当院は、聖路加国際病院の地域臨床研修の先生を受け入れています。
平成28年度5人目の先生、堀越先生。
本日無事、一週間の研修を終えられました。
課題本:『お母さんに伝えたい子どもの病気 ホームケアガイド』『医事法判例百選』『医療的ケア研修テキスト―重症児者の教育・福祉・社会的生活の援助のために』
診療及び病児保育、園医活動同行の他、自由参加の課外研修として、中央区議会の子ども子育て・高齢者対策特別委員会/防災等安全対策特別委員会/東京オリンピック・パラリンピック対策特別委員会それぞれを傍聴、中央区観光情報センタ―視察、東京地方裁判所平成24年(行ウ)第345号住民訴訟事件傍聴、中央区第三回自立支援協議会傍聴。
たいへんお疲れ様でございました。いつも感じるところですが、あっという間の一週間でした。
将来、子ども達の重大な病気に対する外科医を志望されていることを話されていました。
研修期間中も、受診された子ども達とすぐに診察室内で打ち解けられるなど、子ども達に対する優しさをお持ちであり、子ども達と係る医療がすごくお似合いだと私も感じました。
ご活躍を心から期待をしています!
地域臨床研修でお互い一番楽しみにしていることは、もちろん ↓
(日頃は、プロ野球のことは書かないのですが、今回は、どうかお許し下さい。)
2016年は、奇跡の年といえそうです。
中学高校時代の悪友、写真家中筋純。
チェルノブイリ、フクシマの写真展を日本巡回⇒世界巡回中。
心から、応援したい。
今、函館といいます。
北海道の皆様、ぜひ、ご覧ください。
聖路加国際病院からクリニックに受け入れている臨床研修医師、本年28年度は、7人来られる予定。
一人目の後藤先生の研修が、今、終わりました。
小児科外来の現場のこと(+αを含め)を精一杯お伝えしていったつもりですが、私自身もまた、たいへん勉強になった一週間となりました。
厚労省主導でこの臨床研修制度が開始して以来、ずっと聖路加国際病院から研修医師を受け入れていますが、来られた先生全員、それぞれにものすごくユニークな個性を持ちつつ優秀な先生ばかりでした。
今回の後藤先生もまた!
これから来られる6人の先生方も、楽しみにお待ちしています。
かかりつけの皆様には、どうか、医師を育成していく中で専門の科だけでなく幅広く知識を吸収するために役立てる本制度趣旨をご理解いただき、診察の際には、臨床研修医師が陪席させていただきますことをご了承願います。
写真は、最後の診療が終わって、後藤先生との一枚。
その法律を学ぶことは、とてもとても大切なことだと考えます。
ロースクール(法科大学院)の入学生が減少していると報道されていますが、学びなおしの場のひとつとして、社会人のかたこそ、学ばれることをお勧めします。
例えば、霞が関に近いところ(神谷町駅徒歩30秒)にある桐蔭横浜法科大学院も夜間に社会人クラスが開講されていて、実際に学んだ者として、お勧め致します。
学んだ法律を、私の場合は、子ども達の健やかな育ちのために、すなわち、直接的には、日々の小児医療現場で、間接的には、議会、中央区政のおける子育て支援施策の充実に生かして行こうとしているところです。
ロースクールを出ることで、自動的に法務博士号の資格は得られたとしても、さらにいうのであれば、法律の知識をきちんともっていること、法的思考ができるということのひとつの基準は、司法試験に合格することにあると考え、私は、その合格を目指すひとりです。
そして、この度、人生二度目の、司法試験を受験。
4日間の日程を終えると、もうへとへとでした。
やり終えて、思うことは、そして、昨年も思ったことですが、かつての新司法試験をやりきった方々への、その結果の合否に関わらず、尊敬の念です。
かつての新司法試験では、短答択一試験が、今の憲法、民法、刑法の三科目に、さらに行政法、会社法、民事訴訟法、刑事訴訟法が加わっていた計7科目だったというから、たいへんだったと思います。
また、ロースクール卒業後、5年以内に3回のチャンスで、合格しなければ受験資格を失うという(パターナリズムからきたのかどうかはともかく)、受験資格の余計な制限の中、やられてこられたということです。
自分なら、これ以上のことは耐えられない…
自分にとって、来年は、3回目の受験となり、これで合格しなければ、受験資格を失う相当なプレッシャーで戦わなければならないことになり、そのプレッシャーに打ち勝つことができるかどうか想像できません。
二度の試験を経験し、受験に臨むに際し大切なことは、三つあると思っています。
〇決して、逃げない。
どんなに準備ができていなくても、本番に臨み受験をすること。
本番準備にあたり自分もやりたいと思っていたことをほとんどできずに、今回の受験に臨みましたが、逃げなくてよかったと思っています。
加えて、試験途中で、たとえ、一科目大いに沈んでも、あきらめずにやりきる。
はずかしながら、今回自分も、沈む経験をしました。
〇平常心を失わない。
気負うことなく、いつもの感じでいくことが、一番実力が出せると思います。
気負うと、思考が硬直してしまうのではないかと危惧します。気負うことが、過度な緊張へとつながり、問題文さえ頭に入ってこなくなります。
〇しがみつく。
一点でももぎとる姿勢で臨む。
結果は、まだ先ですが、結果をまつことなく、一年後・365日後に備え、勉強再開致します。
今回共に受験された皆様が、全員無事合格されることを祈っています。
お互い、がんばりましょう。
司法試験実施に当たり、私たち受験生にお付き合いくださいました試験監督員ら関係者の皆様もお疲れ様でございました。お付き合いありがとうございました。
自分が母校智弁和歌山を卒業した頃、その昔は、智弁といえば、奈良智弁でした。
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智弁学園決勝進出 エース・村上“和歌山じゃない方”とは言わせない
デイリースポーツ 3月30日(水)15時6分配信
智弁学園(奈良)がサヨナラ勝ちし、春夏通じて初の決勝進出を決めた。1点ビハインドの九回1死走者なしから、7番・大橋の一打をきっかけに1番・納のサヨナラ2点打まで怒とうの4連打で逆転した。
三回に左翼手の失策で1点を献上。打線が好機をものにできない中で粘りの投球を見せたエース村上頌樹(3年)は、1回戦から4試合連続完投となった。この日の自責点は0で、今大会4試合で自責点1に抑えている。それでも、背番号1は「今日は全部球が高く、逃げてしまった部分もある」と反省。「(決勝は)強気でいく」と誓った。
智弁学園は過去2度、準決勝で敗れてきたが、兄弟校の智弁和歌山は春夏通算3度の優勝を誇る。「智弁と言えば和歌山と思われているが、智弁と言うと奈良と言われるようになりたい」と村上。
同校の井元康勝部長も「選手も指導者も、智弁と言うと和歌山とよく間違えられる。まだ同じところに行っていないけど、奈良も4強の壁は破れた」と笑顔で語っていた。
本日です。
中学高校の同級生であった写真家中筋純氏の銀座写真展にあわせ、同氏の講演会を19時~21時 みんなの子育て広場 「あすなろの木」(中央区月島3-30-4、℡03-5547-1191)で行います。
入場無料、中筋氏の全国巡回のためのカンパ大歓迎!
本日、東京新聞でも、その写真展の記事がたまたま掲載されていました。
*********以下は、中筋氏のページから転載***********************
<The Street View. Chernobyl to Fukushima>
2016年、1発目の展示! 銀座ニコンサロンにて開催いたします。
チェルノブイリと福島の街光景を4メートル級のパノラマ合成写真でお見せいたします。来年はチェルノブイリ事故30年、福島事故5年の年。5年前の震災直後、新宿ニコンサロンで余震で揺れる中、チェルノブイリの写真を展示したのを思い出します。当展示は福島県浪江町ご出身の歌人・三原由起子さんが詠んだ短歌に着想を得ました。
沈黙する風景は驚くほど饒舌であり教示的でもあります。
銀ブラがてら是非お越しくださいませ!
■日時/2016年2月3日〜2月16日(6、7休館)
10:30〜18:30(最終日は15:00)
■場所/銀座ニコンサロン(東京都中央区銀座7-10-1 ニコンプラザ内)
本日、たいへん気づきの多いご講演を聴講させていただきました。
最も気づかされたこと、人生は、誰にとっても等しく「1」であるということ。
それを、いくつで割るかというだけ。
42の人生なら、42等分したということ。
52の人生なら、52等分したということ。
82の人生なら、82等分。
「1」が積み重なって行くわけではない。
悲しい永遠の別れがある中で、少し、気持ちが楽になった気がしました。
教えて下さったのは、院内学級を精力的に取り組まれておられる副島賢和(そえじま・まさかず)先生
中央区においても、教育委員会委員などで多大な貢献をなさっおられた竹田圭吾氏の訃報に接し、たいへん心を悼めているひとりです。
朝、休日対応での診療を始める前に、パソコンの情報(下記)から知りました。
竹田氏は、がん闘病中の昨月12月開催の会においてさえ教育委員会にご出席され、中央区教育行政に対し、大事なご指摘をいくつもいつものようになされていました。
以下は、教育委員会定例会 議事録のページのアドレスです。
http://www.city.chuo.lg.jp/kosodate/kyouikuiinkai/iinkainosikumi/iinkainokatudo/index.html
12月の議事録はまだ掲載をされていませんが、12月においても貴重なご発言をいただいております。(きっと、今週の1月の定例会も出席のご予定をされていたと想像致します。)
たとえ命が削られても、教育委員会の委員としての責任を全うし、中央区の子ども達のために、ご発言をなさっておられます。
竹田氏は、「教育の中央区」スローガンだけに終わらずにその実質がそなわるよう、たいへんご尽力下さいました。そのご遺志を、私たち区議をはじめ教育施策に携わる者達は、必ずや引き継いでいかねばならないと感じ入るところです。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。
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http://www.nishinippon.co.jp/nlp/showbiz_news/article/217608
ジャーナリスト竹田圭吾さん死去 情報番組コメンテーター
2016年01月10日21時04分 (更新 01月10日 21時25分)
情報番組のコメンテーターとして知られたジャーナリストで編集者の竹田圭吾(たけだ・けいご)さんが10日午後2時ごろ、膵臓がんのため東京都内の病院で死去した。51歳。東京都出身。
スポーツ雑誌を経て、1993年から週刊誌「ニューズウィーク日本版」編集部に移り、2001年から10年まで編集長を務めた。国際情勢や社会問題に詳しく、フジテレビ系の情報番組「とくダネ!」や「Mr.サンデー」にコメンテーターとして出演していた。
昨年秋「Mr.サンデー」に出演中にがんで闘病中であることを告白。今月4日に放送されたFMラジオ局の番組では、11日で降板すると語っていた。
智辯学園和歌山中学・高等学校 第2期生 恒例の夏の集まりが、平成27年8月16日あった。
ちょうど、卒業から30年。
中等部は、中学高校と6年間、二クラスしかなかったので、学年全員が仲がよかった。
30年ぶりにあう仲間も来られていた。
一人ひとりのあいさつでは、みな、明るいことを話していたが、個別に一次会、二次会で話すと、各自、驚くほどの苦労をしていることがわかる。
気がかりだったのは、担任であった先生方、多くのかたが、退職されていらっしゃいますが、幾人かの恩師が、老後こそ安泰を願うところ、とてもとてもご苦労されているお話をお伺いしたこと。
人生のありかたを、とても親身になって聞いて下さったある先生は、巻き添え事故で加害者側になってしまった話など、聞くに堪えなかったです。
どうか、恩師の先生方に、いつか、再会し、あのころのお礼をお伝えしたいです。
今、自分がこうしてあるのも、かの学び舎の先生方そして同級生のおかげです。同級生は、今でも、人生のライバルであり、よき相談相手です。(もちろん、幸いにして、それ以後も、大学や病院、地域などで高校の時に負けないぐらいのすばらしい友との出会いは続いているところです。)
医学部に自分が再受験したことも、すばらしい顧問弁護士に、そして、顧問会計士に出会えたことも、末期肺がんの父が希望する在宅医療を全うしえたことも含め、あらゆることがらの多くが彼らのおかげです。
気楽にこれからも集まりの機会を持てればよいと思います。
怒られたことは、大いにあります。
甲子園に智辯和歌山ありと、全国に名を轟かせて下さった名将高嶋仁監督が御勇退とのことです。
奈良智辯の姉妹校として、智辯和歌山が出来ました。
私は、中等部の2期生として通ったのですが、当初、野球部はコールド負けの智辯で、悔しい思いをしていました。
コールド負けであっても、フェンスにぶち当たってでも捕球するというファイトだけは、どこにも負けない野球を当初からしていました。
だからこそ、当初から応援のし甲斐がありました。
それが、奈良智辯から高嶋監督が移ってこられてから、まったく変わりました。
応援団として、三年間、高嶋野球を、紀三井寺球場で応援させていただきました。
当時、和歌山には、箕島高校があり、その壁は厚かったのですが、高校卒業の春に初めて甲子園の切符を手にしました。
甲子園も長い間、一回戦負けの智辯であったのですが、その後、優勝までするようになりました。
奈良智辯と姉妹校対決を、甲子園でしたこともありました。
春夏3度全国制覇、そして、甲子園で監督通算最多63勝の記録を残されました。
高校三年間、スタンドから応援していた自分にとっての智辯野球は、投手に不安を抱えながらも、ガンガン、打ち勝つ野球でした。
高嶋監督、本当にお疲れ様でございました。
どうか、智辯野球の伝統が、これからも続きますように。
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http://mainichi.jp/sports/news/20150810k0000e050178000c.html
高校野球:智弁和歌山高の高嶋仁監督が勇退の意向
毎日新聞 2015年08月10日 12時52分(最終更新 08月10日 13時00分)
◇春夏で3度の全国制覇、甲子園で監督通算最多の63勝
春夏合わせて3度の全国制覇を果たし、甲子園で監督通算最多の63勝を挙げている智弁和歌山高(和歌山市)の高嶋仁監督(69)が勇退の意向を固めたことが分かった。10日午前、毎日新聞の取材に対し「体調が悪く、近く学校に辞意を申し入れる」と述べた。早ければ、9月末に行われる国体が最後となる。後任は同校選手として1997年の選手権を制し、今夏は責任教師としてベンチ入りした喜多隆志副部長(35)が務める見通し。
高嶋監督は長崎県出身。海星高(長崎)時代に2度、外野手として夏の甲子園に出場。日体大を経て72年から智弁学園高(奈良)の監督を務め、80年に智弁和歌山高の監督に就任した。「打ち勝つ野球」でセンバツは94年に優勝。97年と2000年には選手権を制した。
監督として春夏通算35回の甲子園に出場。今夏は9日の1回戦で初出場の津商(三重)と対戦したが、7失策と守備が乱れて、4−9で敗れた。【安田光高、谷田朋美】
台風が過ぎ去り、7時現在、雨はなく、曇っています。東京では聞かなかった蝉が、鳴いています。
昨晩は、一晩中、亡き父に付き添いました。父が出版した本(出版は私も大きな驚きだったのですが)『次太夫』をひもときながら過ごしました。
父は、次太夫を「滅私の信念」を持ったひととして描いています。参列された父を知る人は、父のことをまた「則天去私」の人と評されています。私もまた、同感です。父は、「私」を出す人では決してありませんでした。
通夜に来られた皆様にご挨拶して、亡き父が多くの方々にとても慕われていたことを、あらためて実感いたしました。
実家での葬儀であり、駐車場案内や受付では、自治会の皆様にとてもお世話になりました。
我が家に高校時代押し掛けて来ていた、今はそれぞれにあのころの面影を残しながらも、強く人生を歩み活躍をしておられる私の同級生も参列下さり、私をもまた励まして下さいました。心強かったです。
別れの日です。
たとえ末期の肺がんで、その転移による歩行障害で寝たきりになったとしても、精一杯82歳の人生を全うし、大往生した父を、無事、天国に送り出して参ります。
人生最後の場所として父が望んでやまなかった、生まれ育った和歌山森小手穂の実家から、送り出します。
『次太夫』小坂和生 著 出発社 2000年7月10日発行
:約140年前、小坂家の先祖(父和生の父親浅三のさらに祖父浅八の弟次太夫)が、西南戦争に大阪鎮台第八聯隊第二大隊三中隊に属して出陣し、明治10年(1877年)3月20日肥後国二俣村(田原坂)において22歳の若さで戦死したことの史実に基づき書かれた実話。
末期肺がん在宅闘病中の父親が、本日7月15日午後1時に永遠の眠りにつきました。本人の望み通り、住み慣れた我が家での死でした。
皆様には、いろいろと励ましと、そして、医師の同級生からは医療面からの専門的なアドバイスを何度となくいただき、本当にありがとうございました。たいへん心強かったです。
父が眠りに着いたとき、ちょうど、中央区議会の所属する防災等安全対策特別委員会による名古屋大学減災館の公務での視察の最中でした。
今日朝の会話が最後となってしまいましたが、一番言いたかったこと「死んでも後のことは、まったく心配いらない。」ことを言うことができ、また、父親も、わかったと目で受け止めてくれたから、心残りはありません。死ぬ日でありながら、行って来いと目で送り出してくれました。
日曜日から今日まで和歌山(関空)ー東京の飛行機通勤し、深夜のわずかな時間だけど、自分の手で最後の最後を医療看護できたことは、とても幸せな時間でした。
昨年12月から、在宅医療がはじまって以来、今回だけは、喪服も隠し持っていました。
末期の肺がんであり、本来なら呼吸困難が出てもおかしくないところ、家族には苦悶の表情を一切見せることなく、おだやかに眠りに着きました。まさに人生82歳の大往生だったと思います。母親と私の息子(孫)が傍に寄り添っていました。
これから、和歌山に戻ります。今となっては着いてほしくない和歌山に列車は強引に向かっています。
父親に感謝しなければならないことは、山ほどあるのに、親孝行など、まったくできませんでした。できたことは、唯一、死ぬ順番が逆にならなかったことぐらい。
精一杯、送り出して参ります。遅すぎて、親孝行にはならないけれど。
そして、これからは、父の遺言「残される母親を頼んだよ。」を守るのみです。