遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



....きのうのワークショップで講師の永実子さんは「変わる必要なんてない。ありのままでいいじゃない」と明確に言い切った。わたしとMさんは思わず顔を見合わせ笑いだした。...というのも語りのテイストが正反対である彼女は彼女でわたしはわたしで変わりたい、変わりたいと思い、自分に無いものを求めあがいてきたからだ。

  そういう永実子さんは本音はコメディを演出したいがシリアスの脚本しか来ないのだそうだ。引越しのとき、荷物の2/3を処分したという思いっきり思い切りのいいひとでもある。実も名もある方なのにTPO一切関係なし、スタイルはいつもシマムラー....洋服類も処分したそうだ。「本を処分するのはたいへんだけど、処分しました...とても楽になりましたよ」さらさらっと彼女は言う。たしかに楽になるだろう...捨てれば捨てるだけ...それができなくてわたしはまだものの山の中にいてまだ本やらCDを買い漁っている。

  ものを持つということはそれに付随するもろもろの感情や記憶や思い入れも持ちつづけるということだ。旅に出ればわかることだが、ひとはデイバックひとつとその夜寝る場所、その日の糧さえあれば生きてゆける。...にしてもね、持ちモノハアリバイニスギナイにしても、変わらなくては棄てられない。

  変わらざるを得ないときは自然に変わる、それまでは無理しないで自分のスタイルを貫け...ということだろうか....今朝、わたしは小学校で、このごろ楽しいお話ばかり語っていることに気づいてはっとした。なぜなんだ....と考えたときわたしは....「語りは楽しいものでなくては...」ということばが呪文のように自分を縛っていたこと。ブログに反論を書きながらいつのまにか心に切り込むような語りを避けていたことに気づいて愕然とした。

  ....心から語りたいと思えなくなった隠された理由のひとつがここにあったのだ。身体や感覚以前の問題だ...語りはじめの頃...心臓を素手でつかみ出すような語りとか...はだかの語りとか言われたことがある。語る場もなくて語りたくてならなかった頃、下手でもなんでも遠慮なしにぐさぐさ聴き手の魂を揺さぶる語りをしていたわたしはどこにいったのだろう。なにをしているのだ...どうしようもなく語りたい語り、わたしにしか語れない語りをナイチンゲールのように語りつづけるだけでよかったのではないか....暗くても哀しくてもいいではないか....

  だれだってその時語らねばならないものがたりがある。身銭を切っても語りたいものがたりがある。学校でもどこでも楽しいものばかりでなくていい。白熊の親子は今日も南極大陸で力尽き死んでゆくだろう。聴こえない悲鳴をあげて刈り倒される森林、絶滅する動植物 汚れた水を飲み病に冒され食料もなく死に行くひとびとがいて、なに!?楽しい話ばかり語れるものか.....

  幾百年伝えられたホピの予言は楽しいか、古事記はたのしいものがたりか、イリアッド、オデュセイアは?イシスとオシリスのものがたりは、ローランの歌は、ケルトの伝説は?エッダは??幾千幾万の夜 篝火のもとで語られてきたものがたりは楽しいものがたりばかりであったのか???悲しいものがたりを語るのは実は大きなパワーを必要とする。その向こうに救いを伝えようとするならなおさらのこと....一見悲しいものがたりのその奥に希望を籠めよう...

  Mさんのように抱腹絶倒とはいかないが楽しい話も語る.......だが自分の本来の持ち味もたいせつにしよう...どシリアスで行こう...たとえ誰が何を言おうがそれがメディアであったり権威であったりしても、流されまい、本質を見誤るまいと思う。枷がひとつ落ちる。


  これは怯楕な自分への怒りである。「しっかりしろ!!」と言ってやりたい。...だがそうなってしまう心の動きもよくわかって そこのところがなにがし切ないのである。




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