尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

見田宗介さんの逝去を悼んでー「解放」を求めた理論家として

2022年04月10日 23時24分00秒 | 追悼
 今日の朝刊に見田宗介さんの訃報が載っていて、大変に驚いた。「学問分野の壁を越えて、現代社会の構造や心理を分析した社会学者で東京大名誉教授の見田宗介(みた・むねすけ)さんが4月1日、敗血症のため東京都内の病院で死去した。84歳だった。」

 訃報とすれば「東大名誉教授」の「社会学者」になるのもやむを得ないかとは思う。僕は「見田先生」と呼んでいたが、大学で直接学んだわけではない。見田さんは学外で一般市民対象の自主講座をたくさん行ってきたが、そういう場で出会ったのである。突然のことで、まだ頭の中であまり整理されていないが、やはり今じゃないと書けないと思う。朝からいろいろと思い出しているけれど、見田さんとの関わりは結局は自分の青春だったなと思った。

 初めて直接会ったのは、1980年6月2日である。場所は飯田橋にあった青生舎。その頃、10年限定で「80年代」という雑誌が出ていた。この雑誌を検索しても、情報が得られないが、いろんな学者、評論家が集まって野草社という出版社から出ていた。野草社を検索すると「新泉社」の一部として今もあるようだ。屋久島に住んだ詩人山尾三省の本をたくさん出している。その雑誌はよく買っていたが、そこに真木悠介(見田さんのペンネーム)さんの「柳田国男『明治大正史世相編』を読む」参加者の募集案内があった。
 
 それに応募したところ、案内が送られてきたのである。青生舎というのは、保坂展人さん(現世田谷区長)がやっていたスペースである。当時は内申書裁判を闘いながら、教育に関わる運動を起こしていて、雑誌「80年代」に挟み込まれた「90年代」という若者グループ主体の頁を担当していた。だから会場もそこになったんだろう。最初の集まりの日は1980年の衆議院選挙の公示日だった。大平内閣不信任案が成立して、突然始まった衆院選である。この選挙戦中に大平首相が急死したことで知られる。その選挙が始まった日だったから覚えていて、特定できるのである。当時自分は大学院生だった。

 僕が講座に応募したのは、何も柳田国男に深い関心があったためではない。いや、当時は柳田学に大きな関心が集まっていた時代で、僕も対象の「明治大正史世相編」はすでに読んでいた。だけど、僕はまず「真木悠介」という名前に深い関心があったのである。それは「気流の鳴る音」(筑摩書房、1977)という素晴らしい本を読んでいたからだ。この本はカスタネダという人の本を読解しながら、コミューンの理論を展開した本である。内容と共に、その詩的な喚起力に富む文章も圧倒的だった。その人の講座だから、是非行きたいと思ったのである。とても興味深い人たちが集まっていて、それも刺激になったけれど、真木さん(見田さん)の若々しい颯爽たる姿も印象的だった。
(「気流の鳴る音」)
 講座が終了した後に、泊まり込みで続きの会を行った。(場所は八王子の「大学セミナーハウス」。)一番刺激的だったのは、むしろそっちの方で、竹内敏晴さんの演劇レッスンを行った。その時の刺激は非常に大きかった。どうしてかというと、「社会的な解放」ということと別に「身体的な解放」という問題を意識させられたのである。見田さんは社会学者として、非常に大きな仕事をしている。著作集は社会学関係で全10巻に及んでいる。その学問的な貢献は他の人がいっぱい語るだろう。だけど、僕にとっての「真木悠介」は「解放のための理論家」という側面が大きかった。
(「時間の比較社会学」)(「自我の起源」)
 特に影響を受けた本を取っておくコーナーがある。その中に、この前書いた佐藤忠男さんの「日本映画史」とか「大島渚の世界」がある。その2段上に見田(真木)さんの本が集まっていて、ちょっと5冊の本を持ってきた。「真木悠介」というのは、コミューン論、解放理論を書くときのペンネームだが、今挙げた2冊は真木名義。この「解放」というのは、今イメージすることが難しいかもしれない。僕は高度成長時代に、首都近郊の中産階級に育ったストレート(異性愛者)の男である。個人的に生活が苦しいとか、差別や抑圧を強く受けたわけではない。だけど、僕も周りの友人たちも「解放」を求めていた。

 僕は歴史を専攻したから、周りにはマルクス主義によって、「解放への道」はすでに切り開かれていると断じる人も多かった時代だ。だけど、僕はそれに思想としての多くの有効性を感じながらも、「現実の社会主義国家」や「現実の社会主義政党」には全く信を置いていなかった。そして、「ソ連」という国を説明出来ない理論には、どこか間違いがあると感じてもいた。それでも、アメリカがヴェトナムで爆撃を続け、日本政府がアメリカを支持している中では、「左翼的」であるしかなかった。ただ、そのことがやがて「社会的な解放」へ通じているとは思えなかったのである。

 それは今思えば「文化」の問題と「身体」の問題だったと思う。僕の若い頃接していた文化(音楽、映画、演劇など)は、大部分が「反体制」(カウンター・カルチャー)だった。高度成長時代は、どこの国でも新しい文化と伝統的な社会とのあつれきが大きくなった。今思うと、世界中どこでも最初に新文化を受容するのは、都市中間層の青年である。僕が自分が非抑圧者ではなくても「解放」を求めていたのは、そういう文脈で理解出来る。伝統的な思考に絡み取られた中高年層に育てられて、もう鬱陶しさでいっぱいだったのである。そして「左翼」の提供する「正しい」文化は僕の身体には全く魅力的ではなかった。

 そこに「解放」への新しいアプローチを続けていたのが、見田宗介さんだった。「比較社会学」という形式で、「時間」「自我」を系統的に検討した画像の2冊は、本来はもっと続く大著の一部である。「時間の比較社会学」のあとがきを見ると、構想としては「関係の比較社会学」「身体の比較社会学」「人生の比較社会学」「教育の比較社会学」「支配の比較社会学」「〈翼〉の比較社会学」「解放の比較社会学」と続く壮大なものだった。

 それが全部書かれたときにはどんなものになっただろうか。それは僕には夢想することしかできない。ただ「解放の理論」があっても、自己は解放されない。「自分」は他者との関係性の中にしか存在できないが、そこには「身体的な限界」が必ず存在する。それは「高齢化」「病気」「障害」などを思い超せば誰でも判ることだが、「若い男」である自分にはまだよく判っていなかった。よく判らないままに、僕の場合は教師として勤務することになって、何の知識や研修もなかったから、病気や障害の生徒に向かい合ったときに理解するには時間が掛かった。結局は「理論」とともに、人生には「」が必須なのである。
〈「宮沢賢治」〉〈「白いお城と花咲くお城」〉
 人生では解放理論などよりも、詩的直感の方が遙かに役立つのである。その事は恐らく一番優れた仕事と言ってよい「宮沢賢治」でも感じたことである。僕は岩波から出た著作集を買ってあるのだが、最近は理論的、学問的な関心が薄れてしまって、全然手を付けていない。死は誰にでも訪れるものだから仕方ないのだが、こうして大きな影響を受けてきた人が毎年のように亡くなっていく。そして世界は悪くなり続けているように見える。一体どこでどう間違ってしまったのか。
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