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「中央区を、子育て日本一の区へ」こども元気クリニック・病児保育室  小児科医 小坂和輝のblog

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『職業としての小説家』(村上春樹著2015年第1刷)を読んで、共感したことについて

2016-02-07 23:00:00 | 書評
 村上氏は言う。小説というジャンルは、誰でも気が向けば簡単に参入できるプロレス・リングのようなものであると。小説にとって誹謗ではなく、むしろ褒め言葉として、「誰にでも書ける。」と言い切る。

 きっと、自分が過ごしてきた人生を振り返って、自分を主人公にしたてあげたノンフィクションの小説であれば、誰もが、ひとつは、小説が書けるであろう。自叙伝の作成を手助けするビジネスも出てきている。私も、他人が私だったらどう思うかは別にして、私自身は私の人生を今まで楽しく送ってきたから、自身を主人公にした小説をいつか書きたいと思ってきた。

 しかし、『職業としての小説家』(本著)を読んで、私は、到底「職業的」小説家にはなれないと感じた。村上氏も、小説を長く書き続けること、書いて生活をしていくこと、小説家として生き残っていくことは、至難の業であり、普通の人間にはまずできないことだと述べている。それに、小説家は、多量の本を読んでいることが大前提とも村上氏は述べるが、それが私には、残念ながらない。村上氏の処女作『風の声を聴け』を読んで、「こんな小説は、自分でも書ける。」と言い張ったひとがいたようだが、私も試しに読んで挑戦してみたが、私には書けそうもない作品だった。

 本著は、村上氏のひととなりを理解させてくれる書物である。村上氏は、「どこにでもいるひと」といっているが、そうは思えない、ある意味、「ノーベル賞」を受賞してもおかしくない巨匠作家に思うことにはばかりはない。

 村上氏の小説家としてのスタートは、三十代でのふたつの偶然から始まる。ひとつは、1978年4月セリーグの開幕戦、神宮球場ヤクルト対カープ1回裏高橋の第一球をヒルトンがレフトにきれいにはじき返し二塁打を打ったその小気味の良い音と、ぱらぱらとまばらな拍手の中で、「そうだ、僕には小説が書けるかもしれない」と啓示のようなものを受け、処女作を書く気持ちになった。もうひとつは、その開幕戦から一年近く経った日、「群像」の編集者から、新人賞の最終選考に残ったと電話をもらい、そのまま起きて、妻と一緒に散歩中に、千駄谷小学校の近くの茂みの陰の一羽の伝書鳩をみつけた。拾い上げると翼に怪我をしており、近くの交番に届けた。良く晴れた気持ちのよい日曜日のことで、あたりが美しく輝いており、その時に新人賞をとることを確信し、その確信とおり新人賞を受賞した。小説を書くチャンスを与えられたと感じ、いまもその感触を思い起こし、自分の中にあるはずの何かを信じ、「気持ち良く」「楽しく」小説を書き、そのことが幸福につながっている。村上氏は、本当に自らにあう職業を、偶然に発見できたのである。それが、今まで、続いているのである。私も様々な偶然により、現在の職業にたどりついているが、村上氏のように「気持ち良く」「楽しく」過ごすことが幸いにできている。このことが肝心なのだろう。

 丁度、バブルのときには、『ノルウェーの森』が大ヒットした。大金を得るオファーがある中で、自らがスポイルしてしまうことを避けたく、健全な野心をもって、40代直前に、アメリカに渡る。大金を得るような経験はないが、あったとして、スポイルされることなくはないと信じたいが、ここがまた、凡人と天才の境なのだろうと感じた。村上氏は、決して、健全な野心を失うことがない。

 村上氏は、小説家とは、自分の意識の中にあるものを「物語」という形に置き換え(パラフレーズ)て、それを表現しようとするので、パラレーズの連鎖も起きかねず、「不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義している。もともとあったかたちと、そこから生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムを梃子のように利用して、何かを語ろうとしているのだと述べている。

そして、「物語」とは、現実のメタファーであり、人の魂の奥底にあるもの、人の魂の奥底にあるべきもので、魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものをいうのだそうだ。「架空の読者」(それは、「総体としての読者」でもあるわけだが)を念頭におき、意識の下部に自ら下っていく作業をしている。暗いところで、村上氏の根っこと、読者の根っこが繋がるという感触を受けるのである。「信頼の感覚」を村上氏は得ている。

 結局、職業的小説家にはなれるひとはごくわずかであるが、職業的小児科医師、職業的政治家、職業的教師…、いずれの職業においても当てはまる真理を本著はのべていると読了して感じている。小さなきっかけをも肯定的にとらえて職につき、ついた職を心から楽しみ、職を通して人と繋がることができている実感(上述の「信頼の感覚」を自分なりに言い換える。)を持てているかどうかが「職業的」ということなのだと理解した。


以上

*参照 『職業としての小説家』村上春樹著2015年第1刷 スイッチ・パブリッシング
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『トゥイーの日記』ダン・トゥイー・チャム 訳 高橋和泉

2015-05-28 23:00:00 | 書評
『トゥイーの日記』ダン・トゥイー・チャム 訳高橋和泉 経済界 
 
 ダン・トゥイー・チャム、1942年11月26日ハノイに5人姉弟の長女として生まれる。1966年ハノイ医科大学卒業、眼科を専攻し、その後、直ぐに自らベトナム戦争に志願し、クアンガイ省に赴任。1968年9月27日ホーチミン率いる党に入党。1970年6月22日アメリカ兵に撃たれ死亡、享年27歳。
 1970年6月20日で日記は、唐突に終わる。最後の文章、「自分自身を見つめなさい。孤独な時は自分の手を握り、愛を注ぎ、力を与え、そして目の前の険しい道を乗り越えて行きなさい。」彼女自身、2日後に死ぬことまでも予期していたのかもしれない文章である。
 彼女は、敵に立ち向かって死んで行った。額の真ん中にぽっかりとあいた銃跡が母と妹ダン・キム・チャムに確認されている。話をたぐり合わせると、彼女は、最後に、診療所の中で患者を守ろうとして一人で、120名のアメリカ兵と戦ったというのである。死への覚悟ができていた。「母さん、もしあなたの娘が明日の勝利のために斃れたとしても、流す涙は少しでいい。それよりも、価値ある生き方をした私たちのことを誇りにしてほしい。人は誰でもいつか死ぬのだから。」同年6月10日に述べている。
 トゥイーは、南ベトナムに向かってハノイを出発したときから日記をつけ始めた。残存する日記からなる本書は、クアンガイに到着した1年後の1968年4月8日から始まっている。盲腸を疑っての開腹手術の様子の記載である。乏しい器材に関わらず、大学卒業2年目の眼科医が、一人で手術をしていることに医師として驚きを感じる。その後も、トゥイーは、負傷兵の手術をこなし、かつ、医学を教える講師もし、さらに、党の指導者として秀でた活動を行っていく。一人何役もの任務を果敢にこなすのであった。
 日記は、基本的には、他人に見せるものとしてつけるものではない。出版されることなど夢にも思わなかったであろう。ただ、自らの生きた証として家族に届けることの意図はあったと日記の文面「もし私が帰らなかったらそのノートを大切に持っていて。そして私の家族に送ってちょうだい。そういうつもりだった…」から読み取れる。
 日記は、気分の落ち込んだところから始まっているが、親友の訃報が入るにも関わらず、暗いトーンで終始するのではなく、自らのへの自問自答と必死で生きようとする励ましの言葉が有り、彼女のおかれた状況とは比較にならない安全な日本という地で生きる者へ大いなる励ましの文章でもあった。
 「信頼とは自分で自分に与えるものではなく、人々に尊敬されてこそ得られるものだから…」党に忠実に貢献しようとする彼女の使命感が伝わる文章である。
 「死とはこんなにも身近で、あっけないものなのだ。そんな人生を、それでも強く奮い立たせるものは何なのだろう?それは人と人との心のつながりかもしれない。心の中で燃え続ける明日への希望かもしれない。」たとえ、死と隣り合わせになりながらも人と人の信頼関係があれば、乗り越えていけることを私達に伝えてくれている。
 トゥイーの日記は、身近なひとや患者を失い、それらの家族が悲嘆にくれる様子が、その仲間の名前とともに描かれている。トゥイーが、「人の生き血を絞り、金のなる木に注いでいるやつら」と評するアメリカの兵士の側にも、同様にいえるはずなのに、そのことへの想像は至っていないがそれが戦争というものなのであろう。そのような想像をしてしまうと、銃口を向けることはできなくなってしまう。
 日記は、アメリカ兵に収集され、軍の情報部に所属していたアメリカ人フレッド・ホワイトハーストらの好意により、35年ぶりの2005年4月、母親(当時81歳)の手に帰った。フレッドは、トゥイーを知らないが、「人間対人間として、私は彼女と恋に落ちた」と述べている。そして、執念で家族を探し当てた。日記は、その後、2005年6月18日にハノイで出版され、5000部以上売れる本がほとんどない国で43万部を売り上げる大ヒットとなった。日記に描かれるのは、祖国を救った英雄ではなく、勇敢ではあるが、か弱く、理想を追い求めるが、時に迷い、日々葛藤する普通の女性であった。ベトナムの若者は、この日記を通して「『無敵のベトナム』から、戦争の真実をより現実の出来事として認識した。
 2008年高橋和泉氏訳により、日本語版が制作され、2015年その初版第1刷を私は手にする。人の日記を本人の承諾なく読むという抵抗感や、人物名が多く、物語では主人公との関係性が適切に書かれているそのようなものがなく読みづらい書物ではあった。だが、読み終えると、ベトナムの若者と同じように、どのような過酷な状況でも、希望を捨てずに人生を生ききったひとりの女性トゥイーが作り物ではなく、実在したことに感動を覚える。高橋氏が日本語にできる喜びを記したように、私も、トゥイーに出会えたことに感謝する。                             
                                 以上
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『編集者という病い』(著者 見城徹 太田出版2007年)を読んで 

2015-04-04 03:30:25 | 書評
『編集者という病い』 著者 見城徹 太田出版2007年 

 憲法学の講義の際、顔に血管奇形がある韓国籍の実在の主人公の私生活を赤裸々に描き問題となった『石に泳ぐ魚事件』に象徴されるようなプライバシーや名誉の侵害となってもなお出版されることがあり、作家や編集者に対し、なぜ、そこまで表現行為をするのかと常々否定的に見て来た。だからこそ、見城氏の著書『編集者という病い』は、書名からして、他者の人権を侵害してでもなお表現しようとする者の確信に迫るものであるから興味深く読み進めることができた。

 「表現というのは、非共同体であること、すなわち個体であることの一点にかかっている。百匹の羊の共同体の中で一匹の過剰な、異常な羊、その共同体から滑り落ちるたった一匹の羊の内面を照らし出すのが表現である。共同体を維持して行くためには、倫理や法律や政治などが必要だろうけれども、一匹の切ない共同体にそぐわない羊のために表現はある」と見城氏は述べる。

 有限の一回限りの人生しか生きることができず、時と場所と共同体を選べずに生まれてくるという条件の中で、表現でしか救えない問題を、この世にたった一人しかいない個体としての人間は背負っている。編集者は、その人の精神という無形の目に見えないものから本という商品を作り出し、そこから収益をあげる。そのために、裸になって真剣に作家と切り結びあう。精神のデスマッチを表現者と編集者は繰り広げるのである。特に見城氏は、デスマッチの上に目指したのは、安全な港ではなく、悲惨の港であった。その悲惨が黄金に変わる瞬間、その誕生の場に立ち会うことが見城氏にとって何ものにもかえられないエクスタシーを「正しい病い」として味わう。見城氏の見解を知ったとき、表現の自由に関連する判例を読み、編集者に否定的なまなざしを向けていた自分の謎が解けたような気がした。やはり、表現の自由が保障される理由のひとつ「自己実現」という4文字では語りつくせない作家や編集者の思いがそこにはあり、結局は、売れなければ満足できないから「病い」ではあるが、その思いは、「正しい病い」というべきものであった。

 見城氏は、本物たちをプロデュースし、下火になってきていた文芸の手法を用いて、一つの時代を作り出して来たといって過言ではない。作家は、自分の内部から滲み出る、やむにやまれぬ気持ちを作品化している。表現者は、あざとく、表現者が無意識に持っているもの、葛藤している様を言語化させる。心に裂傷を負わせ、それを抉(えぐ)ってでも書いてもらう。自分の人生の全体重をかけた言葉が相手の胸に届かなければ編集者として現役でいる資格がない。逆に、表現者が編集者をそこまで駆り立てるのは、見城氏に言わせれば、「極端なことを言えば、殺人者だろうと変態だろうと、僕を感動させる作品さえ見せてくれるか、書いてくれるか、聴かせてくれればいいんだよ。逆に、そんなに爽やかでいい奴でも、その作品に心が震えなければ、付き合うことができない。編集者は、自分が感動できて、それを世にしらしめたいと思うからやっていける。その一点に尽きる。」と言い切る。まさに、精神の格闘家である。

 見城氏は、42歳にして、角川書店の取締役という安泰なポストを捨て、四谷の雑居ビルで自ら5人の仲間と幻冬舎を1千万円資本金で設立し、9年後には、時価総額300億円に育て上げ、ジャスダック上場も果たした。

 見城氏曰く、40代とは、「切羽詰まって闘える最後の世代」という。今、見城氏が出版界に「闘争宣言」を掲げ挑戦した40代という年代に、私もいるため、彼と自分を比較して見てしまう。見城氏は、慶応大学法学部を出て、法曹の道を選ばなかった。自分は、医師であるが、法曹の道を目指す。一方、「勝つことが目的ではない。闘うプロセスに充足を感じる」。「死ぬ時に笑って死ねたらよい。」と同じようなことを思う。そして、見城氏の自己評価同じく私もまた、自己愛に溺れ、永遠の少年である。

 出版の依頼を、幻冬社若手の編集者から受けたことがあるが、未だ実を結んでいない。もし、本著のような書を十年後に私が書けるならば、自己実現とは別に、「共同体を維持して行くためには、倫理や法律や政治などが必要で」それらが機能するための政治的表現という「自己統治」に通じる表現について是非とも論じたいものである。見城氏は、「自らを、悪魔のように繊細で、天使のようにしたたかでありたい。悪魔と天使が一つの心に巣食い、引き裂かれるような痛みを感じなければ作家に共感することもできないし、この世の中の光と影のグラディエーションを感じ分けることはできない」という。心が運動することによって生まれる風や熱があるから人は引き寄せられるゆえの表現であろう。行政、有権者、専門家などの相手と共感を勝ち得ることもまた、同じ心が運動することによってのみ生まれるものと考える。幻冬舎は、その時の私の表現を活字化してくれようか。

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『セロニアス・モンクのいた風景』 編者・訳者 村上春樹(2014年10月10日発行)

2014-11-29 23:00:00 | 書評
『セロニアス・モンクのいた風景』村上春樹編著        

 1968年、村上春樹氏は、当時20歳になったばかりの頃、新宿の花園神社近くの「マルミ・レコード」というジャズ専門レコード店で、店主に説教され、ほとんど無理矢理モンクのLP『ファイブ・バイ・モンク・バイ・ファイブ』(1959年の録音)を買わされた。このことがきっかけで、それまでもモンクの演奏は耳にしていたものの、モンクを熱心に聞き入ることとなったのである。

 以後、村上氏は、周りにいる人々にモンクの音楽のすばらしさを伝えたいと思っていたが、本当に大事なものを、本当に深いものを誰かと共有するには、言葉はむしろ余計なものになってしまうため、言葉でそれを具体的に表すことができなかった。とはいえ、いつか何かの形で、人にうまく伝えることができるようになればと思い、いろんなモンクに関することがらを、ひたすら拾い集めてきた。村上氏は、音楽の素晴らしさが、どのように文章で表現されうるかということに、一人の書き手として昔から個人的に深い興味を持っていたのである。

 そして、2014年、村上氏は、本書『セロニアス・モンクのいた風景』を編者・訳者として出版し、モンクの音楽の素晴らしさを文章で表現した。

 村上氏自身は、モンクの音楽をどう表現しているか。モンクの音楽の響きに、宿命的なまでに惹かれた時期があり、ディスティンクティブな(誰がどこで耳にしてもすぐに彼のものとわかる)、極北でとれた硬い氷を、奇妙な角度で有効に鑿削っていくようなピアノの音を聞くたびに「これこそがジャズ」と思い、しばしば温かく励まされたと述べる。幸福な邂逅(かいこう)であったとさえ述べる。

 生きたジャズの歴史のような存在であるロレイン・ゴードンは、一目見た時から、モンクの音の選択は、完全にどこまでも彼独自のものであり、非の打ち所がないのと同時に、まさに常軌を逸しているという。ジャズ批評家ナット・ヘントフは、モンクのつくった曲には、「揺らぎなき正しさの特性」が備わっているという。ピアニストのディック・カッツは、モンクが型破りにみえるのは、きわめて個性的な彼の和声システムのためという。リズムの流れの中で不協和音が効果的に浮かび上がるように、まさに劇的な瞬間をとらえて不協和音を叩くという。

 もともと、モンクのジャズを知らない自分は、言葉からモンクの音楽を感じようと本書を読み進めるが、なかなか分かりづらいところであった。本書で取り上げられた文書に出てくるモンクの音楽の批評において、「揺らぎなき正しさの特性」という言葉もあるように「正しさ」という言葉が印章に残った。

 モンクの人となりも述べられている。1917年10月10日、ノースカロライナ州ロッキー・マウント生まれ。2歳に家族とニューヨークに出来てサンファン・ヒル地区で育つ。受けた教育といえば、ほとんどがピアノの個人レッスンだけであった。30歳でネリー・スミスと結婚し、一男一女の父となった。1982年2月17日脳梗塞にて死去、享年64歳、ニューヨーク州ハーツデイルのファーンクリフ墓地に埋葬される。1951年ピアニストで友人のバド・パウエルと共に麻薬所持容疑で逮捕され、60日間の刑期(ただし周囲の証言では、モンクは無実)及び58年公安を乱した罪状で罰金刑を受ける。

 モンクは時間を守らないひとで、時間に送れ、それが原因でバンドから外されたこともある。自らの葬式まで遅れると評されているのであるからよほどのものであったのだろう。知らない人を相手にはしゃべらない、エキセントリックで無口であった。人間としてもミュージシャンとしてもラディカルなまでに個人主義者であったとドイツの評論家トマス・フィッタリングはいう。モンクは、新しい曲を書くといつも、夜も昼もおかまいなく、誰かがそれをとめるまで、何週間もぶっつづけでその曲を弾いた。その曲が自分の中に根を下ろすかどうかをたしかめていたと硬派ジャズ・ピアニストであるメアリ・ルウ・ウイリアムズはいう。
 
 謎の男と言いうるモンクに貫くものは、いったい何なのだろうか。

 多くの人の評するところ、彼の音楽には「正しさ」があったように、彼の生き様にも、内的ロジックがあり、そのロジックの中心には、「自分自身であること」があったのだと思う。だからこそ、妻ネリーは、子ども達にも伝えようとしている。「人がなんと言おうが、そんなものを気にすることはない。なぜならあなたたちはあなたたちなんだから。あなたたちが自分自身であれば、それでいいのよ。」

ジャズ界の特別な存在となったモンクの内的ロジックのシンプルさ「自分自身であること」ゆえに、モンクに強い関心を抱くようになった。文字だけを追ってモンクのひととなりと音楽を想像して来たが、今度は、ゆっくりと音楽そのものを聴き、味わってみようと思う。


****************

○Thelonious Monk - Live in Norway & Denmark '66.Intimate TV Concerts.

https://www.youtube.com/watch?v=SzGm0qOooJ4

Piano- Thelonious Monk
Tenor Sax- Charlie Rouse
Bass- Larry Gales
Drums- Ben Riley

****************

○Thelonious Monk Solo - 1969 Paris Jazz Icons

https://www.youtube.com/watch?v=UNQSeBiqTWE

****************

○Thelonious Monk Live In Berlin 1969 (Solo Piano)

https://www.youtube.com/watch?v=MGbLRaaqrCc

0:14 Satin Doll
3:53 Sophisticated Lady
8:19 Caravan
14:33 Solitude
18:43 Crepuscule with Nellie
21:08 Blues for Duke

****************
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経済学の視点 K・ポラニー『大転換』/K・ポメランツ『大分岐』

2014-09-25 23:00:00 | 書評


 経済学の視点も参考になります。

 

〇K・ポラニー『大転換』

 労働・土地・貨幣は本来、商品ではない。

 労働力を売るしかない状況を生み出した構造的な暴力こそ市場経済への大転換の前提。


〇K・ポメランツ『大分岐』

 奴隷制の制度的な暴力と植民地への生態学的な圧力の転移こそ西欧優位の理由。
 

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9月14日(日)15(祝)、中央区月島3丁目こども元気クリニック・病児保育室5547-1191急病対応致します。

2014-09-14 09:53:21 | 書評

 9月14日(日)15(月、祝)の午前中、中央区月島3丁目 こども元気クリニック・病児保育室03-5547-1191急病対応致します。
 

 1)高熱の風邪、2)咳の風邪、3)お腹の風邪の3つのお風邪がそれぞれ、今、流行っています。
 急に寒くなって、気候の変化に体が対応できていないことが、流行の原因のひとつと考えます。
 
 喘息の子の咳も増えています。
 あわせて、クループの咳の子が多いのも気になるところです。

 体調崩されておられませんか?
 


 おとなも、こどもの風邪をもらいます。
 こどもから夏風邪がうつること、多々、あります。
 そのような場合、お子さんとご一緒に、親御さんも診察いたしますので、お気軽にお声掛けください。



 
 なおったお子さんには、日曜日に、登園許可証も記載します。
 月曜日朝一番から登園できますように、ご利用ください。



 合わせて、平日なかなか時間が作れない場合でも、休日も、予防接種を実施いたしますので、ご利用ください。
 
 
 お大事に。

こども元気クリニック・病児保育室
中央区月島3-30-3
電話 03-5547-1191

小坂和輝

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2014/09/11報道ステーション『慰安婦問題』の本質に迫っていたと思います。

2014-09-12 15:47:11 | 書評

 昨日2014/09/11の報道ステーションは、問題の本質に迫っていたと思います。

 問題の本質、すなわち、

 〇慰安婦問題はあった。

 〇慰安婦問題は、重大な人権侵害である。

 〇戦争では、常に犠牲になるのは子どもであり、女性である。

 〇日韓関係改善に向け、努力せねばならない。







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『湿原』加賀乙彦 著 1983~85年朝日新聞連載

2014-09-06 08:41:49 | 書評
 雪森厚夫の一審死刑の判決が、控訴審で無罪となった。もともと、冤罪であったのであるが、そうだからといって、一審判決を覆すのは、並大抵のことではできない。特に自白の証拠があり、目撃証言があり、一方で、アリバイがない状況で判決が下り、かつ刑事訴訟法上、控訴審で主張できる内容も限られてくるという制限の中での作業である。
 一審の判決が下され死刑囚となった雪森は語っている。「軍隊と監獄、つまり国家が国民を完全管理する施設で、おれの一生は、規格どおりの形に細工される木片のように、削られ続けてきた。その果てに国家は、おれを不用品として廃棄処分にするのだ。」


 ちなみに、自白がなされた状況は、取り調べの可視化が言われる昨今ならば到底考えらえない拷問に近い追求に、疲れ果てながらも頑に抵抗していたが、三週間に及ぶ取り調べを続けた肥野警部補の「・・俺はもう疲れた。本当に参った・・・、本件を最後に来年は、将校になれない下士官と同じ警部補のまま定年だ・・・」軍隊時代の雪森と同じ「下士官同士のよしみで、お前に人間らしい暖かい心があるなら、最後の俺にはなむけを・・・」と、風蓮湖畔での爆破実験を認めろと迫られ、警部補以上に疲れきっている雪森は夢見心地で認めるところから始まった。これを機にづるづる意に沿わぬまま、つくられた供述調書を認めてしまうのであった。
 およそ過激派、新幹線爆破事件とは縁もなくかけ離れた存在の雪森が、ほんの少しの真実ー前科、銃の所持、爆破実験という一点を、線につなぎ合わされ犯人に仕立て上げられた。
 

 死刑の判決を控訴審で無罪に覆すという難しい作業を見事成し遂げられたのは、一審から代わって弁護人となった若手の弁護士阿久津純と、共感して集まった支援者、正しく真実を報道したジャーナリストらの力の結集のおかげであった。
 国民審査制度がどれだけ機能するかは、別にしても、弁護士だけでなく、社会の関心もまた、裁判官の心を動かす要因のひとつと思われる。

 

 とは言え、阿久津の登場が、物語を大きく前進させたことに違いはない。阿久津がいなければ、和香子と厚夫の風蓮川の袂で愛を育む日(「・・・此の土地で二人で生きよう。もろともに、風蓮仙人となって暮らそう・・・」)がくることは、永遠になかった。
 果たして、阿久津のような弁護士はいるといえるか。築地市場移転問題裁判の弁護士達との出会いによって、その割合はわからないが、私は、はっきりとイエスと答える。更に言うなら、同裁判に取り組む私たちにも、共感して集まる支援者と、正しく報道下さるジャーナリストが集っている。


 殺人事件における同様な冤罪事件に取り組まれておられる、私に刑法演習をご教授下さった先生は、飲み会の席で話してくださったことが印象に残る。なぜ、割にあわない労力をかけてでも冤罪事件にのめり込んで、弁護できるのか。容疑者たるひとにあったとき、「この人はやっていない。」と直感でわかるというのである。やっていないにもかかわらず、罪を着せられていることに不条理を感じ、真実発見をし、無実の人を救うために、誠心誠意打ち込み無罪を勝ち取るというのである。
 警察・検察側のほうも、「この人はやっていない。」ときっとわかるのではないかと思う。しかし、真犯人かどうかの決定は裁判官にまかせ、それより重要な事は、60%の見込みがあり、公判維持をできるかどうかに関心あると、大貫検事の語りがあったように、正義の実現という公益目的以外に表には出ないが左右する要因が、多々あるのかもしれない。



 事件で、本当に何が起きたのか、その一部始終を見ている人はいないし、たとえ見ている人がいたとしても、その人の感じ方は皆違うのであるから、評価も分かれることになる。だからこそ、証拠の採用においては、「伝聞証拠排除の法則」という人が見聞きして書き取った証拠は原則証拠としない刑事訴訟法上の重要なルールも定められている。
 また、たとえ、一部始終を見ている人がいたとしても、行った人の心の内側までは、例えば、わざとなのか誤ってなのか、殺意を持っていたのか、盗もうと思っていたのか借りようと思っていたのか等見ることができない。



 そういう中で、事件の真実というものを、証拠を集めて作り上げていく地道な作業が、裁判においてなされる。
 新幹線爆破事件の犯行当時、厚夫が神代植物公園にいたことを証明する写真が見つかったように、そして、和香子が同じように同時刻、教会の後ろの席に座っていたのを目撃した神父がいたように、偶然に証拠が発見されることも多いのであろう。冤罪なのであるから、見つかって当然であるが、かといって、厚夫の一審弁護人がしたように、出された証拠を通り一辺倒に処理する弁護士では、見つけることもできない。
 見つけようとする思いが弁護士にはなくてはならない。



 いたるところ監視カメラが設置されている今の時代なら、厚夫の無罪は簡単に勝ち得たといえるかもしれない。
 否、難しさは変わらないかそれ以上ではないだろうか。有罪にさせる誤った証拠もたくさん容易される可能性があり、それを覆すことが難しくもなっている。
 例えば、DNA鑑定なども、誤った証拠として採用されたなら、その科学的結果が一人歩きしてしまう。覆すのが難しいことは、今も昔も変わらない。



 『湿原』では、万が一、阿久津が現れねば、そのまま厚夫が新幹線爆破事件の真犯人であるとなってしまっていたようなことが、多々、世の中には存在すると思っている。和香子が、「組織」と名付けて忌み嫌った最たる例としての国家により、冤罪という刑事事件という場だけでなく、様々な場面で産み出されていると強く感じる。そして、真実の一番強力な判定は、司法による判決である。



 私が法科大学院に通うのも、阿久津とまでは行かないまでも、組織にとって都合良く作り出されている真実に対し、少なくとも、小児科医として係わる子どもの育つ環境や医学の分野においては、冤罪のようなことが、すなわち、真実ではない事が真実のように語られるようなことが、起こらないように、起こっているのであれば、正して行きたいと考えるからである。
 月島に住み開業するものとして、かつて月島にも住んでいた阿久津にあやかりたいと思う。

 「わが湿原に自由存す。」

 
 「湿原」という題名は、雪森が、自白という「失言」をしたがために10年間の長期にわたり冤罪裁判のため彼の人生を棒にふったことと掛詞であるかどうかは、わからない。
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出光興産創業者 出光佐三氏が今の日本に生まれていたらー日章丸事件

2013-11-02 23:00:00 | 書評

      
 出光佐三氏及び出光興産社員の敗戦直後の活躍に感謝したい気持ちである。


 「石油の一滴は血の一滴」と言われ、日本は、石油のために太平洋戦争をし、石油のために敗れた。大きな要因として石油があったことは言い得ている。
 戦後、第二の敗戦として、石油業界が外国の石油資本7大メジャー(7人の魔女)に日本の各社が飲み込まれるも、出光は、日本全体が蹂躙されてしまうことを防いだ。


 その出光の創業以来の社是は、「社員は家族」「非上場」「出勤簿は不要」「定年制度は不要」「労働組合は不要」。小さな個人商店ならわかるが、大企業がこのような社是とは、驚きと、社員は大丈夫かとふと思いたくなる。しかし、社員は、なんら文句を言うこともなく、逆にいきいきと、例えば、GHQから指令されたが、どの企業もやることに手を上げなかった石油タンクに残った油のくみ出しを、出光社員の人海戦術でやりとげたのである。


 なぜ、社員がそこまでできたのか。佐三氏の魅力やその精神すなわち「人間尊重」、「和の精神」、「国のためを第一に考えること」につきる。
 戦後の焼け野原となった日本において、失業者があふれる中、佐三氏は、1000人の社員を一人と首にすることなく、家族のように養った。事情が事情なのだから、社員を縮減して企業存続を考えるであろうが、佐三氏の発想はそうではなかった。なんとか仕事を探し、ラジオの修理の全国展開を銀行から多額の借金をしてもやろうとした。


 石油の業界団体に加わっていなかったことから、周囲の妨害も並大抵のものではなかった。偽の情報からGHQには「公職追放」と指定され、石油配給公団の指定する「販売業者」からはずされかけ、イランへ送るタンカーを借りる契約を直前に破棄され、石油販売の配給比率のメジャーを有利にする制限など、同業者からも、政府からも、国際石油カルテルからも標的にされた。


 悲しくなるのは、自らの企業の利益や組織の存続という点にのみ目を向ける他企業の幹部や政府役人の存在である。佐三氏は、無私無欲で、日本のためにしているにも関わらず、情け容赦のない妨害をしてきた。


 和の精神の佐三氏、そして社員は家族の出光興産は、それら妨害につぶされることなく、乗り切った。朝鮮戦争が勃発し、「特需」とともに石油消費の需要もあったという運もあったが、それだけではない。
 難題を乗り切ろうとして必死に努力をする社員と、佐三氏が有する信頼できる人脈が、危機を回避し、交渉を実りあるものへと変えて行った。


 出光興産の大きな偉業のひとつは、イランからの石油の買い付けである。
 その名も、「日章丸事件」。
 イランは、7大メジャーに長い間支配されて来たことに闘って、モサデク首相のもとイギリスの国策会社アングロ・イラニアンを自国の会社とした。そのために厳しい経済封鎖をかけられ、イランの石油を運び出そうとする船舶は、イギリスの軍艦により拿捕される状況にあった。
 佐三氏は、隠密裏にイランとの交渉を進め、自社の日章丸をイランへ送った。日章丸の乗組員さえ行き先を正しく教えられることなく航海した。
 イランへ行き先を変更したとき、「イランの石油を購入することでイランを助け、日本の石油業界の未来に貢献する」という佐三氏の檄文を船長が読み上げると、戦場に赴く危険な任務を明かされたのにもかかわらず乗組員から「万歳」の声が何度も轟くのであった。
 無事、イランの石油を輸入し、正当性が国際法上も認められた。
 その後、メジャーの逆襲、すなわち、アメリカCIAの仕組んだクーデターで、パーレビ国王が元首とされ、モサデク首相がひきずり降ろされ、イラン革命までの間、イランの石油は、メジャーの手に落ちる。
 そのことからすると日章丸の石油の輸入はほんの一矢にすぎないが、イランと日本の友好関係が続いてほしかったと思うところである。


 「99人の馬鹿がいても、正義を貫く男がひとりいれば、間違った世の中にはならない。そういう男がひとりもいなくなったときこそ、日本は終わる」佐三氏の言。
 たとえ、組織の内向きの論理でつぶしにかかっても、正しいことを行っている以上、そのことを見ている人は必ずいて、救いの手は差し出されるし、運命も見方する。
 佐三氏の人生は、そのことを証明してくれる。さらにいうなら、佐三氏の正義は、単なる主義という漠然としたものではなく、人間の尊厳から出てくるものであった。


 出光興産の社是は、今も通じるように思う。それこそが、日本の企業の理想とすべき姿と考えるがいかがか。


 今、私は法律を学んでいる。小児科医として、子ども達の育つ環境を政策的にも制度的にも街づくりからもよくするためには、法律という“刀”が必要であると考えるからである。
 法律では、民主主義、自由主義など主義という言葉が多用され、思考のはじめに○○主義から入って行こうとしていた。
 佐三氏は、「主義の奴隷になるな」と言う。主義を主張する一方で、人間尊重、和の精神に立ち返ることを忘れずにもちたいと思う。人間尊重、和の精神は、敗戦後の最も困難な時期でさえ通じたのであるから、今も通じるはずである。


参考文献
『海賊とよばれた男』  百田尚樹 著 
『マルクスが日本に生まれていたら』 出光佐三 著

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日中2000年の不理解

2007-02-24 04:49:37 | 書評

 中国とは、仲良くしていく必要があると強く感じている。

 今回、王敏著『日中2000年の不理解ー異なる文化「基層」を探る』(朝日新書 2006年)を読み、非常に参考になったので、その感想を述べる。

結論は、日中の異文化理解をする努力が必要と言うことです。
 文化がえらい違うんです!!
 2000年の歴史を通じて、その文化の違いはつくられたのです。

*****感想******
 日本と中国は有史以前から、交流があった。よって同文同種の兄弟文化と考えられがちで、中国人は、日本文化を中国の亜流だと決め込んでいるし、日本人の方も、中国に学んだのだからたいして違った文化とは考えていない。日本文化は、亜流ではなく「独自性」があるのである。「日中の文化は、似て非なるものである。」この認識に立たねば、両国の相互理解は始まらない。
 そもそも文化とは、動物や植物、気象・地理などの相対としての自然観のほか、宗教観や死生観、生活観のうえに言語や民族の要因もからみ、周辺の影響を受けながら歴史的な変化を継続している社会的な紐帯機能と定義できる。その点で言うと、日本と中国では、風土が大きく異なる。四季のある日本と、気候が安定した中国。そこで培われた精神構造も変わってくるのは当然である。
 日本では、花鳥風月を鑑賞し、恵まれた自然と一体になる感性を精神的な共通財産にしている。「草木国土悉皆成仏」の思想が日本人のこころの深層にある。この感性について、日本人の間では説明を必要としない。「以心伝心」ですむ。
 日本の自然志向に対し、一方中国では、理念志向といわれる。国家の統治思想から個々人の倫理道徳として生活の隅々まで儒教が浸透している。特に正義を求める生き方を第一にしている。この儒教思想もまた、黄河文明が生まれたころから培われた漢民族の素朴な生活観や家族観、倫理観、社会観、自然観、宇宙観などの総体なのである。
 理念志向の下、実際、文化大革命では、毛沢東の言葉に忠実であれば義であり、反すれば不義という強引な風潮が起こり、容赦のない粛清がなされた。また、A級戦犯を祀る靖国神社への首相の参拝問題では、「日本人は死者を責めないけれども、中国人は死者であっても許さない」という中国人学者の言葉が引用されることとなる。
 日本でも、江戸時代、儒教が推奨され、儒教の主流朱子学が官学とされた。そして幕末まで武士は教養として四書五経を必読した。新渡戸稲造氏が1899年『武士道』を書いたが、その動機は、学校で宗教教育というものがないことに西洋人が驚き、「いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と詰問されたからであるという。新渡戸氏は、日本人の道徳律は、孔子が「五常の徳」として述べたところの「仁・義・礼・智・信」と述べている。特にその中でも、「義」を武士道の支柱として著わした。
 ところが、明治維新以後、儒教から西洋思想に乗り換えてしまった。今や大方の日本人が儒教の求める厳格な不変の姿勢を理解できないでいる。
 日本は、今後、中国とよい国際関係を構築する必要がある。しかし、現状では、多難を極める。中国共産党は、多額の資金を投入し、対日歴史批判を欧米で展開している。例えば、『レイプ・オブ・南京』の著者アイリス・チャン氏の胸像をスタンフォード大学に納入。チャン本を教科書に映画「南京」が製作された。世界の世論が、対日批判に誘導されかねない状況である。
 キリスト教、イスラム教、儒教文化圏の人々は、理念を放棄する仕掛けをもっていないようだ。一方、日本は、幕末・明治維新を画して儒教から西洋思想に乗り換えたり、戦争の敗戦によって急激に民主主義国家に変貌できた。日本文化には思想を、衣服のように四季に合わせて着替えるが如き仕掛けがあると見ることができよう。日本文化は「寛容」なのである。ならば、様々な思想への柔軟な対応ができるはずである。中国を異文化の国であるという認識に立ち、両国の友好な関係構築という理想を再度高々に掲げよう。一方的に「靖国問題」を何度主張しても中国には伝わらないことを日本は認識すべきである。
とは言いつつ、これから将来の課題においては、現実主義的な対応を、『武士道』でいう「義」の精神を堅持し、「正義のためなら死も辞さない」という強い意志で、特に政府レベルでは、国際社会の中であらゆるチャネルを通じて、主張していく必要がある。
 そして、大東亜戦争の真実は、歴史学の進歩で解明されるのを待ちつつ、日本のすばらしい文化を中国、世界に発信していく。例えば、宮崎駿をはじめとするアニメ・映画・コミック、日本の演歌・歌謡曲など、日本文化の理解に役立つはずだ。逆に、中国理解のために、小中学生から『論語』を学ぶ。また、2005年には日本で学ぶ中国人留学生は8万人を越えたが、多くの留学生の相互交流を後押ししていきたい。大学間での共同研究、企業間での資本・技術提携を促進していく。観光ブームにのり、宮崎をはじめ、日本への観光を促進しよう。地道に人対人の交流を続けていくのである。
 中国でも改革開放とともに思想の多様性、文化の相対性を理解する若い世代が育っている。文化様式における多様な存在を当然と受け入れ、異なった文化との共生を目指すことを期待して間違いない。ヒトの交流が花開く日は、必ず来る。

文責:小坂和輝

コメント (3)
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