斎藤喜博著の「授業研究」のなかに、次のような文章がある。
跳び箱の台上にチョークで線を引いてしまうことは、教師の持っているものを一方的に押しつけ、それを固定させることになる。ですから子どもはそこに手をつくことだけを考え、目はチョークの線だけに集まっています。
そうではなく、チョークの線など書かないでおいて、跳び箱全体を、さらに跳び箱の向こう側まで見させたほうがよい。そうでないと全体が見えないから、全体のバランスをつくることができず、美しいリズムで、ふわーっと美しくとぶことが、高学年にいってもできない。
チョークで書いた線を見るということは、そこにわくをはめられていることであり、一つの部分にしばられてしまうから、助走も踏み切りもだめになる。助走から踏み切り、踏み切りからとび込みのリズムの快感をからだに持たせることができない。とび終わったとき、ふりかえってみて、「いまいい気持ちでとべた。手はどこだったんだろう」と考えてみるような子どもにならない。
私も跳び箱の指導で台上に線を書いた。でも、それは初期の段階でどうしても跳び箱がとべない子どもの指導のときである。しかし、とべるようになればやはり助走、踏み切りとび込み、着地という全体の流れやリズムを大切にした。 私の見てきた教師のほとんどはとべれば合格で指導が終わりというものであった。全体の美しさやリズム、またはとび終えたときの快感など考えてもいないようであった。
斎藤喜博の教育の深さは、単にできるとかできないということではなく、「美しさ」を大切にしていることである。また子どもの「自立性」とか「創造性」を大切にしていることである。現在流行の「安直な教え込み教育」に一番欠けているものであろう。