遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   空が青い。自転車で近くの高校にむかう青年の群れ、ワイシャツが風をはらんで白い。みんながんばれ...なにがあっても自分を矯めたり撓めたりしないでまっすぐ、まっすぐ ...空にむかって深呼吸をした...元気がでてきた。

   ワークショップは旅のようなものである。いいワークショップは日常のアクを落とし心身ともにリフレッシュさせてくれる...つまり書くことがたくさんできるのだ。わたしはいいワークショップに恵まれている..それとも誰かが用意してくださっているのかな...。この夏も...夏はワークショップの季節だ....四つ目星をつけたのがあって、身体もお金もついていかないのでせめて三つにしぼろうと悩んでいる。

   受ける立場にいたのが、今回主宰してみて興味は倍になった。人数は採算も考え当初10人に設定したが、勘にしたがい8人で打ち切った。それは正解だったようだ。ひとりひとりの顔が個性がくっきり見える。はじめての方よりすでになにかしらかの活動をなさっている方が多かったのはもくろみとは違ったし、プログラムを組むうえでどうかな...と心配したのも杞憂だった。メンバーの内的ボルテージが高く、いい意味で化学変化を起こしそうである。

   さてメンバーがワークショップに求めるものはそれぞれ違うが、ひとつ共通するテーマがあった。発声である。それぞれが自分の声に100%満足しているわけではないようだ。わたしはヴォイスのプロではないが、今回のメンバーについては地声とファルセットはほぼ半々のわりあいのようだ。女性はファルセットのほうが多いのだが、声を使っているひとが多いからであろうか。

   高めの声のほうが子どもにうけるので...というひとがいたが、まさにそうである。....子どものまえに出ると思わずなんオクターブが上がりませんか。わたしの場合幼稚園とデイケアでは声の高さが、意識しているわけではないのだが変わるようである。女性を観察していておもしろいのは男性が輪に入ったとたん、声が高くなるひとがいることだ。声もフェロモンのようなものなのだろう。....芝居のサークルで若い純な青年たちといっしょになった時、わたしの声も艶めいているのだろうか。

   うちの犬たちは高い声や笑い声に反応し、ときに発情する。赤子の産声は人種を問わずラの音...440ヘルツ周辺にあるそうだが、そのあたりも鍵なのかも知れない。生命のみなもとの音というひともいる。

   わたしは多くのヴォイストレーナーとであった。ヴォイストレーナーは研究熱心な方が多くそれぞれが固有のメソッドを持っている。身体の構造からいく方、腹式一辺倒の方、丹田呼吸派、、、、最近はスピリチュアル系のヴォイストレーナーも増えてきた。それぞれのかたからさまざまなヒントをいただいてきたのだが、不思議でならないのは語る声をずっと聴いていたい..と思うようなヴォイストレーナーには出会わなかったことである。教えることと実際に語ったり演じたりすることは違うのだろう。教えるときの声は威圧的になり勝ちだからかもしれない。

   歌手の声を鍛えるのとステージの役者の声と語り手の声というのは共通項はあるものの違いがあると思っている。本質的な声...という意味では同じであるが。....文句なしに好きなのは佐分利信、山村聡の声...いい役者だったが声質が亡くなった父の声と似ているせいもあるのだろう。深いところから出るやはらかい豊かな 余分な力の入っていない たくさんのいろあいの細い糸が束ねられたような声。それなのに芯のある声。生きている人なら宇野重吉さんの息子さんの語りの声は好きである。

   
   メンバーには人を教える立場や人の上に立つ立場の方もいた。その方々の心配は上からのものいいが語る声に出るのではということだった。...ひとを従わせようとする威圧的な響かせ方はなれればいとたやすくできる。相手によっては実に大きく作用する。わたしもビジネス上でここぞというときに使うし、脅かすことさえある....その声の調子はものがたりのなかでステーサスの高いドルイド僧とか王とかの声に効果を発揮するが地の語りではニュートラルなほうが当然受け入れやすいだろう。

   生き方とかくせは当然発声にでるので、自分の声はどうなのか、ことばを替えるなら自分のステータス(社会的に自分が思っているあるいは内的な)が高いか低いか気づくことはたいせつである。気づきと意識、学ぶことはそこからはじまるのだ。

   風雪に晒されたようなまた豊穣な声を出せるようになったらそれだけでもう語り手としてはいいのだと思う。....ワークショップに行けばヒントはいただける。器質的なこと、くせをとる、響く身体にする、地声を鍛えるなどでたしかに声は変わる。さりながら本質的な声・ヴォイス・息づかい...息は生き...からきているのだそうだ...というものはどのように生きているかがにじみ出るものであって、魂の深さ、感情の豊かさ、経験、精神性....からだの健康....現在の生命力が声となるのである。...だからどう生きるかが究極のボイストレーニングであると思う。

   逆にいうなら語りでもなんでも必死こいて学ぼうとすること、自分に耳を傾け気づき、くせを知り意識することは人生の質を高める。よりよく生きるトレーニングにもなり得るのである。押し付けることなく、触れ合って気づきあってゆきたい....梅雨の合間の青い空を見上げながら.....思ったこと。




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