尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

二重基準問題をどう考えるかーウクライナ戦争余波②

2022年04月19日 22時47分14秒 |  〃  (国際問題)
 ウクライナ戦争をめぐっては、いろんな問題で「二重基準」(ダブル・スタンダード)という批判がある。「二重基準」があるとして、それは批判されることが多いが、果たして批判すべきものなのかということを含めて、ちょっと考えてみたい。「国際的な問題」と「国内的な問題」があるが、基本は同じである。その代表的なものは「ウクライナ難民の扱い」だろう。EU諸国、特に東欧諸国はシリア難民をめぐって、露骨に来るなと言わんばかりの対応を繰り返していた。
(ポーランドのウクライナ難民)
 それが今回は周辺諸国はどんどん受け入れているし、大きな支援態勢がある。全然違うじゃないかという声は当然上がってくるだろう。もっともそれでも難民は出来るだけ受け入れるなと右派政治家は言っているようだが。僕はこれはやむを得ないというか、当然だろうなと思っている。周辺諸国にとっては、まさに隣国の問題であり、自国もロシアの脅威にさらされているという思いがある。ポーランドは同じスラブ系民族で、クルコフ「ウクライナ日記」を読んでいたら、ポーランド語はある程度理解出来ると書いてあった。スロバキアもスラブ系だし、モルドバはルーマニア系だけど国土の一部がロシア系「人民共和国」になっている共通性がある。文化的共通性もあるが、それ以上に他人事ではないという危機感がある。

 そのような背景がある以上、ウクライナからの避難者を多数受け入れるのは、まさに当然だろう。さらにソ連崩壊後、経済困難が続くウクライナからは多くの人々が国外に働きに出た。そのため親族がヨーロッパ各地にいる場合が多く、ポーランド等の一次避難国を経て、それらの最終目的地に向かう場合も多いという。だから、国境付近に大量の難民が集結して、医療も行き届かず人道危機が起きるという事態までは起こっていない。首都キーウ付近からロシア軍が撤退したという状況変化を受けて、帰国(一時帰国)している人も多いらしい。つまり、文化的背景が異なる移民が突然大量にやってきて定住する事態とは少し違うのである。

 このウクライナ難民受け入れ問題は、むしろ日本において「二重基準」というべきだろう。難民そのものをほとんど受け入れない日本が、今回に限って受け入れを表明している。ここで書かなかったが「牛久」という映画が上映されている。入管収容所(東日本入国管理センター)の実態を撮影して、被収容者の声を記録している。その様子を見る限り、日本政府は「批判されるべき二重基準」になっていると思う。国家政策だから「法の下の平等」に反することはおかしい。ウクライナ難民を受け入れるのはいいけれど、同じような事情にあるミャンマーなどの希望者こそ受け入れる必要がある。しかし、まあ遠いウクライナからはそんなに来ないだろうが、近くのアジア諸国はいっぱい来るかもしれないから困るというのが本音だろう。
(映画「牛久」から)
 「二重基準」だからダメという風にすべて一般化することは出来ない。民間でやってること、映画に学生料金やシニア料金があることは、理由ある経営方針というもんだろう。ドラッグストア「ぱぱす」では、60歳以上のシニアカード持参者には15,16.17の3日間に一回10%割引をしている。自分も毎月利用しているんだけど、大変有り難い「二重基準」である。これが許されるのは、公的機関の法に基づく方針ではないことと、やがてすべての人がシニア割引を利用できるという二つの条件があるからだ。 

 他にもう一つ、重大な問題として、アメリカもイスラエルに関しては拒否権を使うじゃないかということがある。被害者側、例えばガザの住民からすれば納得できないに違いない。中東全体でむしろ反アメリカ感情を増大させているのではないか。確かに国連安保理決議で決められた第3次中東戦争(1967年)でイスラエルが占領したヨルダン川西岸地区からの撤退決議は実施されていない。イスラエルは自国の領土化を進めているし、シリアのゴラン高原は自国に編入してしまった。これはロシアのクリミア編入と同じである。僕も何とかしなければいけないと思うけれど、これを「二重基準」という論理で批判出来るかは疑問だ。要するにアメリカもロシアも「国益最優先」という同じ一つの基準で判断をしているだけだからだ。

 いや、国連安保理なんだから、国益ではなく、国連憲章に基づいて判断するべきものである。本来はそういうことになるが、国連大使は政治任命であって出身国政府を代表している。どうも大国が国益優先で判断するのは止めようがない。ところで、もし大国の判断を左右できるとすれば、それぞれの国の国民世論が止めるしかないだろう。それは取りあえずは理想論だけど。問題はそれが理想論だからではなく、やはりウクライナ戦争より、シリアやミャンマーの事態の方が関心が薄く、さらにイエメン内戦はもっと知られず、アフリカのコンゴスーダンなどの事情はもっと知られていない。

 我々の側の無関心という問題がある。イエメン内戦はこの間ラマダン期間の停戦に同意したと伝えられたが、なかなか実際は守られていないらしい。報道がほとんどないのが実態である。さらに僕が思っているのは、今までにロシアにはひどいこと、おかしなことがいっぱいあった。チェチェンでは非道な弾圧が行われたし、ジャーナリストや野党政治家の不可解な死亡、襲撃が多すぎた。それがプーチン政権によるものと解明されているわけではない。しかし、どうも恐ろしいことがいっぱいあった。

 しかし、安倍元首相が何度もプーチン大統領と会談を重ねていた時期に、ロシアの人権問題を理由に抗議した人がどれだけいただろうか。それはロシアの国内事情であって、後にこれほど非道な戦争を始めるとは思っていなかったとはいえ、やはりプーチンの危険性を見過ごしたと言えるのではないか。トランプの動向に(あるいは習近平や金正恩の動向に)関心を持ったようには、プーチンに注意を払わなかった。このブログでは何度かロシアの人権状況を書いたけれど、それは十分ではなかった。自分の認識にこそ「二重基準」があったと言うべきだろう。
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