尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「大統領の最後の恋」ークルコフを読む③

2022年04月17日 22時38分34秒 | 〃 (外国文学)
 ウクライナの作家、アンドレイ・クルコフを読むシリーズの3回目は「大統領の最後の恋」(2004)である。この本は書店では品切れ中で、2800円で出た本がAmazonでは6449円もしている。近所の図書館にあったので、借りて読むことにしたが、現物を見たら一瞬ためらいが起こった。前田和泉訳で2006年に翻訳が出たが、なんとエピローグまで631頁もある、途方もなく長くて分厚い本だった。持ち歩くにも重たい本で、読み終わるまでに10日間も掛かってしまった。

 この本は長いからではなく、その類のない構成によって、実に読みにくい本になっている。長く掛かったというが、それは一冊の本を読んだと思うからで、実質的には「三冊の本」と同様の本なのである。しかも、それを並行して読んだと同じ。全編は216もの小さなエピソードに分かれていて、つまり一つのエピソード辺り3頁ほど。掌編集みたいな構成なのだが、それもある1人の人物の①「青年期」(1975~1992)、②「壮年期」(2002~2005)、③「中高年期」(2011~2016)をバラバラに語るのである。

 最初に書いたように、この本の原著は2004年に刊行された。つまり、中高年期の③というのは主人公セルゲイ・ブーニンの近未来を書いているのだ。バラバラというのは、①②③がそれぞれ交互に書かれていて、読む方はソ連時代の話を2頁ぐらい読むと、次のエピソードでは大統領になっている。その次には21世紀初頭に起こった悲しい出来事が語られる。どの時期もなかなか波瀾万丈なんだけど、すぐにぶつ切りになって違う話になるから、どうも物語に入り込めなくて一気読み出来ない。

 こういう風にバラバラの断片を示す語り方は、イタリアのイタロ・カルヴィーノなどにもあるが、クルコフのように近未来まで書いたのは見たことがない。随分手の込んだ構成を考えたものである。何のためにこんなことをしたのか。それはウクライナの現実は、このように語るしかないということだろう。福沢諭吉はかつて維新前後に生きることを「一身にして二世を経る」と言ったが、ソ連解体によって青年期と中年期が分かれる世代にとって、人生はバラバラの断片としてしか表現出来ないのかもしれない。

 主人公セルゲイ(セリョージャ)は大学も行かずブラブラしている女好きの青年だったが、だから軍隊には行かされる。父は早く亡くなり、母と双子の弟ジーマがいる。母はよくソ連時代の映画などに出て来る、母一人で子どもを育てた「肝っ玉おっ母」だが、弟は精神を病んでいる。そのため一家は弟を病院に入れるが、入れたら経費もかかるし面会に行く必要もある。しかし、実は本人にも病気の因子は隠れていて、何と近未来の大統領時代には心臓移植手術を受けることになる。ところが心臓提供者の妻が「夫の心臓と常に一緒にいられること」を条件にしたため、大統領公邸の隣の部屋に提供者の妻が住んでいる。

 いつの間にか②時代には副大臣になっていて、③時代には大統領になっている。ウクライナは国民による直接選挙で大統領を選ぶんだから、主人公は立候補して当選したはずだが、その経緯は最後まで書かれていない。なんでそんなエラい人に出世できたのか、③時代では手術直後ということもあるが、周囲の側近に任せきりである。実に判りやすい文章(名訳)なんだけど、よく判らないところが多すぎる。②時代には弟のジーマをスイスの病院で療養させることになり、そこから人生で一番愛した女性とめぐりあうことになる。副大臣になった経緯もよく判らないが、とにかく家族を外国へ送れるだけの金銭的余裕が出来てきた。

 ①の時代には様々な出会いがあり、公式的な世界と別に未だ宗教に生きている老人と出会う。しかし、次第に社会が崩れていって、ソ連崩壊という事態にいたる。その時代を経て、有力者に接近し有利な道を探るというウクライナ社会を生き抜く力がセルゲイに備わっていく。ただし、彼はおおっぴらに汚職はしない。その分、どこかの党派に所属せずに「孤独」なのだが、逆に利用価値があるとも言える。その結果、政治家に転身したのだろうが、③を見ると陰謀だらけである。ロシアとの複雑怪奇な関係が描かれているが、政敵がロシアに逃亡するのでセルゲイは反ロシア派なのか。心臓移植そのものに陰謀が隠されていたというラスト近くの展開には驚き。(移植された心臓に人工的な装置が埋め込まれ外部からスイッチをオフに出来るらしい。)

 この小説は2004年に刊行され、その年の「オレンジ革命」やユーシェンコ候補(後に大統領)に不可思議な毒物中毒が起こった事態を予告したなどと言われた。しかし、さすがに近未来を描く③の2015年頃になると、食い違いが出て来るのもやむを得ない。ロシアはロマノフ王朝400年式典を挙行しセルゲイも列席するが、その場に金正日も参加しているというのは、実際には2011年に死亡しているのであり得ない。それよりも、大統領が2015年の年末休暇をクリミアで過ごすという設定は、2014年にクリミアのロシア併合が行われたので不可能になった。プーチンの狡猾がクルコフの想像力を上回ってしまった

 ところで「ペンギンの憂鬱」でも「大統領の最後の恋」でも、クルコフの微妙な位置について触れている。ロシア語で著作するクルコフは、ウクライナ民族主義が高まる社会で生きづらくなっていかないかというのである。翻訳が出たのは2004年と2006年である。それから15年以上も経ち、ロシアの侵攻を受けて、今後のクルコフがどう生きていくかは注視していく必要がある。彼自身は妻がイギリス人で、数カ国語に通じるという人だから、ウクライナを離れても生きていける。アパルトヘイトを鋭く批判した南アフリカのノーベル賞作家クッツェーが、アパルトヘイト終了後にANCを批判したと受け取られオーストラリアに移住した事例もある。

 クルコフの著作はいっぱいあるようだが、日本での翻訳は3冊だけ。よって「クルコフを読む」は今回で終わり。一般向け小説の他に、エッセイや評論、児童文学などもあるようだから、さらなる翻訳を望みたい。21世紀のウクライナ社会を知るためには非常に重要ではないか。もちろん純文学なので、社会の現実を直接書いているわけではない。だが、ソ連崩壊から独立後の混乱期を生きる人々の苦悩をこれほど生き生きと表現した作家は他にはいない。まあ「大統領の最後の恋」は読むのが大変過ぎたなあと思うけど。
追記①一番仰天したアイディアを書き忘れた。「近未来」の2015年にロシアのプーチン大統領(実名で登場)は、驚くべき行動に出る。ロシア革命の立役者レーニンを、なんとロシア正教の聖人として認定させるのである。「聖者ウラジーミル」の聖遺物はロシアを通ってウクライナへも巡行するのである。
追記②どうでもいんだけど、昔飼っていた犬が「クル」という名前で、メスだったから「クル子」とよく呼んでいた。図書館のラベルに「クルコ」とあったのには、なんだかホッコリした。(4.18)
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