さて義経堂から移動。
また結構な階段があります。
ほどなく「背比べ石」とその祠が見えてきた。
これは、牛若丸(当時は、遮那王)が奥州・・・いまでいうたら岩手県奥州市へ下る時、
鞍馬の名残りを惜しんで背丈を比べたのがこの石。
なんで背丈を比べたのかはようわかりません。
案外、小柄な子やったんかな・・・。
ホビット族みたいや。
屏風坂(びょうぶざか)の地蔵堂。
別名「革堂(こうどう)の地蔵堂」
行円がこのあたりで牝鹿を射止めたあたりなんやろか。
行円(ぎょうえん/平安時代中期の僧)は、猟師だった。
射止めた牝鹿の腹の中にいた子鹿が生きているのを見て改心し、仏門に入らはった。
比叡山の横川で修行したとされており、皮聖と呼ばれていた。
これは自分が射止めた牝鹿の皮に経文を書き、
それを寒暑に関係なく身につけていたことに由来する。
丸太町寺町下がった行願寺(別名、革堂)の方がはるかに有名やね。
これは、「息つぎの水」。
牛若丸が東光院から奥の院へ兵法の修行に通う途中、
この清水を汲んでのどの乾きをうるおしたという場所。
ちょっと、水を飲もうという雰囲気ではなかったな。
「鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官義経・・・ええっ!!弁慶にしておけ」
タイトルと対の文章。
落語の「青菜」とわかる人は通やね。(笑)
また、11月に入ったら紅葉見物がてら行きます。
私なら息つぎの水が欲しくなる。
鞍馬、私は貧脚なので行くのは銀閣寺・・・
?足が、よします>足利義正。。。ダメ?
なんかバタバタしますね。
いまぐらいの時期。
11月は人が多いだろうな。
息つぎの水を飲んでお腹をこわしたら踏んだり蹴ったりになるかも。
よします・・・仕方ないな~座布団1枚半。
戦いぶりも、とても雄々しいとは言えない有様で、奇襲・夜討ちは当たり前、一騎打ちにはひたすら逃げ回り、と当時の合戦の常道を悉く無視し、ただとにかく勝てばいい、という様子だったようです。
この辺は、後の楠木正成に通じるものがありますね。
結局、勝つには勝ったが、あまりにみっともない勝ち方だったことが頼朝の不況を買い、後に抗争へと繋がっていったとも言えます。
でも、生い立ち・境遇を考えると、そういった戦い方になってしまったのは仕方ない事だな、とも思えるし、政治の駆け引きに疎かったのもやむを得ないように思えます。
悲運ではあったと思いますが、必然だったというのが私の源義経評です。
だから、勝てたんでしょうね。でも帝王学は学んでいなかった。山の民ですから。
きっとそれが戦いに勝ってから問題になった。仕方ないですね。