尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ペンギンの憂鬱」、独立ウクライナの苦しみークルコフを読む②

2022年04月12日 22時13分15秒 | 〃 (外国文学)
 アンドレイ・クルコフ(1961~)の「ペンギンの憂鬱」(1996)を読んだのは、もう2週間ぐらい前になる。いま、もう一冊の長編小説「大統領の最後の恋」を読んでいるけど、あまりにも長大な作品で全然進まない。突然「クルコフを読む②」と書いたけれど、①はこの前書いた「クルコフ「ウクライナ日記」を読むー2014年「マイダン革命」の日々」(2022.3.22)である。その時はクルコフの小説を続けて読もうと思ってなかったが、やはりこの機会に読んでみようと思ったのである。

 「ペンギンの憂鬱」(沼野恭子訳)は新潮社のクレストブックスから2004年に刊行された。「欧米各国で絶大な賞賛と人気を得た長編小説」とあって、日本でも評判になったと記憶する。しかし、帯にはさらに「不条理で物語に満ちた新ロシア文学」とある。これでは「ロシア文学」としか思わない。しかし、クルコフは確かに「ロシア語」で書いているけれど、内容的には「ウクライナ文学」なのである。クルコフがウクライナに住んで、ウクライナ国家に帰属意識を持っているということもあるが、小説の内容そのものが「ソ連崩壊直後のウクライナ」をいかに描くかをテーマにしている。
(アンドレイ・クルコフ)
 これも帯の裏から引用するが、こんな小説である。「恋人にさられた孤独なヴィクトルは、憂鬱症のペンギンと暮らす売れない小説家。生活のために新聞の死亡記事を書く仕事を始めたが、そのうちまだ生きている大物政治家や財界人や軍人たちの「追悼記事」をあらかじめ書いておく仕事を頼まれ、やがてその大物たちが次々と死んでいく。舞台はソ連崩壊後の新生国家ウクライナの首都キエフ。ヴィクトルの身辺にも不穏な影はちらつく。そしてペンギンの運命はー。」

 話は次第にミステリー風になっていくが、もう一つは「世界唯一(?)のペンギン小説」という魅力もある。なんでヴィクトルの家にペンギンがいるかというと、経済的に苦しい動物園が希望者に飼育動物を譲渡したのである。小説が評判になって、ドイツの雑誌「シュピーゲル」がペンギンと一緒の著者写真を撮りに来たという。しかし、もちろんクルコフ家にはペンギンはいなかった。大体いくら、混乱期のウクライナだって、動物園が個人個人の希望者に飼育動物をあげちゃうなんてあり得ない。しかも動物を飼うときに困る排泄物の処理とか発情期の問題が全く出てこない。ただ家でペンギンがおとなしくしているなんて、おかしい。
(コウテイペンギン)
 じゃあ、なんでペンギンなのか。常に団体生活をしているペンギンが、一匹の孤独な生活を強いられて憂鬱症になってしまう。その「憂鬱なペンギン」こそが、「ソ連」が突然解体してしまって、目標を失ってウロウロしているウクライナの象徴なのである。そして、ペンギンのミーシャが確かにとても魅力的。だけど、ヴィクトルがキエフを留守にすることもある。死亡記事の仕事でハリコフに出張するとき、困って警察に電話したら、思いがけず同じように孤独な警官セルゲイと知り合った。
 
 セルゲイと気が合って、時々一緒に冬のドニエプル川にペンギンと散歩したりする。そこに「ペンギンじゃないミーシャ」という謎の人物が現れ、個人的に追悼文を頼んでくる。ヴィクトルの文学的追悼記事は評判が良かったのである。しかし、やがてミーシャは娘のソーニャを置いて姿を消すことになる。ソーニャを世話していると仕事ができないから、セルゲイに相談すると姪のニーナにベビーシッターを頼めるという。こうして、3人と1羽の暮らしが始まってしまったのだが…。

 しかし、書く記事、書く記事、書いた事前死亡記事の相手がどんどん実際に死んでしまうというのは、どう考えても怪しい。せっかく書いたんだから、最初は掲載されて欲しいと思ったけど、あまりに続くと新聞も読まなくなる。そして、仕事の裏にある事情を次第にヴィクトルも推測していく。そのミステリアスな展開がどうなるかというところが読みどころなんだけど、面白いと同時に恐ろしい小説である。「ペンギン」という「登場動物」が最後まで効果的に使われている。そして、ソ連崩壊後の混乱の中で、「マフィア抗争」が相次いだ時代を描ききっている。

 ソ連は「社会主義国家」だから、すべては国営企業である。それが突然崩壊して、私営企業が認められる。しかし、すぐには安定した資本主義的な社会は形成されなかった。ソ連時代に特権的な官僚層が形成されていて、その中の機を見るに敏な人々が情報をうまく得て、国営企業を自己のものにしていった。日本でも明治初期に「藩閥と政商」があり、戦後にも新興企業と政治家の結びつきが見られた。旧ソ連、旧東欧諸国には、同じように政商が現れたのである。最近「オリガルヒ」(新興財閥)という言葉を覚えたが、どこでも彼らの争いが激しく繰り広げられた。そういう社会を背景に、裏社会に巻き込まれた小説家を使ってウクライナを風刺している。出来映えは見事で、一度読んでみる価値がある。ただし、90年代初期の話である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする