尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

宝田明、西村京太郎、三留理男他ー2022年3月の訃報

2022年04月08日 22時30分14秒 | 追悼
 2022年3月の訃報まとめ。3月は映画評論家の佐藤忠男、映画監督の青山真治の二人の訃報は別に書いたが、とても残念な知らせだった。俳優の宝田明もその時に書こうかと思わないではなかったが、僕はよく知らないので書かなかった。3月14日没、87歳。訃報で言われたことは大体同じ。「東宝ニューフェースとして合格し俳優になった」、「初めての主演映画が『ゴジラ』第一作だった」、「ミュージカル俳優として活躍した」(「風と共に去りぬ」や「マイ・フェア・レディ」など)といったことである。それに加えて、晩年になって「戦争の証言者」として知られるようになった。満州からの引揚者でソ連兵に腹を銃撃された過去があること、何を置いても平和を守ることが大切だという発言を晩年になって発言するようになったのである。
 (宝田明)
 長身でハンサム、言うことなしのスターだが、それだけに演技力の対象にならず何の演技賞にも恵まれなかった。僕は最近になって60年代初期の「香港の夜」「香港の星」「ホノルル・東京・香港」の三部作を見て、宝田明はともかく、香港の女優ユー・ミン(尤敏)の生き生きした魅力に驚いた。当時「東洋の真珠」とうたわれただけのことはある。ところで、朝日新聞のインタビューによれば、あるときユー・ミンから私と結婚してくれる意思はあるかと問われたというのである。しかし、まだ当時は国際結婚も少なく自分として自信がなく断ってしまったそうだ。ところで、ソ連軍への痛憤が消えないあまり、最後の記者会見でも「ウクライナにソ連が侵攻した」と述べていた。まあ、そういう人は結構いるようだけど。
(「香港の夜」)
 ミステリー作家の西村京太郎が3日死去、91歳。実は西村京太郎の訃報が3月で一番大きく報じられていた。トラベルミステリー、あるいは鉄道ミステリーの大家として、多くの作品を発表した。多くというのは、およそ600冊という。十津川警部が活躍し、テレビで高橋英樹や船越英一郎が演じたが、実は僕は見ていないし読んでもない。江戸川乱歩賞の「天使の傷痕」しか読んでないので、僕には評価できない。僕はミステリーを良く読んできたけど、決してテレビ化できないような異端系が好きなので。
(西村京太郎)
 報道写真家の三留理男(みとめ・ただお)が22日に死去、83歳。日大芸術学部写真学科在籍中の1961年に「Document 小児マヒの記録」を出版して注目された。その後、大学を中退して報道写真家として活躍、パレスチナやインドシナの戦争を取材した。三里塚闘争(成田空港建設反対運動)にも参加して取材した。80年代初期にはアフリカの飢餓問題を取り上げて反響を呼び、1982年には「国境を越えた子供たち」で第1回土門拳賞を受賞した。世界の子どもたちの写真で知られ、20世紀中は有名な人だったが、近年は忘れられたか訃報が小さかったのに驚いた。
(三留理男)
 画家、イラストレーターの原田泰治が2日死去、81歳。1歳の時に小児マヒにかかって車いすで生活しながら、外国へも旺盛に出掛けて活動した。「素朴画」(ナイーブ・アート)として日本各地の美しい風景を描く作品が多い。故郷に「諏訪市原田泰治美術館」がある。検索して絵を見てみれば、ああこれは見たような…という作品が多い。名前以上に作品が思い出にある。
 (原田泰治)
 カヌーイストでエッセイストの野田知佑(のだ・ともすけ)が27日死去、84歳。「カヌーイスト」とは、カヌーで川を旅する「ツーリングカヌー」をする人のこと。アルバイトで金を貯めてヨーロッパを放浪してカヌーを知り、1982年に「日本の川を旅する」を著した。日本ノンフィクション賞新人賞。1985年に新潮文庫に入ったので読んでみたら、ものすごく面白かった。その後も文庫に入った本を何冊か読んでる。愛犬ガクを「カヌー犬」と呼び、椎名誠の映画「ガクの冒険」になった。長良川河口堰などの反対運動にも関わった。この人の本を読んでカヌーはいいなと思ったが、現実に一度も実行しなかった。
(野田知佑とガク) 
 評論家、ノンフィクション作家の宮崎学が30日に死去、76歳。死因が「老衰」だったのに驚いた。幼少期から学生時代に掛けて、なかなか壮絶な体験をしているが、今は触れない。1996年に「突破者」が出て、この人を知ったわけだが、グリコ・森永事件の「キツネ目の男」に間違えられた男と宣伝されていた。それまでの「アウトロー」的な人生を振り返った内容が面白かった。1999年には通信傍受法反対運動を展開し、選挙に出たりもした。21世紀初頭のインターネット発展期には、この人のホームページは皆が読んでると言われたものだ。皆と言っても、権力側と反体制側のことだが、僕もまあよく見てた記憶がある。
 (宮崎学)
 物性物理学者の近藤淳が11日死去、92歳。磁石になる物質が金属に混ざっていると極低温似状態で金属の電気抵抗が増える「電気抵抗極小現象」を理論的に解明した。この現象は「近藤効果」と呼ばれている。内容は難しいので省略。2020年に文化勲章。ノーベル物理学賞の候補とも言われていた。
(近藤淳)
 行政学者、政治学者の新藤宗幸が13日死去、75歳。市民主体の地方自治を主張し、多くの本を書いた。また住民投票を進める市民運動にも関わった。岩波新書やちくま新書にも数多く書いているから、読んだ人も多いだろう。近著は朝日選書の「新自由主義にゆがむ公共政策 生活者のための政治とは何か」(2020)、「権力にゆがむ専門知 専門家はどう統制されてきたのか」(2021)で、題名に直近の問題意識がうかがえる。最近書評を読んだばかりだったので、驚いた。
(新藤宗幸)
 新藤氏に続き、行政学者、政治学者の西尾勝が22日死去、83歳。東大名誉教授で学士院会員なので、二人の社会的立場は相当違う。同じように地方分権を進めたが、政府の審議会などを通して地方制度改革を進めた側。「平成の大合併」を進めた人でもある。地方分権改革を作った人とも言え、官僚や地方首長などに大きな影響を与えているといわれる。
(西尾勝)
井垣康弘、2月26日没、82歳。元神戸家裁判事で、連続児童殺傷事件の審理を担当した。退官後も弁護士として「修復的司法」に取り組んだ。
近藤恒夫、2月27日没、80歳。薬物依存者の回復を支援する民間団体「ダルク」を創設した。これは非常に有名で、全国80施設に広がって、アジア太平洋地域の薬物依存に取り組むNPO「アパリ」理事長も務めた。吉川英治文化賞を受賞。
宮平初子、7日没、99歳。沖縄の染織家。琉球王朝の染色技法を復興し、沖縄の女性として初めて人間国宝に指定された。
清水哲男、7日没、84歳。詩人。1975年の「水甕座の水」でH氏賞を受賞。ラジオパーソナリティやネットの俳句講座などでも知られた。
鈴木勲、8日没、89歳。ジャズ・ベーシスト。70年にアート・ブレイキーに見いだされて渡米して、巨匠たちと数多く共演した。
豊島久真男(とよしま・くまお)、9日没、91歳。初めてウイルスがん遺伝子の存在を証明した。70年代から90年代にかけて、がん研究をリードする存在で、2001年に文化勲章を受章。
吉永仁郎(よしなが・じろう)、12日没、92歳。劇作家。都内の中学で英語教師をしながら劇作を学んだ。一時演劇から離れるも、40歳を越えてから本格的に劇作家として活動。三遊亭圓朝を描く「すててこてこてこ」(1982)「夢二・大正さすらい人」(1983)が劇団民藝で上演された。民藝との関係が深く、「集金旅行」や「静かな落日−広津家三代−」など近年も上演されている。最後の作品は2021年に上演された「どん底−1947・東京–」。
松村雄策、12日没、70歳。音楽評論家、音楽誌「ロッキン・オン」創刊メンバー。多くの本を買いているが、ビートルズを扱った「アビイ・ロードからの裏通り」「苺畑の午前五時」はちくま文庫で読んだ。「ビートルズは眠らない」「ウィズ・ザ・ビートルズ」など。
北村春江、13日没、93歳。91年から03年まで、兵庫県芦屋市で日本初の女性市長を務めた。
伊藤憲一、14日没、84歳。保守派の国際政治学者として知られた。
松田寛夫、24日没、88歳。脚本家。東映に入社し、「女囚さそり」シリーズ、「柳生一族の陰謀」など70年代の多数の脚本を共作した。その後単独で執筆し、「花いちもんめ」で日本アカデミー賞、「社葬」で毎日映画コンクールの脚本賞を受賞した。テレビでも数多くの作品を書いている。
高久史麿(たかく・ふみまろ)、24日没、91歳。前日本医学会会長。骨髄バンク創設を提言した。

 アメリカの俳優、ウィリアム・ハート(William Hurt)が13日死去、71歳。1985年に「蜘蛛女のキス」でアカデミー賞主演男優賞、カンヌ映画祭男優賞を受けた。その後「愛は静かさの中に」(1986)、「ブロードキャスト・ニュース」(1987)でもノミネートされた。その前にローレンス・カスダン監督の「白いドレスの女」(1981)、「再開の時」(1983)で注目された。80年代に最も活躍した男優だったが、その後はヴェンダースの「夢の涯てまでも」やウェイン・ワン「スモーク」などなどぐらいか。近年までいろんな映画に出ていたが、印象にない。多くの女性と浮名を流したことでも知られ、「愛は静かさの中に」で共演した10代だったろう者のマーリン・マトリンとも同棲し、後に虐待があったと本で告発された。
(ウィリアム・ハート)
 アメリカ史上で初めて国務長官に就任した女性、マデリーン・オルブライト(Madeleine Korbel Albright)が23日死去、84歳。生まれたのはプラハで、その時の名前はMarie Jana Korbelová(マリー・ヤナ・コルベロヴァ)だった。ユダヤ系だったため、ナチスの侵攻を逃れてイギリスに移り、戦後アメリカに一家で移住した。旧ソ連、東欧情勢に通じた国際政治学者として知られるようになり、92年にクリントン大統領の外交顧問、93年から国連大使を務めた。97年からは第2期クリントン政権の国務長官となった。在任時はコソボ問題でNATOの空爆を主導した。退任直前に北朝鮮を訪問したが成果はなかった。全体的にあまり成功しなかった。
(オルブライト)
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