万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

宮内庁長官「拝察」発言の問題点

2021年06月25日 15時01分55秒 | 日本政治

宮内庁長官の西村泰彦長官が、昨日6月14日の記者会見において「天皇陛下は現下の新型コロナの感染状況を大変心配されている」と発言した一件が波紋を広げています。同発言に対して、加藤勝信官房長官は、同日、「長官自身の考え方を述べられたと承知している」とする政府側の見解で応じましたが、憲法にも抵触する可能性もあるだけに、同発言は国民の関心を集めることとなったのです。そこで、本日の記事では、「拝察」発言の問題点について考えてみたいと思います。

 

 第1の問題点は、「拝察」である以上、同発言が天皇の真意であったのかどうか、誰も確認することができない点です。これは、かの’忖度問題’とも共通するのですが、官房長官の主観的な’受け止め方’や’想像力’による解釈に過ぎませんので、安易に「拝察」に従いますと、官房長官が’事実上の発言者’となる可能性も生じてきます。いわゆる’政治利用’というものが発生する余地を生みますので、加藤官房長官は、この点を批判的に指摘したのでしょう。

 

 第2の問題点は、’お気持ち’の表明ですので、この発言が誰に向けられているのか明確ではない点です。とは申しましても、政府がいち早く反応したように、おそらく、同発言は東京オリンピックの開催を強行したい政府に向けられているのでしょう。政府に対する牽制が目的となりますと、オリンピックの開催問題は政治事項ですので、天皇による’政治発言’という色合いが濃くなってきます。ここに第1条で象徴天皇を定める憲法との抵触問題が生じることとなりましょう。

 

 第3の問題点は、誰が、同発言の責任を負うのか、というものです。憲法第3条では、天皇の国事に関する全ての行為に対して責任を負うのは政府とされています。ところが、今般の発言は、加藤官房長官の反論が示すように、政府が事前に相談を受けたわけでも、承知していたわけではありませんでした。宮内庁側が独自の判断で同発言を公表したとしますと、一体、誰が、同発言に対する責任を負うのか、という問題が発生してしまうのです。仮に、同事件をきっかけに全国民に関わる何らかの事態が発生した場合、その責任の所在は曖昧にされてしまうかもしれません。

 

 さらに第4の問題点として指摘し得るのは、宮内庁が、天皇発言に何らかの政治的効果を期待していることが、判明してしまった点です。仮に、全く影響がないとすれば、敢えて宮内庁長官が「拝察」発言をすることははかったことでしょう。そして、これは、かなり危険な’賭け’であったかもしれません。政府に無視されてしまいますと、むしろ、宮内庁の無力さが浮き上がってしまうからです(逆に、政府が発言に従うと、天皇による政治介入の問題に…)。

 

 第5の問題点は、国民が、蚊帳の外に置かれている点です。おそらく、宮内庁長官としては、民意を’忖度’した天皇のお気持ちというスタイルをとりたかったのでしょう。実際に世論を見ますと、国民の多くオリンピックを機としたコロナの感染拡大に対して懸念を抱いています。世論との一致という意味においては批判的な声は少ないのでしょうが、今般の件が前例となりますと、天皇と民主主義との間に重大な齟齬が生じる可能性もありましょう。

 

 第6の問題点として挙げられるのが、同調圧力の問題です。ネットを見ましても、’天皇陛下のご発言に逆らうとは何事か’といった意見やコメントが見られます。こうした声は、やがて日本国において自由な言論空間を狭めてしまい、言論の自由を圧迫してしまうかもしれません。

 

 そして最後に指摘すべき第7の問題点は、「天皇陛下は現下の新型コロナの感染状況を大変心配されている」という言葉そのものが、何を目的として発せられているのか分からない点です。’オリンピックは中止すべき’、’無観客とすべき’、それとも、’国民はワクチンを接種すべき’という意味なのでしょうか。如何様にも解釈できますので、言葉が独り歩きして様々な立場から利用される可能性もありましょう。

 

 以上に主たる問題点を挙げてみましたが、宮内庁長官の「拝察」発言は、民主主義や自由という価値観に照らしましても、望ましいものではないように思えます。政府のオリンピック開催一辺倒の姿勢にも問題はあるのですが、宮内庁長官の発言が、日本国を全体主義体制、あるいは、権威主義体制に導くことがあってはならないと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする