「中央区を、子育て日本一の区へ」こども元気クリニック・病児保育室  小児科医 小坂和輝のblog

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【歌舞伎座 UP DATE 10】地下広場?取り壊し計画問題。明日4/13、都市計画審議会

2009-04-12 10:01:34 | 築地を守る、築地市場現在地再整備

 歌舞伎座の取り壊し計画が浮上し、保存すべきであるという多くの声が、中央区だけでなく、全国から届いています。

 専門の先生方にお伺いし、計画の問題点を調査中です。

 歌舞伎座取壊し計画には、同時に地下広場なる計画があります。 この地下広場が、逆に、銀座のシンボルとなっている歌舞伎座建物の保存を不可能にしてしまっています。 そして、地下広場が、地域貢献性という名のもとに、銀座ルール高さ制限56mをやぶり、ルールの3倍もの高さの“超”高層ビルを可能にする理由とされているのだと推察いたします。 悪く表現するなら、この計画の“トリック”です。

 歌舞伎座の建物と、地下広場の位置関係を示す資料がございましたので、掲載します。 写真の赤色の部分が、地下広場の計画されている位置です。 建物を保存しながら、赤色の地下広場を作るのは、難しいようです。

 そもそも地下広場は、災害時の避難者の滞在場所という名目です。 もし、地域住民のための避難広場をつくるのであれば、1階に作るべきではないでしょうか?
 災害時、地下の広場なるものは、本当に機能するのでありましょうか? 余震が続く中、人の心理として、本当に地下に避難するのだろうか??災害時、電気供給が不安定で、一旦停電するとまっくらな地下広場に、人はいたいと思うものなのだろうか??

<以下は、歌舞伎座取り壊し案に対する意見書>http://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/939e0ed94bad7f98deaab698a393e257
「東京都市計画地区計画銀座地区地区計画の変更」に対する意見書
平成21年3月4日                   
東京都中央区月島3-30-3                     
中央区議会議員                     
小児科医師(医学博士)                        
小坂和輝(42歳)

 本計画は、銀座一丁目~八丁目各地内の地区計画区域、銀座四丁目12番において開発により計画される地区広場を地区施設に位置づけるものです。 地区広場を、東銀座駅からのバリアーフリー動線の整備に役立てると共に、災害時の帰宅困難者一時避難スペースとして、地下広場で約1000人、劇場で約2000人、合計3000人を収容し、かつ約3000人分の3日分の水・トイレ等の備蓄を可能とする備蓄倉庫を備えている計画を高く評価いたします。 ただし、この地区施設を整備することに合わせ、地上29階建て、高さ約150mの超高層ビルを許容し、かつ、今や銀座のランドマークとなっている歌舞伎座を取壊してしまうという重大な問題を有した計画でもあります。 これらの問題点を明らかにする形で、以下、意見を述べさせていただきます。

一、 現在の歌舞伎座を取り壊わす案の再検討を求めることについて 現在の歌舞伎座を取壊してしまうことを合わせ持つ計画である以上、本地区計画は、認めることはできません。 保存することの価値については、日本建築学会が、2006年4月18日に、中央区長矢田美英氏、株式会社歌舞伎座代表取締役社長 大谷信義氏の両氏宛てに出した「歌舞伎座の保存に関する要望書」に詳しく述べられています。本文最後の部分に、同学会建築歴史・意匠委員会委員長 吉田鋼市氏記載の「歌舞伎座についての見解」と合わせて、添付しますので、ご参照をお願いいたします。 なお、後述する「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」(2005年12月、社団法人 日本都市計画学会)作成において、日本建築学会のメンバーも入っておりますが、同報告書の内容も踏まえて、要望書が2006年4月に出されていることも念頭においていただけますようにお願いします。

一、 現在の歌舞伎座が保存できないことを裏付ける科学的データの提出を求めることについて 現在の歌舞伎座が保存できないということの理由を、科学的データを示しながら、公けの場で説明をする機会を設けるべきです。 現に、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」(2005年12月、社団法人 日本都市計画学会)の分析によりますと、【コンクリート圧縮強度試験】では、「コンクリートの推定設計強度は保持されていると考えられる。」とあります。コンクリートの強度は大丈夫のようでございます。 また、引き続きの記載では、【コンクリート中性化調査】「一般的な建物と比較すると中性化の経年進行がやや進んでおり、一部中性化が鉄筋付近に達している部分もある。」【鋼材の発錆と被り厚さ調査】「鉄筋の全周に錆が発生し、かつ中性化が進行していることから、今後発錆の進行により構造耐力が低下する可能性が考えられる。」とあります。前者は、すなわち、コンクリート内の鉄筋を錆びないように水との接触を防ぐ手立てを講ずれば大丈夫であることを意味しますし、後者は、発錆の進行を止める処置をすれば、鉄筋の構造耐力を保持し続けることを意味し、この記載自体もなんら、保存が出来ない理由とはなりません。 保存できないというのであれば、きちんとその理由を科学的データに基づき、説明することを求めます。

一、 現在の歌舞伎座の保存を第一にした改修案作成を求めることについて よって、本地区計画を認めるためには、現在の歌舞伎座の保存を第一におき、役者の皆様にとっての舞台設備の利用しづらさの課題を解決しつつ改修する計画に向けて、再検討することを求めます。

一、 保存できないのであれば、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」の検討内容を実行することを求めることについて 現在の歌舞伎座を取り壊さざるを得ないというのであれば、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」で謳っている、第3期岡田信一郎氏デザインの復元を忠実に実行すべきであると考えます。

一、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」の意図から反するデザインを提出した理由の説明を求めることについて なぜ、上述の「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」の意図する第3期岡田信一郎氏デザインの復元に反して、縦覧資料記載 図.イメージパース(晴海通り側から)にあるデザインとしたのか、公けの場で説明をする機会を設けるべきであります。 もし、図.イメージパース(晴海通り側から)にあるデザインをもってして、第3期岡田信一郎氏デザインの復元というのであれば、どこがどのように復元といえるのか説明を求めます。岡田氏のデザインをまったく無視したデザインを出してきているとしか、考えようがございませんし、おそらく、二つのデザインを並べてみて、誰もが、同様の感を受けると思います。

一、地元及び中央区との約束を反故にした計画は、認めるわけにはいかないことについて 銀座、京橋地域の地元及び中央区は、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」の意図する第3期岡田信一郎氏デザインの復元を実現し、伝統的な佇まいを残し、江戸文化の継承を意図するものであるならばという条件で、取り壊し及び超高層ビルの建設を容認した経緯があります。 今回のデザインは、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」に反したデザインである以上、その地元との約束を反故にしたものであり、断じて認めるわけにはいきません。計画の再検討を求めます。

 以上、意見を申し述べましたが、現在の歌舞伎座の保存は、地元だけでなく、日本中の多くの方々が求めるところです。2002年国の登録有形文化財に登録されたのも、その文化的価値の高さが、万人が認めるものだからこそです。 歌舞伎座自体は、松竹の一民間企業の所有のものであり、登録有形文化財に何の効力も有しないとのご認識に立たれるのでしょうか。 歌舞伎や松竹の繁栄は、それを観て楽しむお客様あってのものです。 この度の、理由なき取り壊し、理由なき復元デザインの変更は、断じて認めるわけにはいきません。 経済性・効率性を重んじるあまり、お客様を無視することは、松竹の姿勢としては、あってはならないことです。 日本の建築学の英知を結集し、どうか歌舞伎座の保存を第一においた改修を実現して、真に日本文化・伝統の拠点となり、日本、いや世界中の皆様から愛される歌舞伎座を作っていただけますようにお願い申し上げます。 あわせまして、歌舞伎座の保存の実現に向けましては、東京都及び中央区による格段の取り計らいがなされますようにお願い申し上げます。
 引き続き、添付資料を掲載しますので、ご参照願います。

<添付資料 1>
2006 年4 月18 日

東京都中央区長 矢田美英 殿株式会社歌舞伎座代表取締役社長 大谷信義 殿                                                          社団法人 日本建築学会                                                             会 長 村上 周三

                歌舞伎座の保存に関する要望書

 拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。 日頃より、本会の活動につきましては多大なご協力を賜り、厚くお礼を申し上げます。 去る2005 年11 月17 日の各紙朝刊において、中央区銀座四丁目に建つ歌舞伎座の建替えが計画されているとの新聞発表がありました。御承知のように、この建物は木造の初代歌舞伎座(1889 年竣工)が1921 年10 月に焼失したのを受け、新たに「不燃構造で和風意匠を持つ劇場建築」として1924(大正13)年12 月に竣工した建物であり、1945 年5 月の空襲では被災したものの、1950(昭和25)年12 月には復旧と設備の増強を意図した戦災復興工事を終了し、現在まで伝統芸能である歌舞伎の殿堂として多くの市民に親しまれてきた建物です。 また、2002 年2 月には国の登録有形文化財に登録されましたように、その文化的価値の高さが既に評価されている建物でもあります。建物の設計者は、当初が当時東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授であった岡田信一郎(1883~1932)で、戦災復興工事では同じく当時東京芸術大学の教授であった吉田五十八(1894~1974)が意匠設計を担当しました。 歌舞伎座は「不燃構造の和風意匠」によって造られたため、大正時代から現在に至るまで近代化し続けてきた銀座の都市景観において、日本の伝統芸能である歌舞伎の伝統・文化を広く市民に伝えることに成功し、それゆえ銀座を代表するランドマークとして長く親しまれてきました。すなわち、歌舞伎座の建築史的価値はこの「不燃構造の和風意匠」にこそあり、別紙「見解」にて詳しく示します通り、そこには上記二人の建築家の創意が十分に発揮されています。 復興工事から55 年が経過しており、大都市の劇場建築としては時代と共に機能面において不備が生じ、耐震化の必要も懸念される事情は理解できます。しかし、わずか4 年前に国の登録有形文化財に認められたばかりの文化遺産でありますし、その伝統的な意匠の価値が今後も近代化してゆく銀座の都市景観において更に重要性を増してくるのではないかと思われます。貴下におかれましては、この貴重な建物の持つ高い文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解いただき、このかけがえのない文化遺産の価値を最大限に考慮した保存改修を行っていただけますよう、また、それが困難な場合でも上記二人の建築家のすぐれた伝統的意匠を継承した建築計画がなされますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第であります。 なお、本会はこの建物の保存に関して、できうる限り協力させていただく所存であることを申し添えます。敬具

<添付資料2>
 2006 年4 月18 日

歌舞伎座についての見解

                                                                                         社団法人 日本建築学会                                                                                         建築歴史・意匠委員会                                                                                          委員長 吉 田 鋼 市

 東京都中央区銀座四丁目12 番15 号に建つ歌舞伎座は、木造の初代歌舞伎(1889 年竣工)が漏電による出火で1921 年10 月30 日に焼失したのを受け、新たに「不燃構造で和風意匠を持つ劇場建築」として設計され、1922 年6 月2 日に起工し、途中で関東大震災による工事中断(1923 年9 月1 日~1924 年3 月15 日)を挟みながら1924(大正13)年12 月15 日に竣工した建物である。当初の建物は、当時東京美術学校(現・東京芸術大学)教授であった岡田信一郎(1883~1932)が設計を担当し、施工は株式会社大林組が請け負った。同建物はその後、1945 年5 月25 日の空襲によって被災したが1949 年12 月には復興工事に着工し、1950年12 月30 日に竣工した。この復興工事では、意匠設計をこれも当時東京芸術大学教授であった吉田五十八(1894~1974)が担当し、施工は清水建設株式会社が請け負った。この建物の最大の特徴は、不燃構造で和風意匠を用いて設計された点にある。そして現存建物の設計者としては、このような経緯から見て、岡田信一郎と吉田五十八の二人を挙げるべきと考えられる。 上記建物はこのような複雑な経緯を持つため、まずここでは当初建物の概要と戦災復興工事における改修内容を比較・検討し、岡田信一郎と吉田五十八の和風デザインが現存建物にどのような形で見られるかという点を明らかにし、その上でこの建物の建築史的価値について述べることとする。

1. 当初建物の特徴と戦災復興工事の内容

1-1. 当初建物の特徴について(出典:『建築雑誌』1925 年3 月号)竣工当時の歌舞伎座の構造形式は、鉄骨鉄筋コンクリート造の地下1 階・地上4 階建てで、小屋組を鉄骨造、屋根スラブを鉄筋コンクリート造とした不燃構造であった。床面積は、敷地面積の2,133.5 坪に対して建築面積が約1,062 坪、延床面積が約2,894 坪で、平面計画では、敷地北側を走る晴海通りに面して中央に正面玄関および玄関ホールを設け、反対側(南側)に舞台を配し、その間に客席を広く確保している。劇場内部は近代的な劇場建築としての機能を満たすように、客席は椅子式で床に傾斜を付けた形式が取られ、花道を撤去すれば現代劇や映画館としても対応できるように設計された。客席は2 階・3 階にも設けられ、4 階には天井桟敷の「一幕見席」が設けられた。近代設備としては、電気照明の他に劇場空間に蒸気暖房設備が導入された。 建物の意匠的特徴としては、特に外観意匠において不燃構造の建物を伝統的な和風意匠でまとめ上げた点が特筆される。具体的なモチーフとしては、本瓦葺きの入母屋屋根や車寄せの唐破風、壁面に見られる柱型と長押、軒裏の組物といった江戸時代以前の寺院・城郭に見られる伝統的な意匠が建物の外観に適用された。この意匠表現は特に晴海通り側のファサードにおいて歌舞伎の賑やかさ・豪華さと格式を表現するのに成功している。すなわち、中央の劇場部分に入母屋の大屋根を架けて大きな妻面を見せるとともに、正面中央に唐破風の車寄せを配することで建物の正面性をまず強調し、更に左右相称に配された両脇の階段室の壁面をやや前にせり出し、その上に架けた入母屋屋根の妻を正面に向けることで、建物のファサードに豪華さと安定感をもたらすことに成功している。加えて一階部分に庇を廻して水平感を持ち込むことで、立面のタチの高いプロポーションを和らげることにも成功している。 一方、内部空間では丸い柱型や虹梁風の梁型などの細部に和風意匠が用いられており、劇場の天井には芝居小屋に伝統的に見られる格天井が用いられた。

1-2. 戦災復興工事における改修内容(出典:歌舞伎座出版部『歌舞伎座』1951 年) 戦災復興工事の総工事費は、合計2 億5824 万3522 円であった。この復興工事では建物の復旧だけでなく、最新式の設備(舞台装置、冷暖房、音響、照明設備)の導入が図られ、設備工事に多額の予算が注ぎ込まれた。設備設計は木村武一が担当した。 建物の意匠については、設計を担当した吉田五十八がこの復興工事での改修内容として以下の点を挙げている。1) 観客席と舞台の屋根については、当初の大屋根を復原せず、陸屋根に変更した。2) 正面外観はほとんど以前のまま補修した(大屋根の破風以外)。3) 構造体は既存の躯体を補強し、その結果、当初より座席の柱が太くなり、廊下の天井が低くなった。4) 客席の天井を当初の格天井から変更し、新たに舞台から一幕見席(天井桟敷)まで通した尾州桧の「吹寄棹縁天井」として、そこに間接照明を設置した。5) 玄関ホールのインテリアを変更し、当初の白を基調としたものから濃朱の丸柱などの「日本味豊かな色彩」(吉田)へと変更し、天井を下げて間接照明とした。以上のことから、まず現存建物の外観意匠、特に軒下のファサードと正面両脇の入母屋屋根については岡田信一郎の設計が現存建物まで保存されてきたこと、吉田は客席・舞台部分の屋根を陸屋根に改修したのに伴い、正面の破風を取って両脇の入母屋屋根を棟で繋ぐように屋根を作り替え、新たに従来にはなかった軽快さを建物のファサードに加えたことなどがわかる。一方、室内意匠については、構造補強と設備の増強に伴い、吉田によって新たに設計されたものが現存建物の基本となっていると見て良い。

2. 現存建物の建築史的価値について 現存建物の建築史的価値は、以下に述べるように外観意匠については岡田信一郎の設計した和風意匠という点において、また室内意匠については吉田五十八の設計した和風意匠という点において、その重要性を指摘することができる。

2-1. 岡田信一郎の設計した不燃構造・和風意匠の最初の作品としての重要性 歌舞伎座のもつ建築史的価値としてまず第一に挙げるべきは、この建物が岡田信一郎の設計した不燃構造・和風意匠の最初の作品であり、その主たる表現である外観の和風意匠が復興工事おいて吉田五十八によって保存され、現存建物まで継承されてきたという点である。 岡田信一郎は、明治生命館(1934)などの優れた古典主義建築を設計するとともに、一方では1924 年から1934 年にかけて鎌倉国宝館(1927)や虎屋(1932)など、不燃構造で和風意匠の建物を複数設計した。不燃構造で和風意匠の建物を設計することは、大正時代の日本の建築家にとって新しいテーマの一つであり、岡田もそのテーマに取り組んだ一人であったが、歌舞伎座はその最初の作品であり、岡田の伝統観や「和風」に対する考え方を知る上で極めて重要な建物といえる。岡田は歌舞伎座での和風意匠の用い方について、「奈良時代の典雅壮麗な趣と桃山時代の豪宕妍爛な味とを一処に」し、また「各デテールは各時代の長所を採り入れて、一つの時代様式に拘泥しない」ことを述べており、複数の様式を折衷して全体をまとめ上げることを意図していたと考えられる。具体的には、破風や虹梁のデザインにおいて豪壮な桃山時代を意識したと見られ、一方では庇やテラス部分には鎌倉時代以降に用いられた挿肘木のデザインを用いており、そうした点などに岡田の設計意図を窺うことができる。

2-2. 吉田五十八の和風意匠をインテリアに適用した劇場建築としての重要性 一方、現存建物の室内意匠にはもう一人の設計者である吉田五十八が得意とした和風意匠の扱い方を見ることができる。特に客席の吹寄棹縁天井については、同時に間接照明を仕込んでデザインした点が注目され、これは吉田が「新興数寄屋」と称して独自に創出した和風のデザイン手法を劇場空間に応用したものと見ることができる。また、吉田の伝統理解は壁仕上げや塗装などの内装にも反映していると考えられ、吉田は玄関ホールについて「色彩は日本味豊かな古代色を基調と致し」(吉田)て濃朱の柱を用いたと述べ、また劇場の壁面については「日本的文様」(吉田)を用いたと述べている。 なお、吉田は劇場部分と舞台部分の大屋根を陸屋根に替えたことについて、「近代感覚と藤原桃山時代の優雅な味とを持たしたつもり」と述べているが、陸屋根を用いて和風を軽快に表現するのは吉田の得意とする手法であり、日本芸術院会館(1958)や五島美術館(1960)などがその事例として良く知られている。

コメント
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地下広場???歌舞伎座取り壊し計画問題。明日4/13、都市計画審議会

2009-04-12 10:01:34 | 築地を守る、築地市場現在地再整備

 歌舞伎座の取り壊し計画が浮上し、保存すべきであるという多くの声が、中央区だけでなく、全国から届いています。

 専門の先生方にお伺いし、計画の問題点を調査中です。

 歌舞伎座取壊し計画には、同時に地下広場なる計画があります。 この地下広場が、逆に、銀座のシンボルとなっている歌舞伎座建物の保存を不可能にしてしまっています。 そして、地下広場が、地域貢献性という名のもとに、銀座ルール高さ制限56mをやぶり、ルールの3倍もの高さの“超”高層ビルを可能にする理由とされているのだと推察いたします。 悪く表現するなら、この計画の“トリック”です。

 歌舞伎座の建物と、地下広場の位置関係を示す資料がございましたので、掲載します。 写真の赤色の部分が、地下広場の計画されている位置です。 建物を保存しながら、赤色の地下広場を作るのは、難しいようです。

 そもそも地下広場は、災害時の避難者の滞在場所という名目です。 もし、地域住民のための避難広場をつくるのであれば、1階に作るべきではないでしょうか?
 災害時、地下の広場なるものは、本当に機能するのでありましょうか? 余震が続く中、人の心理として、本当に地下に避難するのだろうか??災害時、電気供給が不安定で、一旦停電するとまっくらな地下広場に、人はいたいと思うものなのだろうか??

<以下は、歌舞伎座取り壊し案に対する意見書>http://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/939e0ed94bad7f98deaab698a393e257
「東京都市計画地区計画銀座地区地区計画の変更」に対する意見書
平成21年3月4日                   
東京都中央区月島3-30-3                     
中央区議会議員                     
小児科医師(医学博士)                        
小坂和輝(42歳)

 本計画は、銀座一丁目~八丁目各地内の地区計画区域、銀座四丁目12番において開発により計画される地区広場を地区施設に位置づけるものです。 地区広場を、東銀座駅からのバリアーフリー動線の整備に役立てると共に、災害時の帰宅困難者一時避難スペースとして、地下広場で約1000人、劇場で約2000人、合計3000人を収容し、かつ約3000人分の3日分の水・トイレ等の備蓄を可能とする備蓄倉庫を備えている計画を高く評価いたします。 ただし、この地区施設を整備することに合わせ、地上29階建て、高さ約150mの超高層ビルを許容し、かつ、今や銀座のランドマークとなっている歌舞伎座を取壊してしまうという重大な問題を有した計画でもあります。 これらの問題点を明らかにする形で、以下、意見を述べさせていただきます。

一、 現在の歌舞伎座を取り壊わす案の再検討を求めることについて 現在の歌舞伎座を取壊してしまうことを合わせ持つ計画である以上、本地区計画は、認めることはできません。 保存することの価値については、日本建築学会が、2006年4月18日に、中央区長矢田美英氏、株式会社歌舞伎座代表取締役社長 大谷信義氏の両氏宛てに出した「歌舞伎座の保存に関する要望書」に詳しく述べられています。本文最後の部分に、同学会建築歴史・意匠委員会委員長 吉田鋼市氏記載の「歌舞伎座についての見解」と合わせて、添付しますので、ご参照をお願いいたします。 なお、後述する「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」(2005年12月、社団法人 日本都市計画学会)作成において、日本建築学会のメンバーも入っておりますが、同報告書の内容も踏まえて、要望書が2006年4月に出されていることも念頭においていただけますようにお願いします。

一、 現在の歌舞伎座が保存できないことを裏付ける科学的データの提出を求めることについて 現在の歌舞伎座が保存できないということの理由を、科学的データを示しながら、公けの場で説明をする機会を設けるべきです。 現に、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」(2005年12月、社団法人 日本都市計画学会)の分析によりますと、【コンクリート圧縮強度試験】では、「コンクリートの推定設計強度は保持されていると考えられる。」とあります。コンクリートの強度は大丈夫のようでございます。 また、引き続きの記載では、【コンクリート中性化調査】「一般的な建物と比較すると中性化の経年進行がやや進んでおり、一部中性化が鉄筋付近に達している部分もある。」【鋼材の発錆と被り厚さ調査】「鉄筋の全周に錆が発生し、かつ中性化が進行していることから、今後発錆の進行により構造耐力が低下する可能性が考えられる。」とあります。前者は、すなわち、コンクリート内の鉄筋を錆びないように水との接触を防ぐ手立てを講ずれば大丈夫であることを意味しますし、後者は、発錆の進行を止める処置をすれば、鉄筋の構造耐力を保持し続けることを意味し、この記載自体もなんら、保存が出来ない理由とはなりません。 保存できないというのであれば、きちんとその理由を科学的データに基づき、説明することを求めます。

一、 現在の歌舞伎座の保存を第一にした改修案作成を求めることについて よって、本地区計画を認めるためには、現在の歌舞伎座の保存を第一におき、役者の皆様にとっての舞台設備の利用しづらさの課題を解決しつつ改修する計画に向けて、再検討することを求めます。

一、 保存できないのであれば、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」の検討内容を実行することを求めることについて 現在の歌舞伎座を取り壊さざるを得ないというのであれば、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」で謳っている、第3期岡田信一郎氏デザインの復元を忠実に実行すべきであると考えます。

一、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」の意図から反するデザインを提出した理由の説明を求めることについて なぜ、上述の「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」の意図する第3期岡田信一郎氏デザインの復元に反して、縦覧資料記載 図.イメージパース(晴海通り側から)にあるデザインとしたのか、公けの場で説明をする機会を設けるべきであります。 もし、図.イメージパース(晴海通り側から)にあるデザインをもってして、第3期岡田信一郎氏デザインの復元というのであれば、どこがどのように復元といえるのか説明を求めます。岡田氏のデザインをまったく無視したデザインを出してきているとしか、考えようがございませんし、おそらく、二つのデザインを並べてみて、誰もが、同様の感を受けると思います。

一、地元及び中央区との約束を反故にした計画は、認めるわけにはいかないことについて 銀座、京橋地域の地元及び中央区は、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」の意図する第3期岡田信一郎氏デザインの復元を実現し、伝統的な佇まいを残し、江戸文化の継承を意図するものであるならばという条件で、取り壊し及び超高層ビルの建設を容認した経緯があります。 今回のデザインは、「歌舞伎座再生検討委員会 報告書」に反したデザインである以上、その地元との約束を反故にしたものであり、断じて認めるわけにはいきません。計画の再検討を求めます。

 以上、意見を申し述べましたが、現在の歌舞伎座の保存は、地元だけでなく、日本中の多くの方々が求めるところです。2002年国の登録有形文化財に登録されたのも、その文化的価値の高さが、万人が認めるものだからこそです。 歌舞伎座自体は、松竹の一民間企業の所有のものであり、登録有形文化財に何の効力も有しないとのご認識に立たれるのでしょうか。 歌舞伎や松竹の繁栄は、それを観て楽しむお客様あってのものです。 この度の、理由なき取り壊し、理由なき復元デザインの変更は、断じて認めるわけにはいきません。 経済性・効率性を重んじるあまり、お客様を無視することは、松竹の姿勢としては、あってはならないことです。 日本の建築学の英知を結集し、どうか歌舞伎座の保存を第一においた改修を実現して、真に日本文化・伝統の拠点となり、日本、いや世界中の皆様から愛される歌舞伎座を作っていただけますようにお願い申し上げます。 あわせまして、歌舞伎座の保存の実現に向けましては、東京都及び中央区による格段の取り計らいがなされますようにお願い申し上げます。
 引き続き、添付資料を掲載しますので、ご参照願います。

<添付資料 1>
2006 年4 月18 日

東京都中央区長 矢田美英 殿株式会社歌舞伎座代表取締役社長 大谷信義 殿                                                          社団法人 日本建築学会                                                             会 長 村上 周三

                歌舞伎座の保存に関する要望書

 拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。 日頃より、本会の活動につきましては多大なご協力を賜り、厚くお礼を申し上げます。 去る2005 年11 月17 日の各紙朝刊において、中央区銀座四丁目に建つ歌舞伎座の建替えが計画されているとの新聞発表がありました。御承知のように、この建物は木造の初代歌舞伎座(1889 年竣工)が1921 年10 月に焼失したのを受け、新たに「不燃構造で和風意匠を持つ劇場建築」として1924(大正13)年12 月に竣工した建物であり、1945 年5 月の空襲では被災したものの、1950(昭和25)年12 月には復旧と設備の増強を意図した戦災復興工事を終了し、現在まで伝統芸能である歌舞伎の殿堂として多くの市民に親しまれてきた建物です。 また、2002 年2 月には国の登録有形文化財に登録されましたように、その文化的価値の高さが既に評価されている建物でもあります。建物の設計者は、当初が当時東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授であった岡田信一郎(1883~1932)で、戦災復興工事では同じく当時東京芸術大学の教授であった吉田五十八(1894~1974)が意匠設計を担当しました。 歌舞伎座は「不燃構造の和風意匠」によって造られたため、大正時代から現在に至るまで近代化し続けてきた銀座の都市景観において、日本の伝統芸能である歌舞伎の伝統・文化を広く市民に伝えることに成功し、それゆえ銀座を代表するランドマークとして長く親しまれてきました。すなわち、歌舞伎座の建築史的価値はこの「不燃構造の和風意匠」にこそあり、別紙「見解」にて詳しく示します通り、そこには上記二人の建築家の創意が十分に発揮されています。 復興工事から55 年が経過しており、大都市の劇場建築としては時代と共に機能面において不備が生じ、耐震化の必要も懸念される事情は理解できます。しかし、わずか4 年前に国の登録有形文化財に認められたばかりの文化遺産でありますし、その伝統的な意匠の価値が今後も近代化してゆく銀座の都市景観において更に重要性を増してくるのではないかと思われます。貴下におかれましては、この貴重な建物の持つ高い文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解いただき、このかけがえのない文化遺産の価値を最大限に考慮した保存改修を行っていただけますよう、また、それが困難な場合でも上記二人の建築家のすぐれた伝統的意匠を継承した建築計画がなされますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第であります。 なお、本会はこの建物の保存に関して、できうる限り協力させていただく所存であることを申し添えます。敬具

<添付資料2>
 2006 年4 月18 日

歌舞伎座についての見解

                                                                                         社団法人 日本建築学会                                                                                         建築歴史・意匠委員会                                                                                          委員長 吉 田 鋼 市

 東京都中央区銀座四丁目12 番15 号に建つ歌舞伎座は、木造の初代歌舞伎(1889 年竣工)が漏電による出火で1921 年10 月30 日に焼失したのを受け、新たに「不燃構造で和風意匠を持つ劇場建築」として設計され、1922 年6 月2 日に起工し、途中で関東大震災による工事中断(1923 年9 月1 日~1924 年3 月15 日)を挟みながら1924(大正13)年12 月15 日に竣工した建物である。当初の建物は、当時東京美術学校(現・東京芸術大学)教授であった岡田信一郎(1883~1932)が設計を担当し、施工は株式会社大林組が請け負った。同建物はその後、1945 年5 月25 日の空襲によって被災したが1949 年12 月には復興工事に着工し、1950年12 月30 日に竣工した。この復興工事では、意匠設計をこれも当時東京芸術大学教授であった吉田五十八(1894~1974)が担当し、施工は清水建設株式会社が請け負った。この建物の最大の特徴は、不燃構造で和風意匠を用いて設計された点にある。そして現存建物の設計者としては、このような経緯から見て、岡田信一郎と吉田五十八の二人を挙げるべきと考えられる。 上記建物はこのような複雑な経緯を持つため、まずここでは当初建物の概要と戦災復興工事における改修内容を比較・検討し、岡田信一郎と吉田五十八の和風デザインが現存建物にどのような形で見られるかという点を明らかにし、その上でこの建物の建築史的価値について述べることとする。

1. 当初建物の特徴と戦災復興工事の内容

1-1. 当初建物の特徴について(出典:『建築雑誌』1925 年3 月号)竣工当時の歌舞伎座の構造形式は、鉄骨鉄筋コンクリート造の地下1 階・地上4 階建てで、小屋組を鉄骨造、屋根スラブを鉄筋コンクリート造とした不燃構造であった。床面積は、敷地面積の2,133.5 坪に対して建築面積が約1,062 坪、延床面積が約2,894 坪で、平面計画では、敷地北側を走る晴海通りに面して中央に正面玄関および玄関ホールを設け、反対側(南側)に舞台を配し、その間に客席を広く確保している。劇場内部は近代的な劇場建築としての機能を満たすように、客席は椅子式で床に傾斜を付けた形式が取られ、花道を撤去すれば現代劇や映画館としても対応できるように設計された。客席は2 階・3 階にも設けられ、4 階には天井桟敷の「一幕見席」が設けられた。近代設備としては、電気照明の他に劇場空間に蒸気暖房設備が導入された。 建物の意匠的特徴としては、特に外観意匠において不燃構造の建物を伝統的な和風意匠でまとめ上げた点が特筆される。具体的なモチーフとしては、本瓦葺きの入母屋屋根や車寄せの唐破風、壁面に見られる柱型と長押、軒裏の組物といった江戸時代以前の寺院・城郭に見られる伝統的な意匠が建物の外観に適用された。この意匠表現は特に晴海通り側のファサードにおいて歌舞伎の賑やかさ・豪華さと格式を表現するのに成功している。すなわち、中央の劇場部分に入母屋の大屋根を架けて大きな妻面を見せるとともに、正面中央に唐破風の車寄せを配することで建物の正面性をまず強調し、更に左右相称に配された両脇の階段室の壁面をやや前にせり出し、その上に架けた入母屋屋根の妻を正面に向けることで、建物のファサードに豪華さと安定感をもたらすことに成功している。加えて一階部分に庇を廻して水平感を持ち込むことで、立面のタチの高いプロポーションを和らげることにも成功している。 一方、内部空間では丸い柱型や虹梁風の梁型などの細部に和風意匠が用いられており、劇場の天井には芝居小屋に伝統的に見られる格天井が用いられた。

1-2. 戦災復興工事における改修内容(出典:歌舞伎座出版部『歌舞伎座』1951 年) 戦災復興工事の総工事費は、合計2 億5824 万3522 円であった。この復興工事では建物の復旧だけでなく、最新式の設備(舞台装置、冷暖房、音響、照明設備)の導入が図られ、設備工事に多額の予算が注ぎ込まれた。設備設計は木村武一が担当した。 建物の意匠については、設計を担当した吉田五十八がこの復興工事での改修内容として以下の点を挙げている。1) 観客席と舞台の屋根については、当初の大屋根を復原せず、陸屋根に変更した。2) 正面外観はほとんど以前のまま補修した(大屋根の破風以外)。3) 構造体は既存の躯体を補強し、その結果、当初より座席の柱が太くなり、廊下の天井が低くなった。4) 客席の天井を当初の格天井から変更し、新たに舞台から一幕見席(天井桟敷)まで通した尾州桧の「吹寄棹縁天井」として、そこに間接照明を設置した。5) 玄関ホールのインテリアを変更し、当初の白を基調としたものから濃朱の丸柱などの「日本味豊かな色彩」(吉田)へと変更し、天井を下げて間接照明とした。以上のことから、まず現存建物の外観意匠、特に軒下のファサードと正面両脇の入母屋屋根については岡田信一郎の設計が現存建物まで保存されてきたこと、吉田は客席・舞台部分の屋根を陸屋根に改修したのに伴い、正面の破風を取って両脇の入母屋屋根を棟で繋ぐように屋根を作り替え、新たに従来にはなかった軽快さを建物のファサードに加えたことなどがわかる。一方、室内意匠については、構造補強と設備の増強に伴い、吉田によって新たに設計されたものが現存建物の基本となっていると見て良い。

2. 現存建物の建築史的価値について 現存建物の建築史的価値は、以下に述べるように外観意匠については岡田信一郎の設計した和風意匠という点において、また室内意匠については吉田五十八の設計した和風意匠という点において、その重要性を指摘することができる。

2-1. 岡田信一郎の設計した不燃構造・和風意匠の最初の作品としての重要性 歌舞伎座のもつ建築史的価値としてまず第一に挙げるべきは、この建物が岡田信一郎の設計した不燃構造・和風意匠の最初の作品であり、その主たる表現である外観の和風意匠が復興工事おいて吉田五十八によって保存され、現存建物まで継承されてきたという点である。 岡田信一郎は、明治生命館(1934)などの優れた古典主義建築を設計するとともに、一方では1924 年から1934 年にかけて鎌倉国宝館(1927)や虎屋(1932)など、不燃構造で和風意匠の建物を複数設計した。不燃構造で和風意匠の建物を設計することは、大正時代の日本の建築家にとって新しいテーマの一つであり、岡田もそのテーマに取り組んだ一人であったが、歌舞伎座はその最初の作品であり、岡田の伝統観や「和風」に対する考え方を知る上で極めて重要な建物といえる。岡田は歌舞伎座での和風意匠の用い方について、「奈良時代の典雅壮麗な趣と桃山時代の豪宕妍爛な味とを一処に」し、また「各デテールは各時代の長所を採り入れて、一つの時代様式に拘泥しない」ことを述べており、複数の様式を折衷して全体をまとめ上げることを意図していたと考えられる。具体的には、破風や虹梁のデザインにおいて豪壮な桃山時代を意識したと見られ、一方では庇やテラス部分には鎌倉時代以降に用いられた挿肘木のデザインを用いており、そうした点などに岡田の設計意図を窺うことができる。

2-2. 吉田五十八の和風意匠をインテリアに適用した劇場建築としての重要性 一方、現存建物の室内意匠にはもう一人の設計者である吉田五十八が得意とした和風意匠の扱い方を見ることができる。特に客席の吹寄棹縁天井については、同時に間接照明を仕込んでデザインした点が注目され、これは吉田が「新興数寄屋」と称して独自に創出した和風のデザイン手法を劇場空間に応用したものと見ることができる。また、吉田の伝統理解は壁仕上げや塗装などの内装にも反映していると考えられ、吉田は玄関ホールについて「色彩は日本味豊かな古代色を基調と致し」(吉田)て濃朱の柱を用いたと述べ、また劇場の壁面については「日本的文様」(吉田)を用いたと述べている。 なお、吉田は劇場部分と舞台部分の大屋根を陸屋根に替えたことについて、「近代感覚と藤原桃山時代の優雅な味とを持たしたつもり」と述べているが、陸屋根を用いて和風を軽快に表現するのは吉田の得意とする手法であり、日本芸術院会館(1958)や五島美術館(1960)などがその事例として良く知られている。

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がんばれ、東京青年会議所 60周年事業

2009-04-12 05:25:43 | NPO・地域力
 隅田川の桜も、葉桜になりかけております。
 そこで、恒例の東京青年会議所、中央区支部の仲間が花見をするとのことで、私も、4/14の企画の準備の合間をぬって、ほんの少しだけ顔を出させていただきました。
 青年会議所の愛称は、JCとも言います。

 私も、東京青年会議所に、そんなに活動できたわけではなかったのですが、属しておりました。40歳で卒業をすることになっている組織なので、今は、卒業生です。
 地域に根ざした活動をしている地域力の源の一つの組織であり、中央区では、5月の「わんぱく相撲」、8月の「わんぱくKIDS」の企画をし、地域の小学生やボランティア中学生ら、多くの子ども達が参加しています。卒業した今も、私は、医療班として、毎年、協力させていただいています。
 そうそう、「新しい築地をつくる会」の前身の「築地市場を断固反対する会」に構成メンバーの一員として、東京青年会議所中央区支部の長が加わっていました。

 昨日、メンバーの一人が、60周年事業の副委員長をするということを話していました。(ちなみに委員長も中央区支部のメンバーでした。)そのメンバーからは、事業に関しては、一言だけうかがったわけですが、その一言は、「動員数を多くしたい」とのことでした。その一言だけしか聞いていませんが、その目標たるや、桁外れなものでした。
 是非、達成してほしいと思います。
 応援しています。ご協力できることがあれば、なんでもご協力させていただきます。そんだけ人が集まれば、医療班も必要かもしれません。よんでいただければ、AEDをひっさげて、いつでも行きます。
 どうか頑張ってください。

 JCは、ひとことでいうと、“熱い”連中の集まりです。“あつくるしい”というぐらい“熱い”です。その“熱い”思いを分けていただいたお花見でした。
 
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スライドプロジェクターの知識

2009-04-12 05:18:35 | コミュニケーション
 スライドプロジェクターを探しに行きました。
 店の方に、教えていただいたのですが、結構、参考になったことを、メモとして書いておきます。

 プロジェクターの命は、その出せる明るさ(ルーメン)です。

 その判断ですが、映したいインチ×定数30=スライドプロジェクターのルーメン。

 例えば、100インチのスクリーン(だいたい畳が二畳分、私の主観で述べていますので、正確ではありません。)では、3000ルーメン(=100インチ×定数30)のスライドプロジェクターがよいそうです。

 メモ書きまでに。
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