなものがある。...

   

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   午後営業のNさんの運転で越谷の県土木事務所にでかけた。農免道路を走りいくつもの橋をこえる。土手にはうららと日が射してそこここに佇む木はまだみずみずしさを残してはいるがいっぱしの緑をまとっている。初夏とも見紛う草むらを彩る野生のからし菜の黄の色...目に染むようなゆく春を夫は充分に目の奥に残しただろうか。

   土木事務所のわきの入り口から暗い屋内にはいったとき燻いような香ばしいような懐かしい匂いにはっとした...父の匂いに似ていた。父は30年近い前この事務所の次長として奉職していたことがある。磨り減った階段も灰色とベージュがまじったようなくすんだ壁も父がいた当時とそうは変わらないのだろう。みごとに個性のない醜い建物がとつぜん温かく懐かしいものになる。

   景観をまもる 電柱や標識の貼り紙を防止する新製品のデモにきたのだが かぼそいようなまだ若い出向の係官は精一杯誠意を見せようとしながら隠しようのない早く切り上げたい気持ちも声音に滲み出させていた。階下に下りて自販機のペットボトルのお茶を飲みながらながめていると場所柄か 一癖も二癖もあるひとびとが肩をそびやかして出入りする。

   なんの手応えもなく帰途につく。....時代は音をたてて変わってゆく。待合所の机のうえには仕様書ひとつない。夕張市のように破綻しかけた市町村が県東にはいくつかあって入札は年に一度しかないそうだ。合併により仕事は激減した。うちの会社は公共事業に頼ることなく民間でせめぎあっていたから社員一同身を粉にして働いてきたからこうして残っているけれど、公共事業から締め出された会社は今度は民間に押し寄せるだろう。座したままでは生き延びられない。

   もうからし菜の黄色は目に入らなかった。どうやって..? こうやって...打つ手を考える...みなの気持ちとつなぎあってゆかないと滅びてしまう....かって父が守ってくれた会社だった。負けるものかと思った。いくつか仕事を終わらせて 二時間送れて電車に乗る。半蔵門にむかうちいさな旅のあいだ 憂いなく喜びもなくわたしは語ることに没頭した。

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....目を瞑ると 一点の青が見えることがある...もっと見ようと瞑ったままその青に目を凝らす...ゆらめくようにひろがってゆく...むらさきがかっているときもあり、藍にちかいときもあるのだが...ときおり 青のなかの青..とでもいうような純粋な青が見えることがある。

  井戸の底から仰ぎみる朝の空のような...森の底 草の褥に身をよこたえて仰ぐ闇が落ちるまえの空のような...深い深い水の底からひかり射す水面を仰ぎ見るような...青

....わたしはパンを踏んだ娘インゲが沈められた沼の底を思う。アンデルセンはなんと過酷なさだめを少しばかり高慢で少しばかり愚かな娘に課したことだろう。娘がながいながいあいだ頑なに身をこわばらせていた沼の底 ながいながい刻の底で絶望に苛まれながら仰いだかすかに空をうつした水面のひかり...

  幾度も幾度も甦るイメージ.....わたしはいつか今生ではないどこかで....たしかにこの青を見たことがあるのだ...絶望をつきぬけた悲しみのきわみのような あこがれにも似た透明な想いで 見上げたことがあるのだ...いつか遠いどこかで...

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   このテーマは松本永実子さんのワークショプにおいて対立する概念としてうかがったのである。演出家としては感性のするどいあるいはゆたかな役者を使いたい...だが感性の強い役者が理性を持ったとき..は実におもしろい...というようなおはなしだった。

   感性とはよく聞くことばだがその実態はなんだろう...と調べてみるとこれがなかなか興味深い。哲学的な概念にかんするかぎりまずアリストテレスありき...でその後はたいして進歩していないなぁ...というのが実感であった。感性というその語源は、古くはアリストテレスの「アイステーシス」(aisthesis、感性・感覚を意味する古代ギリシャ語)であり感性は自然と美につよくむすびついている。

   直感的感性とは, すべてを詳細に見ずとも、事物の全体像を直感的、無意識的に瞬時に把握する能力であるのだが 受け取るばかりでなくそれを取捨選択して判断し、五感で認識できる形を通して自ら表現し発信するような一連の働き...ともいう。必要なときに都合の良い情報が予期せず飛び込んでくるような直感的なひらめきも感性の特徴的なかたちであって ひとが個々に収得してはいるもののまとまりがついていなかった情報を一つに統合するようなカも持っている...という。

   ここで気がつくのは 語っていたり芝居をしていたりするとき..の感覚である。...外部にも内部にもひらいていて思わぬことば 思わぬ行動が起きたりする...即興こそその最たるものであるが 創造する芸術も再現する芸術も感性のはたらきであることがわかる。感性を内部外部からの情報を感知して瞬時に取り込みすでにある内部の情報と統合し瞬時に表現というかたちで発信するまでのはたらきというなら理性とはいったいなにか....?


  
    アリストテレスは理性を人間の霊魂の固有の形相である...という。理性は人間の中で最も神的なものではあるが、身体的・感覚的限界をもつものであると考えた。それ故、人間がこの限界を、想像力と豊かな感性、そして、可能な限りの広くて深い知識によって克服する姿の中に、理性的人間の完成を見ていた。すなわちアリストテレスにとって感性は理性より上の位置にあったのである。理性「ロゴス」は多くの概念を持つが通常はことばを意味していた..これは感性と理性を考えるとき示唆的である。

    近代では古代ギリシャ人がもっていた超越者や聖なるものへの畏敬を持ちつづけることができず、理性こそが人間のしるしであるとされ人間が「世界の主」となった。理性的であることと合理的であることが同じ意味で用いられ、理性的であるべきだということから やがて理性は人間の自然性を否定し、自然は克服し且つ支配すべきものになった。

    考えるに理性のはたらきについてはどうも古代に分があるようだ。感性と理性は本来は対立する概念ではなく 双方とも神的なもの超越的なものにその起源を持つ。近代において理性のある面だけを偏重してしまったことで ひとは自然から切り離されてしまった。が本来の理性..とは普遍性・客観性であって超個人的な感覚である感性を補完するものではないだろうか...

    つまり 感性が先行し 森羅万象からあるなにかを感知し自己の内部に蓄えられたものと統合し 自らの美・自然・あるべきものを他者が五官で感じられるカタチにして発信する。....つぎにあるいは同時に理性が普遍的なるもの 人類が本来共通して持っているベースに照らしあわせ総合するのではないかと思う。

    踊る 歌う 語る...奏でるなどの原初的な芸術はひとの感性の発露であり それ自体が事物との一体化であって客観性の入り込む余地はなかった。また発信者、受け取り手のあいだに垣根なくともにその今を共有したと思われる...描くこと自体は感性の発露であるが客観視できるモノになったことで発信した者から離れる。文字が介在する戯曲や文学はますますその度を増す。身体から離れることが客観性を生む。

    語りの場合 語り手がどれだけ外部からの声豊かな情報を感知して語っているか、また語り手自身の内奥とむすびついているかであろう...そのうえに現代の語り手は語り放しにしないでフィードバックする 自らの裡にある普遍的なるもの アリストテレスによれば 「世界理性」に照らすことをしてゆきたいもの..と思う。まだまだ書きたいことはあるが 今回はこれで終わりにし日常にかえろう。





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   今日は幼稚園年少さんのおはなし会の打合せがあった。ひさびさに幼稚園にうかがったとき明るい声がひびいた。幼稚園の雰囲気はカラリかわっている...壁を塗り替えたのか...蛍光灯を換えたのかと思ったら...園長副園長が代わられ新任の先生も迎えたとのこと....前任の園長先生は素晴らしい方だったが 新生の気が漲るのもいいなぁ...今はそういう季節なのだとあらためて思った。

.....3人の先生と併設の保育園の先生 そしてわたしの5人で年間の計画を立てる。先生方に要望をお尋ねしたところ...聴く力がのびるようなおはなしを。。。権現堂の伝説のような地元に伝わる昔話を...水のおはなし!...コカのカメははずせない!..とかヒートアップしていった。おかあさん方といっしょのおはなし会も4クラスひらくことになった。

  おひとりが...園庭で木の下で梢のそよぎを聴きながら風を感じながらおはなし会ができたら...と言われて 即5月にひらくことになった。今年のテーマは戸外で野外で語る...になりそうだと楽しい語らいからお別れして 園の門を出たところ 犬をつれたご婦人にあいさつされた。「先生..! 雪女の先生ですよね..はじめてでしたよ あぁいうおはなしは わたし涙がでました。 感激して新聞のつれづれに投稿したのだけれどボツになってしまいました...」

  偶然 春のコンサートにきてくださった方とであったのだ。今日はショッキングなことがあって 意気も落ちていたのだが ベストを尽くそう..会社でもどこでも....聴いてくださるかたにものがたりを届けよう...わかってくださる方にわかっていただければそれでいい...とそんな風に思えて まだ頬に冷たい春の風を感じながら石ころだらけの駐車場をあるいた。


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   ふと 自分はなにをしているのだろうと思うときがある。....わたしは群れから離れて独りでわが道を歩くそういうタイプだったはずだ。喫茶店でなにを考えるでもなくひとり音楽に身を任せているとか 砂浜で日がな海を見ているとか 一人旅で車窓から見知らぬ町の似通った風景を眺めるとか...本を読み耽るとか...そんなふうに過ごすのが好きなはずなのに なにを血迷って こんなふうにひととからまりつなぎあって あまつさえともになにかしようとしている...それができる自分が不思議でしかたなく思えるときがある。

   ...自分と折り合いがつくようになった。 あいかわらず考えなしではあるがひとに役立つこともできるのだという自信が生まれたからもあるだろうし、ひとりではなく仲間となにかやるときの胸が熱くなるような血が滾るような酩酊した感じが好きだからかもしれない....しかし 群れなり組織なりに入れば入るほど、孤独を感じることもまぎれない事実である。


   群れとは半ば盲目的に本能的に生存のために群がる集団であり組織とは目的を達成するために綿密に編まれ維持するための決まりを有する集合体であろうか。そのなかで語りあって語りあって こころがつうじたと思ってみても つぎの瞬間には誤解しあっていることもある。ひとというのは生き方の違いだけでなくそれぞれ思惑があって 志をおなじくしても微かな隙間はつねにあるのだ。信じれば信じるほどこころに痛手を受けることはあって痛みを恐れれば胸をひらくことを躊躇う。

   独りで荒野を生きるほうが潔いし なんぼか前に進むのも早いだろう.....わたしの求める語りはわたしにとっては正真正銘の本道だが他者からみれば異端かよくても変わっているくらいにしか見えないであろうし... だが なぜだろう...わたしはしないではいられない。手をつないであたらしい地平をともに切り拓いていきたくてたまらない...いったいなぜだろうと訝しみながら....


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   人は群れる。群れたがる。ひとりでは寂しいからという消極的な理由もあれば 組織をつかって自分を実現したい、望みをかなえたいという積極的な理由もある。3人あつまれば群れである...4.5人の小さなグループもあれば総数何万という同好会もある。群れとは消極的であれ積極的であれ なんらかのプラスαを求めるひとびとの集合体である。

   雲霞のようになんとなく集まった群れもあれば 同じ目的 同じ利益を追求する群れもある。群れを統制するために必然的に組織が生じる。まずTOPがいてその他大勢というものから 次第にTOP 管理職 ひらというピラミッド型にすすんでゆくのが常だろう。ヤクザの世界だって親分がいて若頭がいてそのしたに子分が大勢...日本はタテ社会だからたいした変わりはない。

   このような組織においてTOP周辺には利益が介在するから腐敗が生じやすい。また上意下達はなんとかできても下から上には風とおしがわるい。いや上意さえ下には伝わりにくいものだ。20数年 会社を経営していてつくづく思うのはコミュニケーションのむつかしさである。わかりきったこと 伝わっているに違いないと思ったことが全然伝わっていなかったりする。

   では 文化を担う組織はどのようにあるべきだろう...伝統芸能は家元制をとる。技能の伝承と継承のためである。...家元 名取 その他 また家元 師範...なのかよくわからないが....母は俳句の世界で修行していたがお師匠の家の大掃除から年賀状書きまでよく狩り出されていた。徒弟制度は健在である....だが、贔屓でなくまして人気とか実力でなくもっと深い人間性によって真の継承者後継者を選ぶということもあるようだ。


   あたらしい文化を担う組織はどうあるべきか...内部にむかって隠し事なく開かれていること 外部に向かっても閉鎖的でなく自分たちのやり方に固執しないで 他のさまざまな分野や組織、団体と交流があることが求められるだろう。場の支配者をつくらず メンバーが生き生きと提案しともに考え合えることが望ましい。そして今までの成果や固定観念にとらわれない自由闊達さが必要であろう。

   そのためにはひとりひとりの個が自分を確立し自分の考えを持っていなければならない。ひとは個としての面と社会的な面とを持つが個として確立していなければ当然社会的にも成熟した構成員とはなりえない。イエスマンでおわってしまうのである。

   ひとの可能性は無限である...がその鍵をひらくのは教育であろう...ひとりひとりが自分の責任において技量や心性を磨くのはもちろんであるが 組織は構成するひとびとにたいしてステップアップを促す場を提供すべきだ...とわたしは思う。そして努力の末ステップアップを果たした構成員については活動する場をも提供していいのではないか...そこで組織は円環する。指導的な立場 また高度の技量を持つひとびとが輩出すれば新たな人々が加わるだろう。

   文化をになう組織のありようは...内部に外部にともに開かれていること...リーダーはいても支配者はいないこと ....生き生きと意見をだしあい考え合えること....固定観念にとらわれないこと...教育...それを受けたひとの受け皿...

   以上のことを達成するにあたっては 企画 交流 教育 研究 広報 伝達などの部門にそれぞれやる気のある人たちが生き生きと参加するかどうかに尽きる....リーダーが求められているのだ...と考えているうちに..ふと会社もそうあるべきなのだ...わたしは会社ではどのような立場であるのだろうとあらためて思った。創造的な組織というのは営利非営利をとわずそうは変わらないと思う。....夕べ 末吉さんにNPOについて協力をお願いした。


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撮影櫻井美紀さん  ちいさい妖精?みたいなのがわたしです。


.....一昨日の午後 伊豆に向かった。普段着のままバッグにテキストとやり残したもろもろの仕事とため息をつめこんで....。掌中の蝶が飛び立ち傷心の長男に駅まで送ってもらいついでに旅費も借りた。新幹線から三島で乗り換えて 四年ぶりの修善寺も雨もよいで駅の売店で深緑の傘を買い求めた。

  やがて 田所さんの車が迎えにきてくださった。後部座席には修善寺ホテルでの講座を終わらせた櫻井先生...車はペンション天城路に向かう。細やかな心づくしの行き届いたペンションだった。温泉は24時間自由とのこと、さっそくお借りする。温泉でほかに客もないとなれば….歌ってみる....語ってみる…..しばらく語ってないものがたりのなんと多いことか…

  中瓶一本のビールを三人でわけあい歓談と夕食のあと 打合せにはいる。ホームページのことで若干の齟齬があったことに気づく。それからNPOについての打合せに入る。ご存知のようにNPOとは非営利の民間団体のことであって 簡単にいえば個人ですればボランティア活動であり 組織としておこなえばNPOとなる。ボランティアといっても国でする以外の民間の活動のことだから 語りを社会に広げること、また芸術活動なども含まれる。

  そして一緒に社会的な使命を果たし 継続的効果的に活動するために計画やマネジメントを明確にする。…実際には今している活動とそう変わらないのだが 地方自治体に報告をすることなどからその組織の社会的認知度また信用度は飛躍的に高まる。語り手が自分の言葉で語る豊かな多様な語り...を提唱しているのは語り手たちの会をおいてない。それが社会にもっと認知され広がってゆくきっかけになりますように。

  田所さんが作成してくれた資料にもとづき 淡々と打合せは進んだ。…今 おこなっている活動を整理し ほんのすこし足りないところを補ってゆくと 30周年事業のむこうに語り手たちの会のあたらしいビジョンが浮かび上がるようにおもえて希望がふつふつと湧いてくるのだった。

  翌朝 吹きすさんでいた風はしずまり 雨もやんで あおぞらがのぞくと思うまに 天城の山々の目のさめるような萌黄のいろとみずみずしい新緑に目をうばわれた。ペンションは川沿いに建っていて まどかな山々と清流が見わたせる。田所さんはこの地で15年のあいだ 子どもたちとともに地道な活動をつづけている。根城にしているプレイパークに案内していただいた。丈高いメタセコイアの並木に守られるようにやはらかな草もえる原っぱがあった。…それは永遠の少年たちが夢見るような砦だった。焚き火のまわりにはあちこちから運ばれた椅子 小屋の屋根にはのぼることだってできる。澄んだ水が湛えられた池にはクレソンの群生…

…わたしはこの地にきて はじめて田所さんの骨太な 大地に根ざしたスタンスが理解できた。語りは山や川や木や草花 自然や生きとし生けるものとと切り離せないものなのだと思った…そしてとおく太田さんや神保さんや竹丸さんや地方で活動しているさまざまな方の地道な活動を思った。日本中でそういうひとたちがとつとつと実のある活動をしている....もっと知りたい 出会いたいと思った。


  それから太郎杉に案内していただいた。車から降りてひと目見た途端 田所さんのあたたかい気持ちが伝わってくる、今のわたしに必要な出会いだった..谷に守られて樹齢4百年の大杉はまっすぐすっくと立っていた。膝のいたみなどないように夜来の雨にしとど湿った山肌をかけあがるようにして木のちかくにたどり着く。振り仰ぐと 細かい霧のような粒がきらめきながら降ってくる...それは大杉の精気のようにも思われた。

  太郎杉はありのまま誇り高く立っている....足すも引くもいらない...ただそのままで...濡れた樹皮が呼吸していた。大地からも大樹の息遣いが伝わってくる...深い深いところから鳴動のように足の裏を伝ってわたしの胸に届くものがある...こみ上げてくるのは喜びとかなしみ...

   空に屹立する太郎杉は 遥けきむかしよりひとびとが日本の風土にリレーのように守り伝えてきたたいせつななにかと重なるような気がした わたしの裡にもその痕跡がDNAに刻まれてあるような気がした....生き残っていてくれてありがとう...いつまでも この谷間に立っていてください....わたしも自分の場所で立ちつづけましょう。引き受けるものは引き受け 手渡すものは手渡して なかまたちとともに。




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   早くはじまらないだろうか、語りの季節....学校や幼稚園で語りたい。...理屈もなにもいらない。手わたすだけの器になって...語りたい。たのしいものがたり..子どもたちが自分の気持ちを寄せられる冒険のものがたり ふしぎなおはなし こわいおはなし...。

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   このブログに語りのほかのことを書かなくなったのは 私事を書くことが他に累を及ぼすことのリスクを避けるためとある方に語りに特化すべきではと示唆していただいたこともあるのだった。だがわたしにとっては 語ることは生きることの証でもあり今そのものだから 暮らしのつれずれを書かないということは片手落ちになってしまう...ほんとうには伝えられなくなってしまう。

   朝から 営業のひとりがパソコンにしがみついていた。....というのは埼玉県で一般競争入札...電子入札が四月から本格的にはじまり その第一回目にうちの会社も入札したので 彼はその結果を知りたくて仕方がなかったのである。夕方 淡々とメールではなくTELがきた。落札候補者あてのFAXが届いた。...つまり なんと!うちの近くの工事を落札できた!! これは業界に生きるものにとっては画期的且つ衝撃的できごとだった。談合はなくなる! わたしは会社で公共工事を削減する上田知事のおかげで 「一将功なって 万骨枯る」建設業界は死屍累々たる惨状となるだろう...とこき下ろしてきたのだが...現金なもので..知事を再評価しようかなという気持ちになってきた。

   建設業をめぐる状況は過酷の度を強めている。公共工事が減り 業者が民間工事に群がることで売り上げも単価も落ちる。当市でも業者は半分以下になった。ふるいをくぐりくぐり なんとか生き延びてきた会社にとっても今年はおおきな分け目の戦いになるだろう...

   社長である夫はパワーのかたまりのようなひとだった。なにをしでかすかわからない冒険心と..太陽のような明るさを持つひとだった。それが病を得て 夫は思慮深くなった。...夫にとって自分の力の源泉であった身体がすこしづつ損なわれてゆく過程はいかなものだったのだろう...とわたしは今痛切な思いを禁じえない。

......あなたは絶望を知らないひと、決して泣き言を言わないひとだから..平気のへいざのように見えたけれど ほんとうは眠れぬ夜もあったのでしょうね....泣きたい夜も 不安にとりこまれ明日が見えない夜もあったのでしょうね...思うようにならないもどかしさと 理解しようともしない妻や子に歯噛みするときもあったのでしょうね....わたしは今ようやくあなたの気持ちがわかったように思うのです。


   長年ともに会社を守りともに闘ってきたわたしたちだったが つまらぬ行き違いからわたしは夫を見捨てはしないまでも 以前のように寄り添う気持ちはなくなっていた。夫の夢は建設業に伴う伐採抜根材、建築廃材の再資源化だった。わたしは夫の夢をなんとか実現しようとしてきたけれど その気持ちも昨年のF社との戦いで使い果たしてしまったようだった....会社の将来 夫の病..わたしも半ば絶望のなかにいた。

   おとといの瀬織津姫のものがたり...夫である日の神天照大神の甦りを願い探しもとめ待ち続ける瀬織津姫のものがたりは..だからわたしにとって再生の証だったのだ...それが自分の胸の奥底の想念のあらわれだったのか...それとも大いなるものの指し示されたものなのかはわからないのだけれど...。


   わたしは語るとき いつも押しいただくように自分の掌を見る...それは手の震えを確認するためである....はじめて 六年前コア石響で 雪女を語ったときに わたしは自分の掌が細かく震えているのに気づいた...緊張とかそういうものでは決してない...自分の意識の差で起きるのでもなく ただそうなるのだ。。ステージだけではなく 幼稚園や学校でも...それは起こる。

   それはわたしにとって語りがある特別なものである...そこには語るわたし以外のなにかが存在している...今自分がゆるされて語っているという拠り所であり証明なのだった。....しばらくまえからそのようにトランス状態になることが弱まっていて...それは漠とした不安になっていた。だから瀬織津姫を語ったとき突然きた尋常ではない振るえは わたしにとっては よしということばに等しかった。

   神話を語ってゆこうという語りそのものへの姿勢が肯われているのか 夫に寄り添うという妻としての気持ちの持ちようが諾われているのか...それとも手を振り金のひかりをひとびとの住まう地に降りそそぐ...というもうひとつの役割を果たせと宜われているのか....まだわたしにはわからない。けれど その三つは本来つながっている...どれも祈りなのだから....生きることは...地球の良かれ...ひとの良かれ...愛するものの良かれ...そしてわたしの良かれ...を祈念する祈りそのものである。

   祈りがかなえられるためにはただじっとしているだけではゆるされない。...たたかうことが必要なときもある...外に向かってたたかうことはそのまえに自分自身とのたたかいであって ここにあるわたしが余分なものを削ぎ落とし本来のちからを発揮できるようにという祈りそのものでもある。...どこまで行けるかわからない...勝ち戦か負け戦か...そのどちらでもないのか...ともかく夫に手をさしのべつつ 歩き出そうと思う。

   語ることはひとさまざまである....どれがいいどれがわるいというような一元のものではない 語り手はそれぞれ自らさしだすだけのものを受け取る、それは鏡である...自分をだきしめて みなを世界をだきしめていつかそんなふうに語れるまで まだ わたしのものがたりのヒーローやヒロインは待ちつづけ 歩きつづけ 闘いつづけるのだろう。


   
   

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   井の頭公園でのライブから体調がわるくなるばかりで昨夜からは左腎臓が痛み、出かけるのを見合わせたかったが、そうもいかず新宿に向かう。五年越しの債権回収の件でU社の社長と会うも話し合いは不首尾におわる。

   櫻かたりの会場 参宮橋のオリンピックセンターに向かう。昼前に着き 数名の友人と話す。いっしょに公園ライブをした友人もその後不調とのこと、野外のライブは心しなくてはとあらためて思う。午後の部のかたりは昔話が多かった。方言のかたりにはかなわないなぁと思いつつ いささかの違和感も覚える。不調のため 途中退場しようと思ったが語りのお誘いをいただく。友人のリクエストにより芦刈を語ろうとするも 瀬織津姫となる。...心の準備なきまま覚悟して語りはじめるも 誰の目にもそれとはっきりわかるほどの激しい手の震えがくる。別段あがったわけではない。...とくに良いできだったわけでもないのが不思議だったが これまでのことからしてよしという知らせには相違あるまいと思う。

   .....寺内さん櫻井さんおふたりの楽しい語りを聞きながら このかすかなしかし拭いようのない違和感はなんだろうとずっと考えていた。カフェで今後の打ち合わせをする。HPのTOP画像できあがった由 めでたいが遠くのことのようにも思えた。朦朧としたまま 宇都宮線に乗る。2/17のライブで7年間の総括をし 地の語り、ここにいるここにいたひとびとの語りから 天の語りに切り替えようとしてきたものの 暗中模索であった。いままでなにを語ってきたのか...これからなにを語ろうとしているのか 雲の切れ間のように見えてくる。

   鎮魂の語りのほかに わたしが一度きりでなく好んで語りつづけてきたものがたりの多くは終わることのない進行形の語りだった。コカのカメは旅をつづける ジャックは旅をつづける 娘はオレンジを売り続け わたしは生きつづける ”おとうちゃまへ”の妻は祈りつづける...

   白い花...のはんは闘う エリザベートは闘う おさだおばちゃんはあきらめない...わたしは闘いつづける....違和感のわけがわかったように思った。昔話はそこで終わってしまう。善良なる者は応分のしあわせを得る...かしこい者は利を得る...めでたし、めでたし。....だが人生はおわらない。

   電車は駅に着いた。もうすこし考えたかったのでMACに寄る。...なぜ2/17以降はじめての創作のものがたりが瀬織津姫なのだろう。天照大神も瀬織津姫も巧妙に表舞台から隠された神である。.....ひ(日 火 霊)の神 みず(水 身)の神。男神と女神......瀬織津姫は夫である天照大神の甦りを待つ...御袖を振り 手ずからひとびとに金のひかりを降り注ぎながら早池峰のおやまにのぼる...そして遠野のひとびとを護りつつまことの光の神天照大神を待ちつづける....追われた神に投影されていたのは誰か?....このものがたりの底にわたしが祈るようにゆだねたものがあるのだった。

   このときわたしは自分がすべきことを知ったように思った。生きること語ることは縒り合わされた糸である。...これから語るべきものがたりがわかったように思った。癒しのものがたりを語るひとは多くいる。わたしのテーマは闘いつづけること そして太古から語り伝えられたものがたりを語り継ぐこと。 そのまえにまず今を生きること。愛するものを護ること。

   もうひとつ はっきり見えたのは太古 神への祈りであり ひとびとに天意を伝えるものだった語りが 内に祈りとメッセージを秘めながら しだいにひとびとにだけ向けたものになっていった過程である。他の芸術とどうように現代の語りの対象はひと...である。癒しや楽しみが中心となる。

    聴き手を求めてのものがたりばかりではない。捧げるものがたりも自分のためのものがたりもあっていいのではないか。それが聴き手の魂に響くように精進するとして....。もっと技も磨かなくてはならないのだった。わたしのいる場所語る場所が違うのかもしれなかった。期せずしてきのう書いた「アート 芸能 芸術 芸」の疑問のひとつの答になるかもしれない。

    これからもわたしは果敢にあたらしい地平にチャレンジするだろう。....だがそれよりなにより これから闘いがはじまる。もう目を背けることはできない。いままででもっとも厳しい闘いになるだろう。信頼できるほんとうに手をつなぐべき味方は実はすぐそこにいたのである。背中の痛みは消えていた。

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....語りはアートという方もいる。芸術という方もいる。...なるほどと思うがそれをする自分がアーティストとか芸術家ということになると二の足を踏む..胡散臭い感じ 気恥ずかしい気持ちになる。それで アート 芸能 芸術 芸について整理しようと思う。 井の頭公園でライブをしたことも参考になった。

  artの語源はarm(腕)からきているそうだ。すなわち、広い意味では「人間が築いて来たもの」「手によってなされたもの」「腕によりをかけたもの」は全てartと分類されるのだそうだ。建築 武道 戦術 もartである。

  伝統芸能とは、日本に西洋文化が入ってくる前からあった芸術と技能の汎称で有形無形のものを言う。 詩歌 音楽 舞踊 絵画 工芸 芸道などがある。とするとお神楽 民謡 瞽女語りから盆踊り...浮世絵 能 狂言 茶道 華道 数限りない。

  現代の芸能も芸術と技能の総称だから そこにはひょっとしてスポーツも入る。フィギュアスケート ダンス ゴルフだってゴルフ道があるくらいだからはいるだろう。スポーツ界のアスリートたちも芸能人と考えられなくもない。細木数子さんの占いも手でやる技能だから芸能である。もちろんnewsも関ジャニもはまあゆも芸能。

  芸術には二種類あるそうだ。ひとつは創造する芸術(絵画、彫刻、作曲、文学など)もうひとつは再現する芸術(演奏、演劇など)。創造する芸術は受け手がいなくても成立する。創造行為そのものが芸術であって 世人を意識したものではない。しかし再現する芸術には聴き手 観客が必要である。聴き手や観客がいなければ成立さえしないのである。

  それでは芸とはなにか。芸とは使うひとなり 見るひと聴くひとを満足させることを目的としている。職人芸(いわゆるプロですね)ということばがあるように お客を満足させるためにひたすら技術を磨く。落語 友禅の着物  つねに受け手に向かい受け手を意識するものだ...しかしそこに神わざ...神がやどることがある。

  こうしてみると 語りはアートでもあり芸能でもあり 創造する芸術でもあり 再現する芸術でもあり 芸でもあり得る。ただ語るなら再現芸術 自分で創作したものがたりを語るならその両方...聴き手を喜ばせようと身を削るように努めるなら芸...である。図書館におけるストーリィテリングはどうだろう?本の紹介であれば教育活動、伝統的な昔話を語るなら教育ならびに芸能...といったところだろうか...

  さて いま読んでいらっしゃるあなたの語り・ストーリィテリングはどのあたりに位置づけられるだろう...どちらに向かいたいと思われるだろう....わたしはぼんやりと芸人になりたいと思っていた。しかし この芸人というものがどれほど過酷な訓練を必要とするか 井の頭公園での野外ライブで察知した。

  語りを同好会のメンバーとして語るのはそうむつかしいことではない、学校や公民館でボランティアとして語るのはそうむつかしいことではない。趣味と教養の一環として語るのはそうむつかしいことではない。然るに不特定多数の一般大衆の目の前に娯楽として それも報酬を期待して語るとしたら それは並大抵の努力ではできまい。...プロになることが一部の愛好者のためのものであったなら さほどのことではないのだが....。

  芸をとおして天とつうじることは可能である。長い厳しい練磨のあと..一介の家具屋がまた絵師 瀬戸物師がひとを感動させるみごとな作品をうみだすことはいままでいくらもあったことだ。夢中になってひとつのことに精進することは神につながることなのだ。

  しかし 日常の暮らしをしながら 夫や子どもたちや 買い物や掃除やPTAやご近所つきあいをしながら主婦がしてゆく語り・ストーリィテリングが目指せるものはいったいなんだろう...。

  もっと別の意味 もっと別の方法があるような気がしてならない。語りはたしかにart 芸能 芸術 芸になり得るが わたしがいきたい道はほかにあるような気がする。創造する芸術...受け手を意識しない芸術に身を捧げたひとたちはいったいなにを目指したのか....受け手を意識せずともそのような芸術のいくつかは輝かしい光を放った。路傍で果てた数限りない芸人はつかのまひとを慰めた。

  行き着くさきはおなじかもしれない。けれどもわたしはじっくり考えることにしよう。木々のえだに翠が萌える四月 ふとんを叩く音がのどかにひびくうつくしい土曜日の午後。




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  野外ライブにもさまざまなバージョンがあります。大道芸でやるなら楽しく明るく元気よくの コンセプトでサプライズもあったほうがいいでしょう。 半端にやるのでなくはっちゃけないと観客も楽しめないかもしれません。芸人なのだからばかになりきる度胸です。大道芸は通常の語り・ストーリィテリングにとっても とてもおおきな学びになります。大道芸ならもっと芸を磨く そしてサービス精神と パフォーマンスがないと 単なる自己満足におわってしまいます。

 
  野外ライブはかならずしも 大道芸ばかりではないでしょう。緑したたる樹陰で 芝生にすわってゲームしながら..お寺の境内で...あるいは友達同士お茶をのみながらお庭で..夏のキャンプで 怖いおはなし 月の夜のおはなし会 さまざまな場所でさまざまな野外のライブが可能です。それはどんなに生活をゆたかに彩るでしょう。わたしは大道で語るより自然のなかで 語りにかぎらない共通の ベースを持っているひとと語りたい... 今はそのほうが得るものは大きいと自分では思います。


  まずはもっとみじかなところ たとえば図書館の庭で遊んでる 親子を呼び止めて 自治体のイベントなどで...野外ライブをためしてみてください。もうしていらっしゃる方もいることでしょう。自然のなかで語る...それは語りの原点を知ることでもあります。


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   仕事に追われ「感性と理性」「芸能・アート・芸・芸術」についてなかなか書けずもどかしい日々です。春に酩酊しつつ 日常に忙殺されつつ...今日は井の頭公園で野外ライブします。...たぶんお昼ころないとうさん まつもとさんとごいっしょします。

12時に集合し、まずは内藤さんとライブの場所を物色しました。...時あたかも林をバックに幼稚園や保育園の先生のたまごさんたちが実習していたのを見つけ 声をかけ コカのカメをいっしょにしていただきました。盛り上がって楽しかったです。お昼休みが終わってういういしいたまごさんたちが引き上げ つぎに内藤さんが語り..わたしが語り...6つ終わったところで、松本さん 竹内さんが合流しました。

  場所を移動して..池のまえでそれぞれが弐話ずつ語りました。3時間で13のものがたり...野外での語りについて気づいたことを述べてみます。

  日本でも西洋でも中世の語り手・ストーリィテラーは楽器を携えて語りました。弦楽器が多かったのですが ささらなどもありました。また歌うと語るが不可分でした。それがなぜだかこのたびのライブでよくわかりました。以前 弦楽器の起源は弓であり ブルンブルンと震わせることで語り手の意識を飛ばしカラにする必要があった...と書きましたが 中世においては楽器の響きそのものがたいせつな役割を果たすようになっていったのではないか と推察しました。道行くひとの足を止めさせ 聞き入らせるために語り手たちは技巧の粋を尽くしたことと思います。そうしなければ今日のやど 今日の食事にありつくこともできず あるいは親方にこっぴどく叱られることもあったことでしょう。

  ジョングルールもそうでしたが 楽器や歌はリズム メリハリを生みます。聴き手を飽きさせないことは 語り手にとって生きてゆくためにどうしてもしなければならないことだったのです。ものがたりも笑わせ また泣かせなくてはなりませんでした。庶民の感情に直に訴える喜怒哀楽のはっきりしたものでなくてはならなかったのです。長いものがたりも一節一節の起承転結のはっきりした骨太のものである必要があったのではないでしょうか?...すなわちニュアンスではなくいろあいのはっきりしたものがいいように思いました。

  現代において 語り愛好者でなく不特定多数のひとにむかってライブをするとしたら短いくっきりはっきりしたものがたりが適するでしょう...まずおおかたのひとびとはテレビと不可分の生活をしていますから CMに分断された10分前後しか集中できないということもあります。高齢者に語るとどうようの配慮が必要です。ましてなにかしら別の目的できているのですから 短時間で結果のわかる場面展開の早いものがたり 5分からながくても7.8分がよい加減でしょうか。

  人形や道具をつかうとか 楽器などがあるといいと思います。もっともむつかしいのは語り手の集中 そして力のぬき具合です。 アクシデントもあって わたしは三つめの芦刈の途中で集中が途切れてしまいました。...また  聴き手を引き寄せよう逃すまいとしてかえっていつものように間がとれませんでした。聴き手の反応より1.2秒(もっとかな)早くなってしまったのです。これは路上ライブを重ねれば落ち着くかとも思いますが....そして発声 拡散しやすいので通常の発声ではとおりにくい..日本の芸能は能にしても戸外ないし半戸外.. 神社の境内の舞台やよしずで仕切るなど..が多かったので声をとおらせるため独特の発声をしましたが、発声についてもっと考える必要があるかもしれません。

  場所のとり方も重要です。結界・場をつくりやすい場所 また聴き手が立ち止まりやすい場所が必要です。たのしい話 清清しい話が無難でしょう。その他聴き手を参加させる...即興で対応できる...などふだんの活動での語りにもつながる課題が山積でした。参加者一同 次回の野外ライブに向けた課題を確認しあいました。

  終わったあと 4人で それから櫻井先生が最後の30分飛び入りで参加され3時間にわたるディスカッションをしました。 実りあるものでしたがそれについては後日書くこともあると思います。二時間かかって地元に帰りつきましたが この徒労感 疲労困憊 チリチリとした不安のようなもの...はなんだろうと考えてみてもよくわからないのです。身体のなかに発散されない余熱が残っている感じといったらいいでしょうか。(...これは夜になってわかりました...)

  井の頭公園でのライブわたしは今回が最初で最後になると思います。個人的には井の頭公園のような場所で ライブをするのはわたしのように感覚をひらいて語る語り手には大きなリスクがあると感じました。刑場のあとのようななにかの気配があります。野外ライブの可能性はさまざまですが 清浄な場 大自然の気のなかで太古の語りのように焚き火を囲んでまるくなって おなじ想い価値観を共有する 少なくともおなじベースを持つひとたちと祈りにちかい語りをしてみたいという望みがこころの底に生まれました。オファーがふたつきているので ちかぢか実現するかもしれません。

  やってみなくてはわからないのでした。 ...いままでしてきた語りにとらわれず 呼ばれているほうに行ってみようと思います。...ほんとうにたいせつなものはどこにあるのでしょう...これからのことを根本からかんがえなおすきっかけになるかもしれません...。過去や未来に恋々とすることなく より良い選択ができますように...

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   サウンドオブミュージックというミュージカル映画のなかで ジュリーアンドリュースが歌う歌に Nothing comes from nothing...♪という一節があった。無から有は生じない..とか字幕にあったような気がして それが若いころ妙に気になった。

   ほんとうに無から有は生じない?  宇宙や地球 太陽 星々は宇宙の塵の星間物質が永い永い時を経てできあがったのだろうか...それとも造物主が えぃ!という掛け声とともにつくられたのだろうか...

   零レイと無は違うのだと聴いたことがある。....どう違うかは覚えてないが...creativity..創造力..とimagination...想像力はふたつとも無から有を生じさせる力である。...いや見えないものかたちのないものから 聴こえ見え感動を生むものを呼起こす力といったほうがいいかもしれない。無から無限をひきだす力なのだ。けれどもこの無は実は遠い記憶に根ざしている..レテの川を幾たび越えても忘れ得ない..おおいなる安寧ともしかして愛の記憶...
   

   想像の飛翔するつばさのいきおいをかり 色彩もことばもかたちも惜しげなく費消し繰り広げる創造...それは神に似せてつくられたという人間のみが持つことをゆるされたふたつの力である。...語り手も霊感にひきよせられ 現実のくびきからとびたち 海も宙もわがものとして世界を..ものがたりを..創りだすことができるのだ。

   そのとき 世界をこの手に掴み取ったような 地の冥き底に深い森の洞窟の奥にわだつみの波の下に封印されていた秘密を知ったよろこびに語り手はきっと震えるだろう。
   

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