尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

結城昌治「あるフィルムの背景」を読む

2017年12月14日 21時07分22秒 | 〃 (ミステリー)
 結城昌治(ゆうき・しょうじ、1927~1996)のミステリー短編集「あるフィルムの背景」がちくま文庫から刊行された。ちくま文庫は獅子文六や源氏鶏太など「昭和の娯楽小説」をどんどん「再発見」している。結城昌治は僕の好きな作家だったけど、この短編集は読んでないのでさっそく買って読んでみた。帯には「昭和に書かれていた極上イヤミス 見つけちゃいました」とある。

 時代も感じるとはいえ、今も面白いのは驚くばかり。読みやすくて、なかなか含蓄がある。ただし、今じゃ書けないような話がけっこう多い。表題作は検事が見たブルーフィルムに映っている女が妻に似ていると感じたところから始まる。エロ写真やブルーフィルムを売って捕まったチンピラの「証拠調べ」である。「ブルーフィルム」も死語だろう。8ミリなんかで撮ったわいせつ映像のことである。今はインターネットがあるから、そんなものを路上で売る人は誰もいないだろう。

 そういう時代性が今になっては興味深いのである。これは昔の娯楽映画を見る面白さに通じるものがある。「セクハラ」などという言葉はなく、女性は「処女性」が尊ばれていた。レイプ犯が非難されず、「すきを見せた」と被害者が非難されたような時代。ホントにそんなバカなことがあったのである。そういう話もいくつかある。少年をテーマにした「孤独なカラス」の恐ろしさは時代に先んじていた。

 また、交通事故が出てくる小説が多い。2016年には交通事故死者数が4000人を割ったが、60年代には今よりもずっと交通事故が多かった。1960年から70年代半ばまで、死者が1万人を超えていた。一番多い年は1万5千人を超えている。人口が1億人に達したのは1967年だった。だから事故死の割合は高かったのである。「交通戦争」とまで言われ、大きな社会問題だった。道路の状態も悪かったし、法的な整備も遅れていた。そういう問題も大きいんだけど、子どもの数がずっと多くて、世の中も高度成長で急げ急げの風潮が世を覆っていたのもあると思う。

 第2部にはブラックユーモア風の作品が収められている。それらも絶品が多い。(「温情判事」の量刑は無理があると思うけど。)人々がまだ貧しくて、貧困や戦争が絡む事件も多い。そんな中で、普通の人々がふと犯罪に引きずり込まれていく瞬間を生き生きと描いている。それは「イヤミス」と言えば言えるかもしれないけれど、印象はちょっと違う。「イヤミス」というのは、読んで後味が悪くなるようなミステリーというジャンルで、湊かなえ「告白」とか、アメリカの「ゴーン・ガール」なんかが典型。この短編集は、後味が悪いのもあるけど、切れ味の鋭さでうなるような作品が多い。

 結城昌治は高校卒業後に東京地検に勤務していたが、結核で闘病した。そこで福永武彦の感化を受けてミステリーを書くようになった。1970年に直木賞を取った「軍旗はためく下に」は戦争中に不可解な罪を負わされた人々の真相を突き止めようとする話だが、それは検察で体験した出来事に基づいている。「軍旗はためく下に」は深作欣二監督が映画化し、出色の戦争映画になった。

 解説でも触れられているが、結城昌治は実に幅広いミステリー小説を書いた。いずれもレベルが高いのには驚くばかり。特にスパイ小説「ゴメスの名はゴメス」や私立探偵真木シリーズ「暗い落日」「公園には誰もいない」「炎の終わり」は僕が大好きな作品だ。また映画化された「白昼堂々」や日本では珍しい悪徳警官もの「夜の終る時」などもある。アメリカの影響を受けたミステリーが日本でも60年代にはたくさん書かれた。結城昌治はその中でもジャンルの幅広さと質の高さでは格別である。。

 もっとも結城昌治の最高傑作は、ノンミステリーの評伝「志ん生一代」じゃないかと思う。古今亭志ん生の生涯を描く壮絶な伝記小説で、人間の不可思議を突き詰めるという意味ではこれもミステリーなのかもしれない。もうほとんど文庫でも残っていないと思うが、これをきっかけに「結城昌治コレクション」などを刊行してくるところはないか。
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ノーベル平和賞、サーロー節子さんの演説

2017年12月12日 22時58分35秒 | 社会(世の中の出来事)
 2017年のノーベル平和賞が「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN=International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)に授与され、授賞式典ではカナダ在住の被爆者、サーロー節子さんも演説した。この演説が非常に力強い感動的なものだったので、ぜひ書いておきたいと思った。

 授賞決定に関してはここでは書かなかったけど、僕はできれば「日本被団協」との共同授賞が良かったと思う。今年は事前にはイラン核合意関係の授賞が有力とされていた。いずれにせよ、北朝鮮の核開発やトランプ政権発足があり、核兵器をめぐる授賞になるだろうと僕も予想していた。日本の「ヒバクシャ運動」に授賞することは、「戦争認識」問題を呼び起こす可能性があり単独授賞は難しいかもしれないが、もう残された時間が少ないのでぜひ授賞して欲しかった。

 核兵器禁止条約に関しては前に書いた。日本は真剣に条約加盟を検討するべきだ。核禁条約は、核兵器保有国との安全保障条約を禁じているわけではない。原子力発電などの核兵器以外の原子力利用を禁じているわけでもない。日米安保破棄、原発廃絶が条約の条件なら、それは安倍内閣にできるわけがない。でも、実際の条約は、日本が掲げる「非核三原則」と同じようなものではないか。「北朝鮮の核開発」が進む今こそ、条約加盟が日本の安全を高めるのではないかと思う。

 それはともかく、日本では条約締結前の報道が少なく、僕は「ICAN」という名前を知らなかった。だが日本語で聞くだけで、この略称のもとになる英語の団体名が想像できた。(前置詞が何かは判らなかったけど。)「I can」とも掛けられた覚えやすくて訴える力のある名前である。そして、カナダで活動を続けて、国際的に知名度があり英語の演説になれたサーロー節子さんが、事務局長のベアトリス・フィンとともに授賞演説を行った。演説全文は新聞やインターネット上で簡単に読めるが、僕はテレビニュースでも流れた英語の演説原文をぜひ知りたいと思った。

 非常に印象深い被爆直後の記憶を語った部分。
 米国が最初の核兵器を私の暮らす広島の街に落としたとき、私は13歳でした。私はその朝のことを覚えています。8時15分、私は目をくらます青白い閃光(せんこう)を見ました。私は、宙に浮く感じがしたのを覚えています。静寂と暗闇の中で意識が戻ったとき、私は、自分が壊れた建物の下で身動きがとれなくなっていることに気がつきました。私は死に直面していることがわかりました。私の同級生たちが「お母さん、助けて。神様、助けてください」と、かすれる声で叫んでいるのが聞こえ始めました。

 そのとき突然、私の左肩を触る手があることに気がつきました。その人は「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 蹴り続けろ! あなたを助けてあげるから。あの隙間から光が入ってくるのが見えるだろう? そこに向かって、なるべく早く、はって行きなさい」と言うのです。私がそこからはい出てみると、崩壊した建物は燃えていました。その建物の中にいた私の同級生のほとんどは、生きたまま焼き殺されていきました。私の周囲全体にはひどい、想像を超えた廃虚がありました。

 英語では以下のようになる。
I was just 13 years old when the United States dropped the first atomic bomb, on my city Hiroshima. I still vividly remember that morning. At 8:15, I saw a blinding bluish-white flash from the window. I remember having the sensation of floating in the air.

As I regained consciousness in the silence and darkness, I found myself pinned by the collapsed building. I began to hear my classmates' faint cries: "Mother, help me. God, help me."

Then, suddenly, I felt hands touching my left shoulder, and heard a man saying: "Don't give up! Keep pushing! I am trying to free you. See the light coming through that opening? Crawl towards it as quickly as you can." As I crawled out, the ruins were on fire. Most of my classmates in that building were burned to death alive. I saw all around me utter, unimaginable devastation.

 長くなるので、全部は引用できない。最後のあたりを
 私は13歳の少女だったときに、くすぶるがれきの中に捕らえられながら、前に進み続け、光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です。この会場にいるすべての皆さんと、これを聞いている世界中のすべての皆さんに対して、広島の廃虚の中で私が聞いた言葉をくり返したいと思います。「あきらめるな! (がれきを)押し続けろ! 動き続けろ! 光が見えるだろう? そこに向かってはって行け」

When I was a 13-year-old girl, trapped in the smouldering rubble, I kept pushing. I kept moving toward the light. And I survived. Our light now is the ban treaty. To all in this hall and all listening around the world, I repeat those words that I heard called to me in the ruins of Hiroshima: "Don't give up! Keep pushing! See the light? Crawl towards it."  

 難しい英単語はあまり使われていないけれど、説得力が高い。こういうスピーチはぜひ教材として使って欲しいと思う。英語スピーチ原文は、新聞社のサイトなででは見つけられず、ノーベル賞の英語サイトを直接見てみた。いまサーロー節子さんの顔写真もトップに載っている。
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日中戦争の本質-「日中戦争全史」を読む②

2017年12月11日 23時13分17秒 |  〃 (歴史・地理)
 笠原十九司「日中戦争全史」を通して、日中戦争の本質について考えたい。この本には様々な出来事が書かれていて、いくつもの切り口がある。第二次世界大戦については膨大な本があるが、米英との戦争が始まった後の中国戦線に関しては記述が少ない。この本ではその頃のことも十分に書かれていて、日中戦争に関して全体的な把握ができるようになっている。

 あまり知られていないので、その問題を最初に。中国には大量の日本軍が動員されていたが、東南アジアへの侵攻が始まると多くの部隊が南方へ回された。そして、中国は兵站(へいたん)基地とみなされるようになった。戦争を支える資源、食糧などを日本軍に提供する場所である。1942年4月に日本に対する初の空襲、ドゥーリトル隊の攻撃が起きる。秘密裡に日本近海に近づいた空母から米軍機が飛び立ち、日本各地を空襲後に中国の飛行場に向けて飛び去った。

 「帝都」を空襲された日本軍は衝撃を受け、本土空襲を阻止するために未支配地区の飛行場をつぶす作戦が実施された。それが「浙贛(せっかん)作戦」で、浙江省から江西省へ至る作戦である。(「贛」は江西省の別名。)ここで日本軍は細菌戦を実施した。現地軍や支那派遣軍総司令部も反対したのだが、中央が押し切ったのである。いわゆる「731部隊」が研究・開発したコレラ菌を散布した。だが、この非人道兵器の使用を秘密にした日本軍では、中国軍が撤退した後に進軍した日本軍兵士がコレラに感染し1700人も死亡する惨事となった。

 非人道兵器としては毒ガスも以前から何度も使用していた。化学、生物兵器はジュネーヴ条約で禁止されていたが、日本は批准していなかった。それでもこれらが非難されるものだと知っていたはずだ。米英との戦闘では使用していないのだから。それを中国戦線では使用したのである。当時から秘密にされていたので、研究の進展を知らない人は、日本軍が毒ガスや細菌兵器を使用したことを知らない。現在は史料によって確認されている史実である。

 時間を前に戻すが、1940年1940年8月20日に「百団大戦」が開始された。中国共産党の「八路軍」による一斉攻撃作戦である。当時の日本軍は、重慶の国民政府しか眼中になく、共産党の勢力を侮っていた。この年はドイツが電撃戦を開始してフランスが降伏し、ドイツが全ヨーロッパを制覇する勢いだった。ドイツはイギリスにも毎日のように大空襲を続けていた。中国でも日本は重慶に大空襲を繰り返し、3月30日には国民政府を脱した汪精衛(汪兆銘)の政府が成立した。9月27日には日独伊三国軍事同盟が結ばれ、「ファシズム勢力」の最盛期だった。

 そこで八路軍による「百団大戦」が起こった。参加兵力は40万と言われ百を超える軍団が参加したから「百団大戦」と呼ばれた。日中戦争史、あるいは中国共産党史では前から知られているが、一般的はまだ知られていない言葉だろう。この作戦で日本軍は大きな損害を受けた。鉄道線路の破壊114か所、橋梁爆破73か所などで、死傷者数は日本側は明らかにしていないが、中国側は日本軍の死傷者2万645人としているという。しかし、そういった「戦果」以上に、困難な時期に総力を挙げて「抗日」を示した歴史的意味が大きい。イギリスの「バトル・オブ・ブリテン」やベトナム戦争の「テト攻勢」に並ぶものだ。

 共産党軍の力を認識した日本軍は、以後共産党の「抗日根拠地」をつぶすことに力を入れる。それが中国側が「三光」(焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす)と呼んだ作戦である。中国側のネーミングだけではなく、三光作戦は日本軍が「燼滅掃討作戦」(じんめつそうとう)と呼ぶ正式な作戦だったことを笠原氏が明らかにした。まとめて「治安戦」と言われた。それこそが虐殺や性犯罪が多発した作戦だった。治安戦によって、一時的に抗日根拠地が弱体化したのは事実である。

 だが、戦争末期になって、日本軍が本土防衛に力を入れざるを得なくなると、根拠地掃討もおろそかになる。東北(満州)や華北では日本軍が弱体化した後に、共産党勢力が進出して根拠地を広げた。ソ連の対日参戦以後は、「満州国」は事実上ソ連軍によって「解放」され、共産党の支配地区となった。それが戦後の国共内戦で、共産党が勝利する大きな要因となる。一方、華中、華南に勢力があった国民政府は、一番重要な地域を日本軍に奪われ破壊されたことで弱体化した。日中戦争の最大の歴史的意味は、共産党による中国革命に道を開いたことにある。

 この本を読んでいると、同じ名前に何度か出会う。日本現代史に有名な武藤章富永恭次服部卓四郎辻政信などである。日中戦争拡大派の武藤は、不拡大派だった石原莞爾(かつて謀略で柳条湖事件を起こした)に対し、あなたが満州でやったことを今やっているだけだと豪語した。服部、辻は一貫して作戦畑を歩き、ノモンハン事件でソ連に大敗しても責任を問われず、その後も現場無視の強硬作戦を続けた。細菌戦を強行したのも辻だった。富永は東条英機の子分として有名で一時は東条陸相のもとで陸軍次官を務めた。交渉でまとまるはずの北部仏印進駐に際して武力進駐を強行した。東条内閣崩壊後フィリピンの司令官に左遷されるが、特攻隊に対し自分も後から行くと言いながら、米軍が迫ると視察と称して台湾に「敵前逃亡」した。

 およそ日本軍が組織として機能していなかったことがよく判る。内外の国民・兵士の生命に大きな影響を及ぼす組織が、きちんと責任を取る組織じゃなかった。無能どころか、現場を知ろうともしないで大言壮語し空疎な精神論を繰り返す。そんな人物が出世するのが日本軍だった。だけど今の日本の政界、産業界、教育界などを見ると、今もなお日本社会に残り続ける問題である。細部の問題では他にもっと詳しい本がいくらもあるけど、全体像をきちんとつかむという意味ではこの本しかない。ぜひ多くの人が読んでみて欲しい本。
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日中戦争と海軍の責任-「日中戦争全史」を読む①

2017年12月09日 23時14分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 笠原十九司「日中戦争全史」(上下、2017、高文研)を読んだ。今年出たもっとも重要な本(の一つ)じゃないかと思う。上下2巻それぞれ2300円もするけど、日中戦争に関して長く研究を続けてきた笠原十九司氏(1944~、都留文科大名誉教授)の集大成的な一般書である。日中戦争が本格化して80年である2017年に読んでおきたかった。新知見がずいぶんあった。

 本の帯に「戦争には『前史』と『前夜』がある」と書いてある。戦争は突然起きるのではなく「前史」がある。それがいよいよ開戦「前夜」になったら、謀略でも偶発事件でも簡単に戦争になってしまう。日本国民が日中戦争の歴史から学ぶべきことは、いつから「前史」が始まり、いつ「前夜」に転換したかを知ることだという。こんなに判りやすく歴史を学ぶ意味を教えてくれる言葉はない。一般書と専門書の中間のような本だけど、ぜひ多くの人が読んで欲しい。

 まず「前史」だが、1915年の「21か条要求」から書かれている。ずいぶん早いと思うと、その時に認められなかった条項が日中戦争で「実現」したことが多い。そして、1928年が「前史の転換点」となった。蒋介石の国民革命軍の「北伐」に干渉した「山東出兵」、そして「張作霖爆殺事件」である。この認識は誰も異論がないだろう。そして、1931年、「満州事変」が起きた。

 「満州事変」の発端となった柳条湖事件は、よく知られているように関東軍の謀略だった。その後「満州国」建国に至る過程も国内外で謀略的に進められた。関東軍とは関東州=中国から租借した遼東半島や満鉄を守備する陸軍部隊である。一方、「満州事変」から日中戦争への過程は案外知られていない。その後、「アジア太平洋戦争」になると、日中戦争もその一環とされ戦争の意味も大きく変わった。その期間も含めて日中戦争だけをまとめた研究はほとんどない。

 今回ビックリしたのは、日中戦争を本格化させた責任は海軍が大きいということだ。すでに1936年段階で「帝国国防方針」を改定して、盧溝橋事件の前に日中戦争を準備していた。史料を虚心に読めば、なるほどその通りである。満州事変を起こして、陸軍は国防予算の大増額を勝ち取っていた。陸軍は満州国をベースに「北進」、つまり対ソ連戦を想定していた。それでは海軍の存在価値がなくなってしまう。日中戦争から対米英開戦に至る海軍の事情はぜひ本書を直接読んで欲しい。

 1937年7月7日に起こった盧溝橋事件は、確かに偶発事件だった。しかし、本書を読めば現地は「マッチを擦れば火事になる」状況だったことが判る。それでも「北支事変」、つまり中華民国の首都だった南京や国際都市上海には飛び火させず、「華北」で戦闘を止める可能性は十分にあった。それを本格的に大戦争にしたのは、海軍の謀略だった。衝突を上海に飛び火させた「大山事件」は海軍が起こしたのである。これは笠原氏が2015年に刊行した「海軍の日中戦争」で初めて論証した。

 海軍にも「陸戦隊」という組織がある。僕は1937年に作られた「上海陸戦隊」という熊谷久虎監督(原節子の義兄)の映画を見て知った。その上海陸戦隊で派遣隊長をしていた大山勇夫中尉が中国軍に狙撃されて死亡したのが「大山事件」である。中国側の不法な発砲なら、「予想しない死」である。しかし大山中尉は遺書のようなものを残し、身辺整理をして部下にも講話した後に、運転手に命じて中国側が支配していた飛行場に突入した。「自爆テロ」である。

 大山は26歳で妻子もない三男で、父もすでに亡く長兄が家を継いでいた。国家主義者の頭山満に心酔するマジメ一途の皇国青年だったらしい。(「童貞中尉」と呼ばれていた。)「後顧の憂い」がない点に上司が目を付けて、彼にお国のために命を捧げることを求めたのである。そして、その事件をきっかけに戦争は上海に飛び火し(第二次上海事変)、それが南京攻略戦につながっていく。恐ろしいことだが、このように謀略で戦争が拡大したのである。そんなことを海軍が命じるのかと思うかもしれないが、それが軍隊なのである。大山中尉の家族が異例の厚遇を受けたことも証拠になる。

 海軍と言えば、何となく陸軍より平和的だったイメージがある。満州事変を起こしたのは陸軍の関東軍。二・二六事件では海軍出身の岡田啓介首相や斎藤実内大臣が襲撃され、以後陸軍が主導権を握った。陸軍出身の東条英機内閣で米英との戦争が始まり、敗戦時の御前会議でも、陸軍はポツダム受諾反対を主張した。それらを見ると、確かに戦争は陸軍が勝手に始めたような感じで、比べれば海軍の方が平和的だったイメージになる。しかし、それも再検討が必要だろう。天皇の戦争責任を免責するため、「すべては陸軍の軍閥が悪かった」と陸軍にすべてを負わせる方針が作られた。そこで天皇とともに、海軍は免責される側に回れたんじゃないか。

 当時の海軍は伏見宮軍令部総長を務めていた。(旧憲法では「軍政」は軍部大臣だが、「軍令」(作戦や用兵)は天皇直属で、陸軍は参謀本部、海軍は軍令部で行っていた。)皇族という権威には誰も逆らえず、海軍では伏見宮の寵臣のみが出世できたのである。山本五十六井上成美らが、「内心では日米戦争に反対だった平和主義者」とされることがある。だが彼らこそ、中国各地の都市、特に南京や重慶に対する不法な大空襲の責任者だった。真珠湾攻撃の準備は、すべて中国空襲で行われていたのである。他にも論点は多いが、とりあえず2回に分けたい。
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清水潔『「南京事件」を調査せよ』を読む

2017年12月08日 23時18分01秒 |  〃 (歴史・地理)
 清水潔氏の『「南京事件」を調査せよ』(2016、文藝春秋)を読んだ。ホントはもう単行本はあまり買いたくないけれど、テレビで南京事件のドキュメントが評判になったし、清水潔氏の本だから買ったのである。清水さんは「殺人犯はそこにいる」という本を書いた。その本は去年になって「文庫X」として突然大評判になった。僕は本が出た少し後で読んで、『「殺人犯はそこにいる」という本』をブログに書いた。

 いま読んだのは、南京攻略戦と大虐殺事件から80年だからである。だからだろう、今月の文春文庫新刊を見ると、早くもこの本が文庫化されている。池上彰氏の解説も付いてるし、一年ちょっとで文庫になるんなら待ってれば良かった。まあ、多くの人が手に取りやすくなったわけだから、僕が読んで紹介しようかと思った。

 目次をパラパラと読んでみたところ、おおよそ知っていることばかりなんじゃないかと思った。読んでみて(後述するように)、実際知っていることが多かった。だけど、僕はちょっと間違っていた。清水氏は1958年生まれで、桶川ストーカー事件や足利事件などで活躍したジャーナリストである。現代史に関しておおよそのことは知ってるだろうと思ったけど、案外知らなったことが多いらしい。それなら世の中で知らない人がいるのも当然だ。

 清水氏が南京事件を調査していたのは、2015年の頃だった。戦後70年のその年、朝日新聞に対するバッシングが起こっていた。清水氏も「右派」からの論難に足をすくわれないよう、細心の注意を払って調査を続ける。読んでいて、そこまでするのかとちょっと驚いた。世の中には、日本政府が一度も否定できない南京事件を全否定してしまう人もいる。しかし、清水氏も書く通り、否定論には一次史料に基づく根拠がない。清水氏が求め続けるのは、一次史料による証明力と言っていいだろう。

 そうなると、兵士の残した日記などの一次史料が重要になる。もう当時従軍していた兵のほとんどは世を去っている。そこで1996年に出された「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」に注目する。この本をまとめた小野賢二氏は、福島県に住む「化学労働者」で勤務の合間を縫って郷土の兵士を訪ね歩き多くの史料を発掘した。現代史に関心がある人には知られているけど、まだ知らない人も多いんだろう。小野氏はもう退職していたとこの本で知った。

 小野氏が発掘した多くの日記は、大体は元の持ち主に返されているが、いくつかは小野氏に寄託された。そこで清水氏も現物を見ることになるが、いかにホンモノらしく見えても、さらなる証明力を求める。例えば、紙やインクは当時のものなのか。確かに僕もそう言われてみると、筆記具やインクの歴史に詳しいわけじゃない。でも、墨と筆があれば書けるわけだし、日露戦争の兵士の手紙もずいぶん見つかっている。部隊は詳細な記録を残さないといけなんだから、筆記具は行き渡っていたに違いない。万年筆は第一次大戦後に盛んになり、日中戦争ころに一番作られていたようだ。

 そのような手順を踏んでいき、日記に出てくる地名や船の名前などを確認していく。確かに朝日が「吉田証言」であれだけたたかれたから、細かな確認をクリアーしていかないと、日本テレビでドキュメント番組を作ることはできない。そうやって、日記に記されていた出来事、「揚子江の惨劇」を立証していく。これは南京占領後、入城式(12月17日)を前にぼう大な捕虜を大量に虐殺した出来事である。日本の上海派遣軍の司令官は皇族の朝香宮だったから、入城式当日に不祥事が起こらないように徹底した掃討を行ったのである。

 なお、それらの事件には「自衛発砲説」や「暴動鎮圧説」を主張する人もいることはいる。それらには著者が反論しているのでここでは触れない。その後、著者は現地を訪れたり、さらにさかのぼって日清戦争時の旅順虐殺を調査したりする。その結果、自分の祖父も日清、日露戦争に従軍していた歴史を知る。そういう自分につながる近代史を調査する時間の旅になっていく。

 そこも面白いんだけど、ここでは触れられていないことを書いておきたい。兵士の記録を中心に調査しているが、ことは上司の命令によるものだから、上官の記録にも触れて欲しいところ。また当時の各国外交官、あるいは国際難民区の状況なども重要だろう。この本では「捕虜」の虐殺が中心になってるが、略奪、強姦、放火も非常に多かった。「船で逃げる捕虜」を攻撃するとして、アメリカのパネー号を海軍機が爆撃した事件なども起きていた。

 南京戦に関しては、犠牲者数がどのくらいだったかは、今では二義的な問題だ。国際法上明らかに不法な南京攻略戦がどのように起こされたかが本質的な問題である。準備もなく、軍中央の命令もないまま突撃していった「作戦」とも言えない「作戦」。当然食料の補給などはなく、現地での略奪に頼ることを前提にしていた。そんな作戦が多くの軍紀違反を生むのは当然だった。(なお、「揚子江」は「長江」で統一すべきだ。何十年も前から、教科書は長江である。)
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劇団民藝『「仕事クラブ」の女優」たち』を見る

2017年12月07日 23時10分35秒 | 演劇
 劇団民藝による『「仕事クラブ」の女優たち』を見た。長田育恵作、丹野郁弓演出。三越劇場。ちょうど一年ほど前に、同じ作、演出で柳宗悦を描いた「SOETSU」を見たのもそこ。デパートの中にある古い劇場で、このような戦前のプロレタリア演劇を扱った芝居を見るというのも不思議。17日まで。

 僕は近年、作者の長田育恵さんのお芝居をよく見ている。日本近代史、中でも文化史、思想史に材を取った作品に共感することが多い。それでも最近は書き過ぎではないか。この作品は戦前の「新劇」の初期を扱っている。「新劇」といっても、何が「新」なのか半世紀も前から判らなくなっている。今じゃ普通のリアリズム演劇を見ると、「旧劇」の感じもしてしまう。だけど、日本では歌舞伎など「女形」を使う演劇が伝統芸能だった。「女優」がいるだけでも「革新」だったわけである。

 劇団民藝は、そういう「新劇」の流れを受け継ぐ劇団の一つである。この作品を上演するにはふさわしい。この劇は、昭和初期のプロレタリア演劇が弾圧に次ぐ弾圧を受けた時代を描いている。その時代を扱った演劇はいくつかあるが、この作品はとてもストレートに弾圧を生き抜く人々を描いている。演劇には様々な人々が関わっているが、ここでは題名通り「女優たち」の苦悩が描かれる。今も昔も演劇だけで生きていける人は少ないが、この時代にはまだまだ女優への偏見も強いし、逮捕された夫を支えたりするケースもあった。だから自分たちでアルバイトあっせん組織を作っちゃおう。

 それが「仕事クラブ」で、実話をもとにしている。当時は大きく報道もされたらしい。実際に仕事の依頼もそれなりにあった。プログラムに写真が載っているが、山本安英細川ちか子原泉子高橋豊子などの姿がある。山本安英は「夕鶴」のつうで有名。細川ちか子は戦前戦後に長く活躍した大スターで、美人女優として人気があった。戦後は民藝に所属した。原泉子は名脇役で知られ、中野重治夫人。高橋豊子は小津の晩年の映画で女将役をやってた人。

 そのような実際の写真を見ると、なんか現実感が湧いてくる。プログラムを買うのも意味がある。劇の中には、美人ともてはやされたり、夫が捕らわれた作家だったり、映画に活躍の場を移したりする女優たちが出てくる。劇の中には実名で出てくる人はいないのだが(亡くなっている小山内薫などは別として)、現実の人々をモデルとして書かれていることが判る。長田育恵さんは早稲田大学の演劇博物館に勤めていたことがあり、在任中に築地小劇場展などもあったという。

 ところで、この劇には奈良岡朋子が出ている。もう奈良岡さんの新作舞台をいくつ見られるだろうかというのも、この芝居を見たかった理由。奈良岡朋子演じる秋吉延という人物は多分創作だろう。築地生まれらしいが、広島の人。東京に来ていて、ビラを銀座でもらい劇を見に来た。だけど、左翼のプロパガンダのような芝居には批判的。近くで倒れていて劇団に連れられてきて、静かな言葉でいろいろと批判を繰り広げる。その中から、女優たちは自分たちで仕事探しをしようというアイディアを得る。そして、劇団に居ついて料理などを担当するようになる…という設定である。

 観念的に思想や芸術を広言する若き女優たちを異化するとともに、高齢の人生経験を生かして皆の心をまとめる。なかなか面白い役で、劇場の片隅で拾った本ということで、井伏鱒二「山椒魚」を朗読する場面がある。頭が大きくなりすぎて穴蔵から出られないという山椒魚に、当時の演劇運動の象徴のような意味を込めているんだと思う。劇の流れを止めて、ただ朗読の場面を入れるというのも面白い試みだった。奈良岡朋子への「充て書き」なんだろうが。

 今じゃ「新劇」を見に来る人も高齢化しているから、言わなくても通じるのかもしれないけど、ここには「伯爵夫人」が重要な役で登場する。伯爵というのは、日本の新劇運動の中心人物の一人、土方与志(ひじかた・よし)のことである。土佐出身の元宮内大臣、土方久元の孫として伯爵を継いだ。築地小劇場そのものを土方が資金を出していた。夫人は土方梅子。土方はチェーホフやゴーリキーなどを演出して翻訳劇を身近にした。劇中でも「夜の宿」を見たときの感激を皆が語っている。「どん底」はそのころ「夜の宿」と呼ばれていた。そんなことを知らなくても通じると言えば、多分そうだろう。でも芝居のもとにある細かな知識がある方がより面白い。

 彼女たちには、女優として、女として、左翼劇団として、さまざまな悩み、苦悩が押し寄せる。しかし、最後には彼女たちは良き日を目指して生きていく。革命的オプティミズムのようなものを感じる。それはそれでいいんだけど、現実には自由な演劇活動、表現活動をできるようになるまで、日本と世界には10年以上もの恐るべき苦難が訪れた。築地小劇場の建物そのものも、東京大空襲で灰塵に帰した。そういうことを考えると、今を生きる我々にももっと苦難が続くんじゃないかと僕なんか最近はペシミズムに襲われてしまう。そんなことも感じてしまったお芝居である。
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「シベリア出兵」とは何だったか-中公新書「シベリア出兵」を読む

2017年12月05日 23時04分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書の麻田雅文「シベリア出兵」を読んだ。2016年9月に出た本で、1年間買ったままだったが、ロシア革命100年に続く問題意識で読んだわけである。2017年のロシア革命100年に続き、次の2018年は米騒動と原敬内閣、「シベリア出兵」から100年だ。僕も詳しく知ってるとは言えない。多くの歴史教員も同じだと思う。生徒だって「そんなのあった?」というところだろう。

 この本には「近代日本の忘れられた七年戦争」という副題が付いている。読んだら現代にもつながる問題で、もっと知っておくべき出来事だと強く思った。当時は第一次世界大戦中で、連合国の共同出兵による「ロシア革命干渉戦争」だった。しかし、他国が撤退したあとも日本だけが残り続け、撤退の機を逸し続けた。出兵を開始した寺内正毅内閣に始まり、原敬、高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦圭吾、加藤高明と内閣が変わり、7年間も続いてしまった。

 一度戦争を始めてしまうと、なかなか撤退できない。それは同時多発テロ事件後にアフガニスタン攻撃を始めたアメリカが、いつまでも戦い続けていることでも判る。どっちも正規の政府に宣戦布告した「正式の戦争」じゃなかった。「過激派勢力」を排除すると称して出兵したものの、相手政府がうまく機能しないからズルズルと残留しないといけない。日本がその後に経験した日中戦争にも似ている。現地の状況を無視して始め、成果無しでは撤兵できないという感情論で引くに引けなくなる。戦争は始まる前に止めないといけないのだ。

 「シベリア出兵」という言葉はあまり適切じゃない。本書でも一般的用語だから使うと述べているが、本質は「シベリア戦争」だった。日本軍はウラジオストクを長期占領し、ハバロフスクからチタ、イルクーツクまで侵攻した。またニコラエフスクで起きた日本軍民の虐殺事件(尼港事件)をきっかけに、北樺太を5年近く占領した。当時は南樺太を日本が領有していたから、一時は樺太(からふと=サハリン島)全島を支配した。北樺太には石油が出て、資源をねらった面もある。

 「シベリア出兵」に関しては、いくつかの専門書がある。原喗之「シベリア出兵」(1989)という大著の研究書を持ってるが、ものすごく分厚いので結局まだ読んでない。歴史の教員だって、専門分野以外の研究書はなかなか読めない。シベリア出兵については一般向け新書が今までなかった。今回の著者、麻田雅文氏は、1980年生まれの若手研究者で岩手大准教授。この本にも何度か出てくる原敬の出身地盛岡で書かれたことは「何かの縁であろう」と書かれている。

 当初は国際的な駆け引きが激しかった。ロシアのボリシェヴィキ政府がドイツと単独和平したから、英仏等は日米にシベリアからロシアとドイツをけん制して欲しかった。原敬は当初は野党党首として出兵には反対し、その後も極力撤退しようとするがなかなかできない。「統帥権の独立」で、総理大臣の権限は軍の命令指揮権には及ばなかった。陸軍では明治から続く長州の山縣有朋が元老として権力を持っていて、陸相の田中義一もなかなか力及ばない。この山縣と原の駆け引きは近代史上に有名で、実に興味深い。

 結局、ロシア領内に取り残された「チェコスロヴァキア軍」の救出を目的にして、米英中伊仏カナダとともに出兵することになった。チェコスロヴァキアは大戦時はオーストリア帝国の一部で、ロシア国内にいたチェコ人や捕虜で軍隊を作って独立を目指していた。ロシア国内には様々な反革命勢力があり、日本は謀略的に多くの人々と接触しコルチャーク政権を樹立した。現地に傀儡政権を作って裏から操ろうという発想は、後の満州事変、日中戦争でも繰りかえされる。

 日本軍がなかなか撤退しなかったのは(諸外国からは大きく批判された)、シベリアの隣の「北満州」「モンゴル」への勢力増大を狙っていたからだ。日露戦争で朝鮮と南満州は勢力圏にしていたから、その隣に社会主義政権ができることは認められない。日本の一部はシベリア領有まで主張したが、さすがにそれはできない。陸軍は歴史的に「北進」(ロシア、ソ連を仮想敵国とする)を求めることが多い。「満蒙は日本の生命線」と後に主張するが、シベリア出兵こそ原点だった。

 尼港(にこう)事件のくわしい事情もあまり知られていない。僕もパルチザンによる虐殺事件という程度しか知らなかった。でも、日本軍は単に駐留していたのではなく、事実上反革命勢力そのものとしてボリシェヴィキのパルチザンと戦っていた。民間人捕虜もこの時に虐殺されたので、ボリシェヴィキ側の残虐性は否定できない。それでも革命進行時に外国勢力に干渉された「恨み」が残り続けたことも理解するべきだろう。やはり外国軍による干渉はよくない。結局、1925年になって、やっと日本は北樺太から撤退した。原敬は1921年に暗殺され、レーニンも1924年に死去していた。「死者への債務」という意識が政治家・軍人が撤退を決断できない理由だった。犠牲者を出したあとでは、「お土産」(利権)がないと国民の反発を恐れてしまう。

 そんな中でも少数の批判者はいた。石橋湛山などの他、与謝野晶子も批判していた。
 「無意義な出兵のために、露人を初め米国から(後には英仏からも)日本の領土的野心を猜疑され、嫉視され、その上数年にわたって撤兵することが出来ずに、戦費のために今に幾倍する国内の生活難を激成するならば、積極的自衛策どころか、かえって国民を自滅の危殆に陥らしめる結果になるでしょう。」これは1918年3月17日付で横浜貿易新報に発表されたものだという。実際の出兵は1918年8月だから、5カ月も前にその後の推移を完全に「予言」していた。

 見える人には見えていたのである。そのことも今に残された重い教訓だと思う。なお、兵士の苦闘などには触れられていない。軍事、政治、外交史が中心になっているけど、「渦巻ける烏の群」などを書いたプロレタリア作家の黒島伝治などは紹介して欲しかった気がする。壷井栄を生んだ小豆島出身の作家である。極寒の地に贈られた兵の苦労は並大抵のものではなかった。
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姜在彦、荒井信一、岩田正等ー2017年11月の訃報

2017年12月04日 21時28分09秒 | 追悼
 2017年11月は大きな訃報は少なかったけれど、やはりまとめて書いておきたい。まず僕にとってということでは、歴史学者の姜在彦氏や荒井信一氏から書きたい。
  (前=姜在彦、後=荒井信一)
 姜在彦(カン・ジェオン、11.19没、91歳)氏は僕にとって一番信頼できる朝鮮近代史の研究者だった。60年代までは民族運動に関わっていたが、70年代以後に組織を離れ歴史研究に入り、『朝鮮の攘夷と開化 近代朝鮮にとっての日本』『朝鮮の開化思想』などのすぐれた著作を書いた。これは要するに、朝鮮には自発的な近代化の可能性はあったのかどうかという切実な問いを研究したものだ。その後にまとめた一般向けの『日本による朝鮮支配の40年』『玄界灘に架けた歴史 日朝関係の光と影』などは実に使い甲斐のある本で、歴史教師必携だと思う。今もそれらの本の多くは文庫や選書などで手に入る。日本人にとっても知っておくべき朝鮮史の第一人者だった。

 荒井信一氏(2017.10.11没、91歳)は10月に亡くなったが、公表されたのは11月になってからだった。現代の様々なテーマ(第二次世界大戦、原爆、戦争責任等)についての著作があるが、むしろ編著者としての仕事で知っていたような気がする。それにやっぱり「日本の戦争責任資料センター」の共同代表ということで僕も一番知っていたかなあと思う。茨城大、駿河台大名誉教授。
 (岩田正)
 歌人の岩田正氏が11月3日に死去、93歳。僕は短歌のことはよく知らないんだけど、馬場あき子さんの夫だった人で、独特のユーモアと平和への思いを歌った。「現代秀歌」には、
 ときにわれら声をかけあふどちらかがどちらかを思ひい出だしたるとき
 が取られている。他にも紹介されている短歌は、
 イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年
 オルゴール部屋に響けり馬場さんよ休め岩田よもすこし励め  は思わず笑える
 東京新聞の追悼文には
 九条の改正笑ひ言ふ議員このちんぴらに負けてたまるか というのがある。歌を詠むだけではなく、「万葉九条の会」というのを立ち上げたそうである。

 元赤軍派議長の塩見孝也氏が11月14日死去、76歳。1970年に赤軍派は日航機よど号ハイジャック事件などを起こすが、塩見氏はその直前に別の事件で逮捕された。よど号事件の共同共謀正犯として起訴され、本人は無罪を主張するも他の事件と合わせて懲役18年が確定した。1989年12月に出所したのちは独自の立場で思想的、政治的活動を続けていた。晩年になって地元の東京清瀬市で駐車場の管理人の仕事について、65歳になって初めて「労働者」になったと話題を呼んだ。著作もいくつかあるが読んでない。でも、結構面白いタイプの人だったんだろうなと思う。
 (塩見孝也)
 元朝日放送アナウンサーで、参議院議員となった中村鋭一氏が11月6日に死去、87歳。活動のベースが関西だったから、全然知らない。大の阪神ファンで有名だったというが、1980年の大阪選挙区に民社党推薦で出て当選したということで名前を知った。86年は西川きよしが出たから落選。89年に出身の滋賀県から連合の統一候補として当選。96年には大阪から衆議院議員に当選した。

 史上最高齢の囲碁棋士、杉内雅男九段(11.28没、97歳)、声優の鶴ひろみ(11.16没、57歳)、などが亡くなった。経済学者の西山千明(11.20没、93歳)は大学で講義を聞いた記憶がある。

 外国では、マルコム・ヤング(AC/DCのリーダー、11.18没、64歳)やデビッド・キャシディ(歌手、俳優、11.21没、67歳)、ファッションデザイナーでボディコンの創始者、アスディン・アライア(11.18没、77歳)などの訃報があった。しかし、やっぱり一番の「大物」と言えば、チャールズ・マンソンだろう。1969年に映画監督ロマン・ポランスキーの妻だった女優シャロン・テート等を殺害したカルト集団のリーダーである。この事件こそ、多くの恐るべき事件の元祖とでも言えるおぞましい惨劇だった。終身刑でカリフォルニアで拘禁されていた。83歳。
 マンソンの今昔)
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水村美苗「続明暗」を読む

2017年12月03日 21時21分01秒 | 本 (日本文学)
 漱石の「明暗」に続いて、水村美苗が書いた「続明暗」を読んだ。けっこう夢中で読んでしまったので、早く書かないと忘れてしまう。書いても「明暗」を読んでない人にはあまり意味がない。1990年に出たこの本が文庫化された時に買ったまま、僕もずっと読んでなかった。はっきり書いてしまえば、これは「明暗」よりずっと面白い。漱石がもう少し元気で、「明暗」を完成させていたとしても、多分これほど面白くはないだろう。そのことには著者も自覚的で、筋の展開を劇的にして心理描写を少なくするなど現代の読者に受け入れられるように書いたと言っている。

 「続明暗」が出た時点で、水村美苗(1951~)という作家はまったく無名と言える存在だった。親の仕事の都合でアメリカで育ち、エール大学で学んでいる。その後もアメリカで日本文学を教えていて、日本の文壇とは無縁だった。夫は経済学者の岩井克人で、1885年に「ヴェニスの商人の資本論」で一般にも知られるようになった。僕も岩井の名は知っていたが、「続明暗」が出た時点まで水村の名は知らなかった。(二人が夫婦だということも今回調べて初めて知った。)
 (水村美苗)
 「続明暗」はまるで漱石が描いたような文体で書かれている。現在の日本語に接しない環境だからこそ、何十年前の文章の世界に入っていけたのかもしれない。漱石がよく使う当て字も、ところどころで使っているが、さすがに漱石ほど目立たないように書いている。今じゃ校正でチェックされるはずだから、あまり目立ってもおかしいということかもしれない。

 しかし、一番ビックリしたのは文体模写ではない。漱石が「明暗」の中に書き散らした伏線を限りなく回収する手際の良さである。ほとんど完璧に近いと思う。「明暗」の最後で、主人公の津田が病後の転地療養を理由に温泉に行く。そこには結婚前に親しかった清子も療養に来ていた。そのことを津田に知らせ、旅行のお金も出してくれたのは、会社の上司の夫人である「吉川夫人」である。湯河原と思われる温泉宿で、いよいよ津田は清子に再会した。

 という、オイオイ、一体どうなるんじゃというところで作者病没のため未完になったわけである。で、いろいろあるんだけど、温泉宿へ津田の妹秀子と津田の友人小林が連れ立って乗り込んでくる。もうこの二人に出番はないのかと思っていたら、水村美苗はこんなところで使っている。じゃあ、どうしてこの二人が来るのかと言えば、その論理構成には寸分の隙もない

 一応書いてみると、津田の妻、お延が吉川夫人から事の真相を告げられる。夫人の構想では、それをもって「良き妻の教育」につなげるつもりが、お延はショックを受けて放心してしまい、いろいろあるが結局自分で湯河原に乗り込むことにする。そうなると、翌々日にいとこの岡本嗣子の見合いに出かける用事が果たせないので、下女のお時に命じて翌日になったら電話で延子が風邪をひいてしまって行けないと連絡させる。延子を信頼している嗣子は、延子の見舞いに訪れ、お時から真相を聞き出す。岡本は驚き、津田が育った叔父の藤井家に行くと、そこに小林もいる。岡本が見合いのため湯河原に行けないので、津田の妹秀子と事情を知る小林が湯河原行きを引き受けざるを得なくなる。

 「明暗」を読んでない人には全然判らないと思うけど、これは実にすぐれた「明暗」理解だろう。それぞれの登場人物の立場と人柄を合わせ考えると、漱石がどう書いたかは判らないけど、おそらくこのような展開になるべき必然性がある。そういう凄みをこの展開に感じた。また、「明暗」の冒頭の方に出てきてそのまま忘れていた、病院で清子の夫関に偶然会う場面。それを清子との会話に生かす。実際にこのようなことを言えるかどうかは判らないし、当時の新聞小説では不可能ではないかとも思うが、実に慧眼だと思った。(書いてしまうことにするが、関は性病治療に行ったのではないか、その病気が清子の流産の原因ではないかと津田は想像するのだ。)

 まあ、そう言った筋書きの作りはともかくとして、この「続明暗」によってこそ、漱石晩年の試み、「エゴイズム」追及という小説が誕生した気がする。それも湯河原の自然描写を背景に、人間ドラマも絡んで実に読みごたえがある。そして最後に延子を通して「則天去私」を語らせる。これが漱石のねらいだったか。最後まで強い緊張を持って、作中の人々は物語世界を疾走し、ラストで一応の決着を見る。それが「続明暗」で、漱石ファンに限らず多くの人がセットで一度は読んでみる価値がある。

 あえて言えば、当時有夫の女性と親しくするのは刑法上の疑いを招くことをもっと強調するべきではないか。「姦通罪」があり、夫が訴えれば刑務所行きである。そこまでのシーンはないけれど、津田には揺れる心もある。だが津田を思いとどまらせるのは、社会的制裁への恐れだったかもしれない。周りの人々もそのことをもっと心配したのではないかと思う。なお、最後に津田がどうなるかは書かれていない。津田を死なせる決着もあったと思うけど、作者はあえて延子に試練をくぐらせる。男性作家の漱石は違ったラストを用意したかもしれない。

 水村美苗はその後、「私小説」「本格小説」「新聞小説」という題名の長編を書いて、押しも押されもせぬ大作家になっている。「日本語が亡びるとき」という評論も大きな評判を呼んだ。どれもこれも読んでないけど、今度ぜひ続けて読んでみたいと思った。非常に読みごたえがあったので、その後の本も読みたくなる。
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感涙映画「八重子のハミング」

2017年12月02日 23時23分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 もう終わってしまったんだけど、東京に残された数少ない名画座ギンレイホールで、「人生フルーツ」と「八重子のハミング」を見た。飯田橋にあるギンレイホールと高田馬場にある早稲田松竹が、建物もそのままで新作・旧作映画を邦洋問わず上映してくれる「名画座」である。ギンレイは2週間続きの番組だから、来週でもいいやと思ううちに終わってしまう。何とか最終日に見に行ったわけ。

 ドキュメンタリー映画ながらヒットしている「人生フルーツ」を見に来た観客が多いようだった。それも悪くはないけど、僕はもう一本の劇映画「八重子のハミング」について書いておきたい。映画っていうのはいろんなジャンルがある。話題の原作の映画化もあれば、アイドルがはじける青春恋愛映画もある。監督が自己の美学を追求した芸術映画もあれば、社会派のドキュメントもある。そんな中に「良心的映画」とでもいうべきジャンルがあって、僕はあまり見ることはないなと思う。

 子どもが難病になる、老人に介護が必要になる。まあ、そういうことが人生にある。病気や福祉の知識はあった方がいいし、家族や友だちが一生懸命に面倒を見ている姿を見て、考えさせられることが多い。でも、大体は実話をもとにしているそういう映画って、展開が似ている。芸術的にはそんなに新味があるわけじゃないから、ベストテンなんかには入って来ない。でも、とにかく泣ける。皆で安心して見に行ける。劇場公開が終わっても、映画館のない町で公民館などで上映されていくような映画。

八重子のハミング」は山口県萩市で教育長を務めた陽信孝(みなみ・のぶたか)という人が若年性アルツハイマー病の妻を12年間介護した原作をもとにしている。映画では石崎誠吾と名を変えているが、中学校長だった石崎がガンになるところから始まる。最初は夫の方だったのである。随所に短歌がはさまるので、国語の先生だったのだろうか。妻の八重子も音楽の教員で、一緒に山の小さな学校に勤務したこともある。その時は「男先生」「女先生」と呼ばれて、子どもたちに親しまれた。  

 そんな八重子が、夫の看病をする中でおかしなそぶりを見せ始める。外部の見舞客には普通の対応をするけれど、ずっと見ている夫の目からは違和感が募るようになってくる。友人の医者、榎木に見てもらうと、どうも若年性アルツハイマー病ではないかという。そんな中、自分がまたガンになる。仕事もあるし非常に大変になるが、妻は夫の病気を治すために自分が病気になったと周囲に言われて、自分が頑張らないといけないと心を強く持って復帰する。

 そういう日々が多くのエピソードでつづられていく。冒頭から、実は講演会の場面で、その講演の合間に、回想的に昔の話が描かれている。彼は妻の生前から、病気や介護に関する講演活動を行っていた。時には妻を連れて行く。だんだん病は重くなるけど、映画で映像を見ることで病気の様子がよく判る、また家族はどのように接するべきかなど、なるほどと思うことが多い。それらのエピソードが巧みに描かれていくから、かなり涙腺刺激映画になっている。周りでもハンカチを手放せない女性観客が多いようだった。泣けるように作っているんだから、泣くのも当然だが。

 エピソードのいちいちは書かないけど、主人公が言うのは「怒りには限界があるが、やさしさには限界がない」ということだ。そうなんだ、なるほどと思う。また教師として二人で勤務した学校では、誠吾が「元気でいいけど、これでもう少し学力があれば」というと、八重子の方は「元気が一番」といって「教育はすぐに結果が出ない。10年後、20年後のこの子たちが楽しみ」という。

 いつも二人の子供たちと遊んでくれた早紀という少女は、ある日椿の公園にいた二人に会う。今は小さな会社の社長夫人だという彼女は、その後も顔を見せてくれ、いつかは女先生の介護をしたいと介護資格の講座に通っているという。これが「教育はすぐに結果が出ない」という長い目で見た信頼の教育の「成果」なのである。これはとっても感動的なエピソードで、今の学校で一番大切なことじゃないだろうか。学校が目先の成績を競うことになってはいけないのである。

 「ハミング」というのは、もともと音楽教師だった八重子は病が重くなっても音楽に反応するのである。「ふるさと」を一緒に体を動かしたり。谷村新司が好きで、「」や「いい日旅立ち」が特に好きだった。(ラストに「いい日旅立ち」が流れる。)トイレでもなかなか脱げないのに、なぜか「長州なのに会津磐梯山」と主人公がいぶかるけど、会津磐梯山は宝の山よと歌うとおとなしくなる。

 家族がみな協力的だし、主人公は神社の神官であるらしく、家もしっかりしている。早期退職しているとはいえ、当然退職金はかなりあっただろうし、共働きだったんだから年金も相当になるだろう。家族が難病になると、金の問題も出てくるし、誰が介護するかで家族もバラバラになりやすい。そういう負の問題がここには全然出てこない。八重子の病気が最大の葛藤で、ドラマに他の問題が出てこない。出来過ぎな感じなんだけど、それはこういう映画に求めるものではないのかもしれない。

 そんな八重子は何十年ぶりに映画主演の高橋洋子。「旅の重さ」や「サンダカン八番娼館 望郷」で思い出深い女優だが、若い人には初めてかもしれない。「北陸代理戦争」のトークショーで、この映画に久しぶりに出た話は聞いていた。夫の石崎誠吾は升毅(ます・たけし)。人生初主演を、丁寧な役作りで好演している。友人の医者榎木は、誰だろうと思ったら梅沢富美男。今じゃ「プレバト」で俳句名人の印象ばかり強くなって、つい誰だと思ってしまった。長女は文音(あやね)。

 監督は佐々部清で、「チルソクの夏」「半落ち」「夕凪の街 桜の国」「ツレがうつになりまして」など、日本の「良心的映画」の名匠。気負いなくストレートに作っていくので、技巧は感じないけど、素朴な感動がある。そういう映画が多い。山口県下関市の出身で、山口県を舞台にした映画が多い。萩を中心に、山口県各地でロケしていて、地方の落ち着いた美しい風景も心に沁みる。松下村塾など全国的な名所が一切出てこないところもいい。どっかでやってたら、カップルで見て欲しい映画。
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横綱・日馬富士を送別する

2017年12月01日 23時18分09秒 | 社会(世の中の出来事)
 大相撲の第70代横綱・日馬富士(はるまふじ、伊勢ケ浜部屋)が引退した。九州場所が始まって少し経って、休場していた平幕・貴ノ岩が日馬富士にケガさせられていたと報道され、以来マスコミはこの問題で大騒ぎである。警察に被害届が出され、鳥取県警で捜査が進められているから、僕がここで書くべきことは特にない。相撲協会の内部抗争のような報道もされているが、そういうことに関心が全然ないわけじゃないけど、特に書きたいとも思わない。

 日馬富士という力士は、この問題が起こらなくても、そう遠くない時点で引退を避けられなかったと思う。幕内最軽量ながら闘志あふれる相撲を取ってきて、ケガが多く満身創痍というのが実情ではないか。2016年はすべて出場したものの(名古屋場所で優勝)、2017年は初場所を途中休場していた。その後も春場所が10勝、その後3場所が11勝だった。全部10勝以上はしているんだから、横綱失格とは言えないけれど、優勝にはちょっと遠い場所が多かった。秋場所は終盤で大関豪栄道が失速し、11勝4敗で優勝決定戦を制して9回目の優勝となった。

 最後に優勝できたのは良かったけど、他の横綱、あるいは大関が元気なら、11勝では優勝に届かないのが普通だろう。それでも序盤に3敗しながらも、よく付いていったもんだと思う。いま星取表を調べてみると、3日目に琴奨菊、4日目に北勝富士(ほくとふじ)、5日目に阿武咲(おうのしょう)と3連敗した。その後、10日目に貴景勝(たかけいしょう)に負けた。横綱が3連敗したら、日馬富士も休場してもおかしくない。その後優勝までする精神力はすごいと思う。

 僕は特に日馬富士が好きなわけじゃない。今じゃもう相撲にも、野球にもサッカーにも…、特に誰か好きなスポーツ選手がいるわけじゃない。ただ、「注目すべき存在」と思う人はいて、そういう人を見ていきたいとは思う。(スポーツに限らず、俳優や映画監督、政治家なんかでも似たようなもので、自分の生きている「熱」そのものが下がっているのかと思う。)日馬富士という人は、そういう意味で「注目すべき」人だった。何しろ横綱でありながら、日本で大学院へ通うとか、絵の個展を開くというんだから、ただものではない。単なる力士という枠に収まらない「」を持っている。

 その「熱」、つまり「熱い生き方」がここぞという時の素晴らしい速攻相撲にもなるし、悪い方に出れば今回のような事件を起こすのかもしれない。横綱在位31場所で、優勝5回、休場が今場所を含め6場所、9勝6敗が3回。調べてみるとそういう数字になる。大関時代にはかなりあった8勝7敗はなかったけれど、多くの場所は10勝とか11勝である。(15場所。)やはり軽量を突かれて序盤に失速して優勝に絡めない場所が多かったような印象がある。

 だけど、それだけならここで書く意味はない。横綱昇進を決めた、2012年の名古屋場所、秋場所の連続全勝優勝、この文句なしの横綱昇進は見事だった。今回も秋場所の白鵬との相撲をテレビでやってたけど、名勝負だった。横綱になって活躍できるのかと心配したけれど、全勝優勝を2回続ければ、誰も文句を言えない。(連続全勝優勝はかつての貴乃花の昇進と同じだった。)

 そして今年で言えば、三月の春場所、全勝を続けていた新横綱稀勢の里に、13日目に横綱としての初黒星を付けたあの相撲、驚くほどの速攻が思い出される。その場所は白鵬が途中で休場していたので、ほぼ稀勢の里が連続優勝かというムードだった。しかし、この取り組みで稀勢の里は負傷することになった。翌日は鶴竜に負け、千秋楽に1敗だった大関照ノ富士に勝って、決定戦に持ち込んで優勝したのだった。だが、この無理がたたって翌場所から休場が続くことになる。照ノ富士もその後大関から陥落する。この場所の日馬富士を調べると、10勝5敗ではないか。でも「記憶に残る」相撲を取った。そういう決定機に見せる「熱」は捨てがたいものがあったなあと思って書いた次第。
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