桐山孫兵衛は姫路生。鎮西為朝の子孫で分別があり性格は温厚にして武勇に優れ、筑前入国後は六千石を賜り、母里太兵衛と協力して難所の冷水峠を開通させた。昔々ある戦の折、母里太兵衛の働きをみて孫兵衛が勘違いで気に障る報告したことにより二人は30年もの間口もきかず仲たがいをしていたが、栗山備後守のとりなしで仲直りした。豪勇人に劣ることのなかった太兵衛は幼時に如水より栗山備後守と義兄弟の約束をさせられ備後守には素直に言うことを聞いたのだ。しかし、30年も、、、。黒田武士の面目躍如といったところか。
村田出羽守は本姓井口、幼名與一之助、後に兵助と改。一族や3人の兄(討ち死にす)良く黒田家に尽くしまた本人は13歳の砌、長政公が信長の人質となったとき陪仕した。長じて戦場に於いて毎度勇戦し勇猛で一日に首7つを取ったものにしか許されない朱具足と一代朱柄の槍を許された。朝鮮陣でも高名をあげ、筑前入国後は二千石を賜り足軽大頭となり、如水の命で村田出羽守と号す。大坂城天守台の石垣普請の命を受け難なく普請の奉行を勤めた。元和7年没。行年57歳。
竹森石見は幼名新次郎、武勇人に優れ度々高名あり。一生の間に甲付の首18討取。ある戦で敵の刀を左手に受けながら敵を討ち果たしたことにより武勇如水の褒めることとなったが左手が不自由と成ったので如水より汝は敵の機を見ること天生長ずる所なりとて旗奉行に取り立てられた。日本、朝鮮の陣にて其能敵の機を見て行伍の進退をなさしめ、勝事を一時に決せし事度々なり。長政の子が生まれたとき名を付けるように命じられ萬徳君と名付奉る。筑前にて三千石を賜る。元和7年没。行年72歳。嫡子清左衛門は朝鮮の陣にて武功有。また関が原で戦功著しく、江戸大坂城普請を任せられ大役を果たした。父の後をついで立派に旗奉行を務めた。このように黒田24騎には親子にわたり黒田家に尽くし高名を上げる者多く勇者は綺羅星の如くであった。
毛屋武蔵は幼名虎千代、江州神崎郡生。江州六角氏、柴田勝家、能登前田利家、池田信輝、越中佐々成政に仕えた。成政が秀吉より肥後50万石を賜ったとき毛屋武蔵も肥後に下ったが秀吉より佐々成政が切腹させられたので中津に来て黒田長政に300石を賜り仕えた。秀吉より会津42万石を賜った蒲生氏郷より昔ある戦で毛屋武蔵が氏郷の窮地を救った恩により密かにその武名高きに1万石にて誘われたが、朝鮮陣まえにて他家へ仕えること本意にあらずと断った。関が原の合戦に功名あり。家康に合戦の時期を上申し勝機を進言した。筑前に入国後以前豊前宇都宮氏を滅ぼしたときその家来に鬼木掃部も亡されたがそのむすめが弟妹をつれて落人となっていたのを長政の命で娶る。妻の弟は鬼木惣右衛門といい毛屋武蔵の所詫により黒田美作に仕え今にその子孫有り。寛永5年没。行年75歳。波乱の一生であった。
林掃部亮は幼名吉六、武田家家臣松本一族の出、軽井沢の生まれ。播州の地戦、上方邊の軍、九州陣にて高名有。朝鮮陣に於いて林掃部亮が槍にて虎を突留めた武勇伝は後に講談では有名な加藤清正の虎狩となったが本当は林掃部亮をモデルに作られたものである。関が原にても高名をあげた。鉄砲大頭を務め筑前入国後は三千石を拝領し大頭組の筆頭となる。寛永6年没。行年61歳。
原伊予守は初名宝珠山左近太夫、筑前の名族原田氏の一族で香春城主であったが如水が豊前入国のときに早く従い、秀吉の命により黒田家臣となり名を原弥左衛門と称せらる。豊前城井城攻めでは神楽城を守り多くの敵を誅した。朝鮮陣、豊後陣にて殊に武功有り。筑前入国後二千石を拝領。栗山大膳去りし後の上座郡左右良に置いて隣国の押さえを命じられる。寛永16年没。行年83歳。其の弟をはじめ一族はよく黒田家のために尽くし高名をあげた。
昨日素晴らしい年賀状が届きました。姫路の播州黒田武士顕彰会からです。昨年の姫路お城まつりで姫路城をバックに「官兵衛をNHK大河ドラマに」の横断幕です。これはすごい!アッピール度満点です。右下にちゃんと豊前中津黒田武士の会の名前も見えます。嬉しいですね。本年も手を携えて頑張りましょう。よろしくお願いします。
三宅若狭守は播州三宅出。武功有りしかば如水招きよせ300石にて召抱え家臣とす。敵対する赤松の一族に6万石を領する真島氏を攻めあぐねていたとき三宅若狭に如何するべきかと問うに朝茶の子を食するが如くたやすからんと申し上げその城を攻め取り給う。豊前にては1500石を賜り城井城攻めにはその使者として敵地に一人乗り込みて諸事取りしずめしことにより長政より秘蔵の刀を賜る。朝鮮陣、豊後陣にてもすぐれて働きければ如水感じ給い賞美として清光の刀を賜る。筑前入国後は3600石若松城を守らせ、船手の頭となる。有る時若狭が如水・長政に今までの武功に対して子孫のために感状を戴きたいがと申しければ、如水長政言うには十分に武功ありて、要所の若松城を守らせている、これに過ぎたる感状はなく家中の諸士も其の武功を良く知りたり、後代にても著しかるべしと言い感状は与えざりし。如水、長政はすべて禄を厚く賜りし家臣に感状をもちたるものは無かりけり、という方針であった。元和8年若松城にて没。行年72歳であった。