尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『福田村事件』をどう見るか、虐殺事件を直視した問題作

2023年09月13日 23時22分55秒 | 映画 (新作日本映画)
 森達也監督『福田村事件』を見たので、どう評価すれば良いのか感想を書きたい。テアトル新宿は水曜日がサービスデーなので、ほぼ満員になっていた。何もそういう日に見なくても良いのだが、諸般の事情で他の日が取りにくかった。話題になっているから、まだまだやってるだろうが、関東大震災関連の記事を書いてる間に見ておきたいなと思った。

 見る前には心配もあったが、まずは「なかなか良く出来ていた」というのが僕の評価である。事前の心配として、このような「歴史劇」の場合ストーリーが事前に決まっているので、「絵解き」になりやすいことがある。この事件を知らずに見る人もいるかとは思うが、実際にあった話だとは知ってるだろう。また、はっきり言ってしまうとドキュメンタリー映画の監督森達也の初めての劇映画という懸念もあった。記録映画から出発して劇映画で大成した監督も(黒木和雄のように)いるけれど、あまり成功しない場合の方が多いのではないか。(ヤン・ヨンヒ『かぞくのくに』はオートフィクションとして成功したので、ちょっと例外。)
(演出する森監督)
 事件そのものの内容に関しては、『福田村事件』を書いてるので省略する。問題はこの事件だけ描いていては、ドラマとして弱いということにある。だからフィクションにするときは、「補助線」とか「狂言回し」的な人物を創作することになる。この映画では澤田智一井浦新)、澤田静子田中麗奈)という夫婦が「朝鮮帰り」という設定で、村内の対立構造と朝鮮問題の本質をあぶり出す役割を担う。また千葉日日新聞(架空の新聞)の記者恩田楓木竜麻生)が亀戸に平沢計七に取材に行くなどして、広い視野で震災時の虐殺事件を考えさせる。この工夫をどう見るかが評価の決め手だろう。
(澤田夫妻)
 この映画のチラシ(上記)を見ると、俳優名より大きく、脚本を書いた佐伯俊道井上淳一荒井晴彦の名前が出ている。脚本が映画成立のために最大の貢献をしていることを示している。3人とも活躍してきた脚本家だが、特に荒井晴彦は現在の日本で最高の脚本家と言って良い。具体的にどう分担したかは(今のところ)僕は知らないけれど、この脚本は力作であり、映画を支えていると思う。ただ、「盛り込みすぎ」で総花的な構成を批判する意見もあるようだ。それも理解出来ないではないし、僕も亀戸事件まで描くのはちょっと散漫になると思った。
(行商人リーダーの沼部新助)
 一方被害者になる行商人側はリーダーの沼部新助永山瑛太)を中心的に、よく描き分けられている。初めて参加した若者、出産間近の夫婦などを交えながら、被差別部落出身者が行商に出た様子を事細かに描いている。途中で朝鮮人の飴売り(当時「朝鮮飴」と呼ばれて関東一円にかなり多かったと言われる)と出会うシーンも、フィクションとして許されると思う。(ただ扇子を貰うのはどうか。また放浪のハンセン病者も出て来るのは、盛り込みすぎと言われても仕方ないだろう。)そのようなリーダーは統率者として厳しい反面、優しい一面もあるという設定がラストに生きてくる。
(ラストの事件の描写)
 この事件は現代人からすると、実際に起こったとは思えない「ありえない話」に見えるだろう。それをいかに説得力あるストーリーとして表現するか。ラストまでに村内の権力構造を細かく描いている。強硬な在郷軍人会リーダー、宥和的な村長などに加え、渡し船船頭の田中倉蔵東出昌大)と戦死者の妻島村咲江コムアイ)の許されざる関係、日清戦争時の旅順虐殺を経験した井草貞次柄本明)の真実、そして朝鮮帰りの澤田夫婦の内情などが描かれる。その結果、日本近代史を縦横に飛び交い、性的な側面も含めた重層的な村内構造を提示する。それあってこそ、村人と行商人たちが出会ってしまった時の悲劇が納得出来る。

 この映画が描き出した悲劇が何故生まれたか。それは観客が一人一人自ら考えるべきことで、ここでは触れない。(他の記事で散々書いてきている。)映画の構造としては、様々な人物を描きわけながらラストで皆が集まって悲劇が起きるというスタイルになる。この構図はかなり効いていて、観客を飽きさせずにラストまで連れて行き、これは一体何故起こったんだと考えさせる効果をもたらしたと思う。だが、この種の物語の場合、どこまで「歴史離れ」が許されるのかという問題はある。

 具体的に書いておくと、冒頭にシベリア出兵の戦死者が村に帰ってくるシーンがある。シベリア出兵時もこういう迎え方だったか疑問もあるが、日本軍は各国の中で一番遅くシベリアから引き揚げたが、それでも1922年に全員引き揚げているから震災の年(1923年)にはあり得ない。また野田醤油の大争議は確かに1923年に起きていたが、4月には一端終わっていたという。また香川県の被差別部落でどの程度「水平運動」が伝えられていたかも疑問。「水平社宣言」を生存者が唱えているが、「人間に光あれ」は「にんげん」ではなく「じんかん」である。作者が間違っているのか、判っていてやってるのか不明。9月1日に山本内閣はまだ発足していないので、山本首相が暗殺されたというデマが飛んだというのも不思議。「富士山噴火」の方が良いと思う。
追伸・澤田の耕す畑を見ると、澤田夫妻の帰郷は震災直前ではない。だから冒頭シーンは震災直前ではなかったはずだ。三一独立運動(1919年)と関東大震災(1923年)の間のいつかになり、澤田夫妻とシベリア戦死者の帰郷が重なることも起こりうることに書いた後で気付いた。)

 いろいろ盛り込んで重層的な差別構造を示した面は評価出来るが、ちょっと盛り込みすぎて図式的で浮いたセリフもある。ここまで作り上げた脚本の貢献は大きいが、それに加えて美術、衣装なども見事だった。見るべき問題作で今年の収穫なのは間違いないが、今年のベストワンの大傑作とまでは評価しない。見ててアレレと思うシーンも結構多かったからだ。森達也監督の演出力は一応満足出来る。ドキュメンタリーよりずっと成功していたと思う。ジャーナリスティックな活躍をしてきたと思うが、ここではその感性を抑えて観客に考えさせる演出をしている。(新聞社の上司が「似てるな」と思ったら、やはりピエール瀧だった。テーマ以上にキャスティングに勇気を感じた。)

 森監督の経歴を今まで知らなかったが、僕とほぼ同時代に立教大学法学部を卒業していた。在学中に黒沢清監督らの自主映画製作グループ「パロディアス・ユニティ」にいたと出ている。じゃあ、どこかですれ違っていたはずだなと驚いた。
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1 コメント

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多少の問題もありますが (指田 文夫)
2023-09-17 09:33:49
『福田村事件』には、香川からの行商人が貧乏で、衣装が芸人風なども間違いもあるそうです。富山の薬売りと同様に、香川の薬売りもかなり裕福だったそうです。また、衣装も旅芸人風で、あれは間違いとの指摘もあります。
3人のライターの内、荒井は制作・金集めで、中心は佐伯俊道だと思う。

ただ、私も横浜や東京での虐殺事件は知っていましたが、千葉でもあったとは知らないことでした。
土曜日に横浜で見ましたが、満員で補助席が出ている状況で、関心が高く、小池百合子のような人間は少数派はなんだなあと思いました。
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