尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

衆議院の「7条解散」は憲法違反

2017年12月28日 22時57分16秒 |  〃  (選挙)
 部活に関する考え方を大きく変えたと先に書いたけれど、他にもう一つ今年になって大きく考え方を変えた問題がある。それは「憲法7条に基づいて衆議院を解散すること」の是非である。後で詳しく書くけど、首相が有利な時期を見計らって解散をすることを、僕はこれまで「そんなもの」だと思っていた。数えてみたら、今まで15回の衆議院選挙で投票してきたが、このうち任期満了が1回不信任案可決が2回である。他は全部「7条解散」だから、なんとなく「そんなもの」だと思うわけである。

 7条解散というのは、日本国憲法第7条に「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」とあり、その三に「衆議院を解散すること。」とあることに基づく解散である。その前の4条で、天皇は「国政に関する権能を有しない」とされ、3条では「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」とされる。

 だから、天皇が自分で衆議院を解散しちゃえというのはダメだけど、内閣総理大臣が「解散するべきです」と「助言」したら、天皇は解散するしかない。天皇には政治的な権能がないわけだから、臨時国会で審議もしないで冒頭解散するっておかしいんじゃないですか、解散は認めませんなどと言うわけにはいかない。内閣の「助言と承認」により、衆議院を解散するしかない、と僕も思っていた。それがいいか悪いかとは別問題として、今の憲法の解釈としてはそうなるんだろうなということである。

 ところが、この解釈は間違いだというのが片山善博氏(早大大学院教授、元鳥取県知事、元総務大臣)の違憲論である。東京新聞11月27日夕刊に掲載された、片山氏の「ご都合主義の衆院解散 憲法を素直に読み、限定を」という所論を読んで、僕も完全に説得された。確かに明示的には7条解散は否定されてはいないと思う。だが、憲法の解釈としては「7条解散は想定されていなかった」と考えるのが正しいのではないか。今年になって考え方を変えたのである。

 そのことを説明するとちょっと面倒くさいんだけど、まあ一応きちんと書くことにする。まず、天皇の国事行為を定めた7条の前の、憲法6条から。そこでは「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。」そして「2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。」とある。これはものすごく重要で、絶対覚えていないといけない決まりだ。

 ところで、なんでこんな決まりがあるのだろうか。普通の大臣は、「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する」(68条)。最高裁の裁判官は「(前略)その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。」(79条)ということで、どっちも内閣が責任を持っている。戦前の大日本帝国憲法では、総理大臣は天皇が選ぶことになっていた。まあ天皇が自分で決めるというよりも、元老や重臣で決めていたわけだが、条文上では天皇の権限とされていた。

 現行憲法では、内閣総理大臣は国会の指名、最高裁長官は内閣の指名である。それならそのまま決まりでいいじゃないか。それをあえて「天皇の任命」にしているのは、天皇が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(1条)だから、国家として重要な総理大臣と最高裁長官の「権威付け」を図るために「天皇任命」になっていると考えられる。天皇は政治的な権能は持たないけど、象徴という「権威」はあると思われているから、このような決まりになるのだと考えられる。

 さて、7条にある「天皇の国事行為」は以下の通り。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること
二 国会を召集すること
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。 

 この中に六の「大赦、特赦、減刑…」は、憲法73条で、内閣の権限として「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。」が挙げられている。内閣が決めるんだけど、それを天皇が「権威付け」するわけである。一番最初にある「憲法改正、法律、政令及び条約」の公布に関しても、それぞれが憲法の他の条文で定められている。例えば、法律に関しては59条で「特定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。」とある。法律は国会で決まるわけだが、公布にあたっては天皇の名で行うことで「権威付け」している。

 憲法改正についても「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」となっている。当たり前のことだけど、天皇が、あるいは内閣が勝手に憲法改正を公布することはできない。安倍首相が「憲法9条に自衛隊を明記する」と憲法を改正して欲しいと天皇に「助言」しても、これは天皇が承認できない。

 栄典授与、外国大使・公使の接受、儀式などは憲法の他の条文に書かれていないけど、これは当然のこととして「権威付け」である。栄典に関しては、憲法制定当時は軍人等の勲章は停止されていたから書いてないのではないかと思う。その後、勲章が復活するが、もちろん内閣が決定している。このように、「天皇がするべきこと」はおおむね憲法の他の条文に書かれていて、それを「権威付け」するためにのみ天皇が関与することになっている。

 そういう中に、憲法7条の「三」の衆議院解散がある。そうすると、これも憲法の他の条文に書かれていることの「権威付け」だと考えるのが自然だ。憲法69条には「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」とある。衆議院で内閣不信任案が可決された場合、内閣が衆議院の解散を決断する場合である。これ以外に衆議院が解散されるケースは憲法に書いてない

 だから憲法を素直に解釈すると、内閣不信任案が可決され衆議院が解散されるとき、その解散・総選挙を「権威付け」するために天皇が出てくると見る方が自然だ。ちょっと面倒なことを書いてきたけど、要するに憲法7条をタテにして「天皇に助言して解散する」は脱憲法的手段だということだ。僕はそう思うようになったわけである。衆院議員の任期は4年もあるのに、首相が解散権をもてあそび、任期の半分も過ぎれば議員がソワソワし始めるというのは確かにおかしい。

 与党が圧倒的多数だったのに、今年ことさらに選挙をする意味はない。多額の国税を費やして選挙をやったのは、私的結社である自民党総裁選に対する個人的な野望のためだろう。イギリスでは選挙は基本的に任期満了でやるように法律で決めた。しかし、2017年には任期前に総選挙を実施している。それは首相が表明し、国会が同意した場合に特例で解散できるとなっているからである。だから、最低でも法律で「国会の同意ある場合は衆議院を解散できる」という決めない限り「7条解散」はおかしい。そう思うようになったわけである。
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