京男雑記帳

洛中で生まれ育った京男が地元視点で見た日常風景や話を雑記的に掲載

人食い地蔵とは物騒な

2012年07月03日 05時17分21秒 | 社寺
ここは、積善院準提堂。
そう言ってわかる人は少ないでしょう。
須賀神社のお向かいさん。
それでも無理か・・・。
聖護院門跡の東隣にあるお寺。
聖護院八ッ橋の近く・・・。
下に地図をつけておきます。



崇徳上皇の怨念をしずめる
崇徳院(すとくいん)地蔵




↑父親の車が止めてあります

保元(ほげん)の乱に敗れ、弟の後白河や清盛によって讃岐(さぬき)に流された崇徳上皇はその地で都を呪(のろ)いつつ1164年に没した。その頃都で大火がが続き病気がはやり、清盛も高熱の病で死んだ。上皇の祟りと恐れた都人(みやこびと)が慰霊のために地蔵尊を造ったが、呪いを背景に発音が似ているところからいつしか「人食い」と言われるようになった。



京男は、高校の時、世界史コースだったので、この保元の乱はよくわかりません。
でも当時、讃岐に崇徳上皇を流したことが気になっていたのでしょうね。
悪いことが都で起こったことと結びすけ、恐れたようです。
このエピソードは、いまNHKで放送している「平清盛」に出てくるエピソードなんだろうな。
でもやっぱりよくわからない。
どちらが良いのか悪いのかは、わからない。
歴史は生き残った方が書くだろうしね。



京男の場合、崇徳院といえば
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
ぐらいしかわからへん・・・。
このお地蔵さんと関係あるんやろか?



思うんやけど鎮魂のお地蔵さんならもうすこし立派な方がいいのと違うかな。
そう思いませんか。
最終的には、明治天皇さんが明治元年(1868年)に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。

「積善院準提堂」地図

Twitter→@kyo_otoko
コメント (3)
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