三つ目に、正義としての平和とは、市民的・政治的権利だけではなく、経済的な安全と機会を含まなければならない。というのも、真の平和とは恐怖からの解放だけでなく、欠乏からの自由でもあるからだ。
開発は、安全なしには根付かないということは疑いようのない真実だ。生きるのに必要な食糧やきれいな水、医薬品や寝場所が手に入らないところに安全は存在しないのも事実だ。子どもたちがまっとうな教育や、家族を養える仕事を望めないところにも安全は存在しない。希望の欠如は、社会を内側から腐らせうる。
だからこそ、農民による食糧供給や、国家による子どもの教育、病人への医療を支援することは、ただの慈善事業ではないのだ。同様に、だからこそ、世界が一緒に気候変動に立ち向かわなければならない。もし我々が何もしないなら、この後何十年にもわたって一層の紛争の原因となるような、干ばつや飢饉、大規模な避難民の発生に直面することになるいうことには、科学的にはほとんど争いがない。科学者や運動家たちだけが迅速で力のある行動を求めているのではない。わが国や他国の軍指導者も、これに共通の安全保障がかかっていることを理解している。
国家間の合意。強い組織。人権への支持。開発への投資。これらすべてが、ケネディ大統領が言及した進化をもたらすのに不可欠な材料だ。とはいえ、さらなる何かがなければ、我々がこの仕事を成し遂げるための意志や持久力を持つとは思わない。それは、我々が倫理的な想像力の広げること。そして、我々みんなが共有し、奪い得ないものがある、ということへのこだわりだ。
世界がより小さくなるにつれ、人類はいかに似通っているかということが認識しやすくなるだろうと思うかもしれない。我々は基本的に同じものを求めていること、すなわち、自分と家族にとっての幾ばくかの幸福と満足感をもって人生を送る機会をみんなが望んでいることが理解しやすくなると思うかもしれない。
だが、めまいがするようなペースでグローバル化し、近代という文化的な平準化が進んでいることを考えると、人々が、自らが慈しむ特定のアイデンティティ――自らの人種、部族、そして一番強いであろう宗教――を失うのではないかと恐れることは驚きではない。その恐怖が紛争につながった場所もある。時には、我々は昔に逆戻りしているのでないかとさえ感じることもある。それは、中東では、アラブ人とユダヤ人の間の紛争が激化する中に見られる。部族の境界で引き裂かれている国家にも、そうしたことが見られる。
そして最も危険なことに、イスラム教という偉大な宗教をねじまげ、汚してきた者たち、アフガニスタンから私の国を攻撃した者たちによる罪のない人々の殺害の正当化に、宗教が使われるというやり方にもそれが見られる。この過激主義者たちは、神の名の下に殺人を犯した最初の者たちではない。十字軍の残虐ぶりは十分記録に残っている。だが、それらは、聖戦は正義の戦争にはなり得ないということを思い出させてくれる。というのも、もしも神聖な神の意志を実行していると本当に信じているならば、抑制の必要がないからだ。(神の意志ならば)妊婦や医者、あるいは赤十字社の職員、さらには自分と同じ信仰を持つ人に対しては危害を加えないとする必要もない。そうしたゆがんだ宗教の見方は、平和の概念と相いれないだけではなく、信仰の目的自体とも矛盾すると私は信じる。というのも、すべての主な宗教の中核にある法則は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということであるからだ。
この愛の法則に従おうとすることは、常に人間にとって本質的な闘いであった。我々は誤りに陥る。間違いを犯し、自尊心、権力、時には邪悪の誘惑に屈する。最も善意を持った人びとも、目の前の悪をただすことができないときはある。
だが、人間の性質は完全であると考えなくても、人類が置かれる環境を完全にしうると信じることはできる。世界をより良い場所にする理想を追求するために、理想化された世界に住む必要はない。ガンジーやキング牧師のような人々がとった非暴力は、いかなる状況でも現実的で可能なことだとは言えなかったかもしれない。しかし、彼らが説いた愛――人間の進化に関する彼らの根源的な確信、それこそが、常に我々を導く北極星であるべきなのだ。
なぜなら、もし我々がこの信念を失ったら――それをばかなもの、幼稚なものとして退け、戦争と平和の問題について下す決断とは無縁だとしてしまえば、その時我々は、人類にとって最善のものを失ってしまう。我々は可能性への意識を失う。我々は倫理の羅針盤を失う。
我々の先人の幾世代もがそうだったように、我々はそんな未来は拒否しなければならない。何年も前に、キング牧師がノーベル平和賞授賞式で語った。「私は歴史のあいまいさに対する最終回答として絶望を受け入れることを拒む。『いまこうあること』が人間の今の状態だから、人間の前に永遠に立ちはだかる『こうあらねばならない』というものに達することは道徳的に不可能だとする考え方は受け入れない」。こうあるべき世界を目指そうではないか。我々の魂をなお揺り動かすあの神の輝きに到達しようではないか。
今日もどこかで、武器の数で圧倒的に不利な状態にあっても平和を保つため踏みとどまっている兵士がいる。今日もこの世界のどこかで、政府の残忍さを知りながら抗議のデモ行進をする勇気を持つ若い女性がいる。今日もどこかで、貧困に打ちのめされながらも、それでも自分の子どもに教える時間を作り、なけなしの小銭をはたいて学校に行かせる母親がいる。こんな残酷な世界であっても、子どもが夢見る余地は残っていると信じているからだ。
そんな彼らを見習っていこうではないか。常に抑圧はあることを認めながらも、正義を追求することはできる。手に負えない欠乏があることを認めながらも、尊厳を追求することはできる。曇りなき目で見れば、これからも戦争があるだろうことを理解しつつ、平和を追求することはできる。
我々にはできる。なぜなら、それこそが人間の進歩の物語であるからだ。それこそが全世界の希望だ。この挑戦の時、それこそが、この地球で我々がやらなければならない仕事なのだ。
どうもありがとう。
ボバッチでオバマバッジに託して