黒田二十四騎を最初は黒田二十五騎と呼んで黒田藩の武将として称えたが、長政はその中でも勇猛果敢さは群を抜いていた。藩主と言うことで長政を除いた侍大将を黒田二十四騎と呼ぶようになった。長政は9歳で織田信長のもとに人質に出され、有岡城の荒木村重を説得に行った父如水がそのまま捕らえられ牢に入れられ帰ってこなかったのを信長に寝返ったと勘違いをされたとき人質の長政を殺せと信長に言われ危うく殺されるところを親友の竹中半兵衛の機転で助かった。九州征伐では宇都宮鎮房の城井谷攻めで九死に一生を得るほど壊滅的な敗戦を経験した。親として如水はいつまでたっても息子長政は頼りない存在であり筑前国52万石の大大名となっても行く末を常に心配した。如水は後方にいて采配を振るう天性の将器であり長政は実戦を積み先陣を切って働く努力型の武将であった。如水は息子長政や並み居る重臣の気性を知り抜いていたからこそそれぞれに適した役割を与え、戦国時代最強の黒田武士軍団を組織し歴史に名を残した。
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