尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「シベリア出兵」とは何だったか-中公新書「シベリア出兵」を読む

2017年12月05日 23時04分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書の麻田雅文「シベリア出兵」を読んだ。2016年9月に出た本で、1年間買ったままだったが、ロシア革命100年に続く問題意識で読んだわけである。2017年のロシア革命100年に続き、次の2018年は米騒動と原敬内閣、「シベリア出兵」から100年だ。僕でさえ詳しく知ってるとは言えないし、多くの歴史教員も同じだと思う。当然生徒だって「そんなのあった?」というところだろう。

 この本には「近代日本の忘れられた七年戦争」という副題が付いている。読んだら現代にもつながる問題で、もっと知っておくべき出来事だと強く思った。当時は第一次世界大戦中で、連合国の共同出兵による「ロシア革命干渉戦争」だった。しかし、他国が撤退したあとも日本だけが残り続け、撤退の機を逸し続けた。出兵を開始した寺内正毅内閣に始まり、原敬、高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦圭吾、加藤高明と内閣が変わり、7年間も続いてしまった。

 一度戦争を始めてしまうと、なかなか撤退できない。それは同時多発テロ事件後に、アフガニスタン攻撃を始めたアメリカが、いつまでも残り続けていることでも判る。どっちも正規の政府に対して宣戦布告した「正式の戦争」じゃなかった。「過激派勢力」を排除すると称して出兵したものの、相手政府がうまく機能しないからズルズルと残留しないといけない。それは日本がその後に起こした日中戦争にも似ている。現地の状況を無視して始め、成果無しでは撤兵できないという感情論で引くに引けなくなる。戦争というものは始まる前に止めないといけないのだ。

 「シベリア出兵」という言葉はあまり適切じゃない。本書でも一般的用語だから使うと述べているが、本質は「シベリア戦争」だった。日本軍はウラジオストクを長期占領し、ハバロフスクからチタ、イルクーツクまで侵攻した。またニコラエフスクで起きた日本軍民の虐殺事件(尼港事件)をきっかけに、北樺太を5年近く占領した。当時は南樺太を日本が領有していたから、一時は樺太(からふと=サハリン島)全島を支配した。北樺太には石油が出て、資源をねらった面もある。

 この問題に関しては、いくつかの専門書が出ている。原喗之「シベリア出兵」(1989)という大著の研究書を持ってるけど、ものすごく分厚いから結局まだ読んでない。歴史の教員だって、自分の専門以外の研究書まではなかなか読めない。シベリア出兵に関しては、一般向け新書などが今までなかった。今回の著者、麻田雅文氏は、1980年生まれの若手研究者で岩手大准教授。この本にも何度か出てくる原敬の出身地盛岡で書かれたことは「何かの縁であろう」と書かれている。

 当初は国際的な駆け引きが激しかった。ロシアのボリシェヴィキ政府がドイツと単独和平したから、英仏等は日米にシベリアからロシアとドイツをけん制して欲しかった。原敬は当初は野党党首として出兵には反対し、その後も極力撤退しようとするがなかなかできない。「統帥権の独立」で、総理大臣の権限は軍の命令指揮権には及ばなかった。陸軍では明治から続く長州の山縣有朋が元老として権力を持っていて、陸相の田中義一もなかなか力及ばない。この山縣と原をめぐる駆け引きは近代史上に有名で、実に興味深い。

 結局、ロシア領内に取り残された「チェコスロヴァキア軍」の救出を目的にして、米英中伊仏カナダとともに出兵することになった。(チェコスロヴァキアは大戦時はオーストリア帝国の一部で、ロシア国内にいたチェコ人や捕虜で軍隊を作って独立を目指していた。)ロシア国内では様々な反革命勢力があったが、日本は謀略的に多くの人々と接触し、コルチャーク政権を樹立した。現地に傀儡政権を作って裏から操ろうという発想は、後の満州事変、日中戦争でも繰りかえされる。

 日本軍がなかなか撤退しなかったのは(諸外国からは大きく批判された)、シベリアの隣の「北満州」「モンゴル」への勢力増大を狙っていたからだ。日露戦争で朝鮮と南満州は勢力圏にしていたから、その隣に社会主義政権ができることは認められない。日本の一部はシベリア領有まで主張したが、さすがにそれはできない。陸軍は歴史的に「北進」(ロシア、ソ連を仮想敵国とする)を求めることが多い。「満蒙は日本の生命線」と後に主張するが、シベリア出兵こそ原点だった。

 尼港(にこう)事件のくわしい事情もあまり知られていない。僕もパルチザンによる虐殺事件という程度しか知らなかった。でも、日本軍は単に駐留していたのではなく、事実上反革命勢力そのものとしてボリシェヴィキのパルチザンと戦っていた。民間人捕虜もこの時に虐殺されたので、ボリシェヴィキ側の残虐性は否定できない。それでも革命進行時に外国勢力に干渉された「恨み」が残り続けたことも理解するべきだろう。やはり外国軍による干渉はよくない。結局、1925年になって、やっと日本は北樺太から撤退した。原敬は1921年に暗殺され、レーニンも1924年に死去していた。「死者への債務」という意識が政治家・軍人が撤退を決断できない理由だった。犠牲者を出したあとでは、「お土産」(利権)がないと国民の反発を恐れてしまう。

 そんな中でも少数の批判者はいた。石橋湛山などの他、与謝野晶子も批判していた。
 「無意義な出兵のために、露人を初め米国から(後には英仏からも)日本の領土的野心を猜疑され、嫉視され、その上数年にわたって撤兵することが出来ずに、戦費のために今に幾倍する国内の生活難を激成するならば、積極的自衛策どころか、かえって国民を自滅の危殆に陥らしめる結果になるでしょう。」これは1918年3月17日付で横浜貿易新報に発表されたものだという。実際の出兵は1918年8月だから、5カ月も前にその後の推移を完全に「予言」していた。

 見える人には見えていたということである。そのことも今に残された重い教訓だと思う。なお、兵士の苦闘などには触れられていない。軍事、政治、外交史が中心になっているけど、「渦巻ける烏の群」などを書いたプロレタリア作家の黒島伝治などは紹介して欲しかった気がする。壷井栄を生んだ小豆島出身の作家である。極寒の地に贈られた兵の苦労は並大抵のものではなかった。
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