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秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その15 愛媛県今治市大三島町の石碑

2021年06月21日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今治市役所大三島支所産業建設課、越智課長さんが秋山兄弟生誕地まで来て頂き石碑の情報

を頂きました。越智課長さんにおかれましては、度々秋山生誕地にお越し頂いておりました。

今治市大三島町野々江・野々江八幡神社の石碑「招魂碑」

1.碑   文:招魂碑

2.所 在 地:今治市大三島町野々江甲6536番地「野々江八幡神社」

3.建立年月日:不明

4.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古

5.建 立 者:不明

6.碑石大きさ:高さ・1m91㎝ 横幅・89㎝ 厚み・ 8cm

7.参考 事項:  

秋山好古が揮毫し石碑として建立されている碑は、令和2年10月1日現在53基発見されていますが、招魂碑と揮毫された石碑はこれ1基のみである。戊辰戦争、日清戦争時に戦死された々の霊を招いて祀る事に招魂碑を建立して慰霊をしていた。
日露戦争後は、忠魂碑となり、招魂碑と言う言葉を使わなくなる。

靖国神社も初めは、東京招魂社と言っていた。明治5年東京招魂社が建てられ、明治12年、靖国神社に改称、地方の招魂社は、昭和14年、護国神社に改称された。

今治市大三島町野々江の招魂碑の建立された年月日は不明であるが、石碑裏面に野々江地区から日清・日露戦争に出征し戦死された7名の方々の名前が刻印されている。

建立年は、やはり昭和天皇の御大典記念として建立したのではないか?ですが。

招魂碑裏面で、野々江地区から日清・日露戦争に出征し戦死された7名の方々の名前が刻印されている。野々江は、当時愛媛県越智郡岡山村野々江と称していた。

今治市大三島町野々江甲6536番地に鎮座する「野々江八幡神社」で正面には立派な大島石で造った社号碑が建立されている。野々江八幡神社は大山祇神社の南約1kmにあり、旧越智郡岡山村の村社であった。

大三島町は、昭和30年3月31日、越智郡鏡村と宮浦村が合併し、大三島町となる。

その後昭和31年9月23日、岡山村が合併。

大三島町は、平成17年1月16日、菊間町、大西町、波方町、玉川町、朝倉村、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、関前町と合併して今治市となり、大三島町の自治体としては消滅した。

社殿には石段を上り行くが、聖域を示す注連石の右側に「招魂碑」は建立されている。

忠魂碑とは、

忠魂碑とは、戦死者の慰霊碑で。

日露戦争前には記念碑,招魂碑と呼ばれるものが建てられたが,忠魂碑として日本全国に広がっていくのは日露戦争以後のことで,大正・昭和天皇の即位記念事業として,市町村の在郷軍人分会が献金を募集し,小学校の一角に建立したものが多い。
碑文題額の揮毫者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六、東郷平八郎の例が多く,除幕式は慰霊祭を兼ねて3月10日の陸軍記念日に挙行されていた。

陸軍記念日

3月10日は、戦前我が国では陸軍記念日であった。
これは、明治38年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天を占領して奉天城に入城した日で、明治39年3月10日が第1回陸軍記念日である。

招魂碑の取材も一段落し、越智課長さんのご案内で越智喜平さん宅をご案内頂き秋山好古揮毫の軸物・扁額等々を拝見させて頂いた。

越智喜平氏は、大三島町(旧岡山村)から公用で度々松山に伺い、その都度秋山好古北豫中学校長宅を訪れていた。そして揮毫をお願いした。

好古は、あなたの気質が気に入ったと言われ揮毫してくれたと先代から聞いております。我が家の家宝として大切に保存致しておりますと現当主は言われた。・・この時好古は余程ご機嫌が良かったのだろう!!気持ちよく揮毫をしたのだから。

御先神社と好古が揮毫された未だ表装されていなかった。

好古が揮毫した大切なものをこの護り巻紙に巻き、越智喜平氏に贈ったのでしょう。
大切に保存されていた。

秋山好古が揮毫した書を軸物に表装しその収納箱で、箱書きされていた。

初めて見た貴重なものである。

そしてもう一つ貴重な扁額を拝見した。

岩倉具徳の揮毫「忠烈」で揮毫者は、岩倉具視の孫である。

肩書に「従三位男爵 岩倉具徳と書かれている。

岩倉具徳が大山祇神社参拝に来られた時に、越智家がお世話をし、その御礼に揮毫されたのではないかと推察する。

ここから本題から外れ寄り道をします。(伊藤博文のことについて)

大三島町には凄い神社があります。

それは、大山祇神社です。

御祭神は、大山積大神で天照大神の兄君にあたり吾國の國主、木花開邪姫命を后妃とせられ我が国の建国の大神様で、古来より地神海神兼備の霊神、日本民族の総氏神として日本総鎮守と御社名申し上げた。歴代朝廷の崇敬厚く、延喜時代伊予国の一宮に定められ、明治の管制により四国唯一の国幣大社に定められた。(愛媛県神社誌から引用)

また、宝物館には、武将が使った全国の国宝・国の重要文化財の指定を受けた武具類の約8割が所蔵保管展示されており、中でも源義経が源平合戦に大勝を収めた後奉納した国宝「赤絲威鎧」が有名である。

近代においても、日本の初代総理大臣・伊藤博文、旧帝國海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝があるそうです。

大山祇神社の説明板。

初代内閣総理大臣、伊藤博文が明治42年3月14日、松山を訪問した時、3月22日に大山祇神社を参拝され揮毫した石碑が大山祇神社入口建立されている。

そして境内回廊には、第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が秋山好古、新田長次郎の案内で大山祇神社を参拝した記念の写真が開示してある。

神社正面入口にある伊藤博文が公の場で揮毫した最後の書「大日本総鎮守大山衹神社」の石碑が建立されている。

伊予市灘町にある「五色浜神社」の社号額。

明治初年まで伊豫稲荷神社境外末社。明治の初め、天神社と住吉神社が合併して五色濱神社と改称し村社に列せられた。
 神宝は菅原道真公の自画像と伊藤博文の書いた社号額である。

五色濱神社の社号額は、初代内閣総理大臣、伊藤博文元勲が明治42年3月14日に松山に来られたとき、郡中(現、伊予市)を訪れ揮毫された。

五色濱神社の前には郡中発展に多大な功績があった「藤谷豊城」翁の銅像があり台座に秋山好古が「藤谷豊城翁」と揮毫している。

「藤谷豊城」翁の銅像。

参考資料:

藤谷豊城は、(安政6―昭和8年)安政6年6月29日、大洲藩士稲葉六良右衛門の第三子として誕生、明治8年10月郡中藤谷家の養子として入籍した。明治11年には20歳で町会議員その後郡連合会議員、町政・郡政に参画すること40年の長きに及び、この間郡中銀行・南予鉄道会社・伊予汽船会社設立に参画など地方の振興に寄与した。 明治44年2月郡中町長に就任するや苦しい財政事情を克服して郡中港の大改修を実施しこれが郡中の発展の根源になった。港南の地に五色濱神社の建立を計り、町内各社も合祀して完成した。藤谷豊城の功績を顕彰して大正13年10月五色濱神社前に銅像を建立したが太平洋戦争に金属供出で消失、昭和48年3月28日再建立された。

五色浜神社の説明板。

伊予市の伊予灘に面した五色浜海岸「五色浜のねがい石」の説明石碑。

伊藤博文の栽松記念碑。

松山市梅津寺駅東に画像の記念碑がある。

その近くに松が植えられている。

この松は、明治42年3月に伊藤博文公と有志の寄付を得て種を蒔き育てられたもので、この由来を後世に伝えるために昭和5年に建立されたのが栽松石碑である。
伊藤博文公は平安末期から戦国時代にかけて伊予の守護、豪族河野氏の一族の子孫にあたり、道後温泉を訪れた際に「当国は即ち祖先の故郷なり」と演説した。

満州から帰りましたら、再び松山に来て先祖の河野通直の300回忌を行いたくその説はお世話になりますが宜しくと挨拶した。

伊藤博文の栽松記念碑の説明板。

松山近郊には伊藤博文は色んな痕跡を残している。

明治42年3月、松山道後温泉に来訪した時の記念のお手植えの松と紹介された時期があったが、伊藤博文からのご喜捨の一部で松の種を蒔き育てた松である。松は沢山あったが松食い虫被害で枯れ、現存はこの1本のみとなった。
所在地は、伊予鉄道高浜線梅津寺駅東にあり、伊藤博文の栽松記念碑はこれより80m程東にある。

伊藤博文の栽松記念碑の説明板の上にある丘には「秋山好古・秋山眞之」兄弟の銅像がある。

伊藤博文の栽松記念碑、説明板、松の木、丘にある「秋山好古・秋山眞之」兄弟の銅像がある直ぐ側を画像のような電車が走っている。

梅津寺駅まえにある梅津寺公園には、明治28年松山中学英語教師として赴任した夏目漱石が実際に乗車した坊ちゃん列車が保存展示されている。

昭和42年10月14日、日本国有鉄道から「鉄道記念物」として指定された。

復活し市内電車の軌道営業運転している坊っちゃん列車。 

伊予鉄道が、平成13年にディーゼル方式を採用した坊っちゃん列車の復元を発表、運行開始した。列車は、往時の坊っちゃん列車をモデルにディーゼル動力方式を採用、汽笛は同社OBの協力を得、制服も当時のものを復元するなど、できるだけ本格的なものにしようとして外観復元した。

煙突からは水蒸気を使用したダミーの煙を出す発煙装置を採用する等の工夫がなされている。

第1編成車両:ディーゼル機関車D1形 1 + 客車ハ1形 1・2

第2編成車両:ディーゼル機関車D2形 14 + ハ31形 31

製 作 所 :新潟鐵工所 (新潟市)

明治42年3月14日、松山道後温泉に来訪した伊藤博文元勲が人力車で道後温泉街を行く。

伊予の守護、豪族河野氏の一族、伊藤博文の祖先である「林淡路守通起」の記念碑が淡路ヶ峠に建立されている。

場所は、松山市畑寺町で明治42年3月に松山に来た伊藤博文は、道後から淡路ヶ峠を仰ぎ見たとある資料に記述がある。

淡路ヶ峠の説明板。

淡路ヶ峠は標高275mで大きな立派な展望デッキがある。

淡路ヶ峠標高275mの展望デッキからの眺望で、松山平野が一望できる。

風景を撮影するには午前中が良い、午後は逆光となる。

福岡市博多湾にある「史跡 元寇防塁」石碑。

伊予守護、河野通有が鎌倉幕府の命により蒙古襲来弘安の役で博多湾に出征の際、大山祇神社に戦勝祈願をした時の大絵馬も宝物館に展示されている。
博多湾では、蒙古と勇敢に戦い「河野通有は、石築地の前に陣を張って決死の覚悟で戦ったことから、「河野の後築地」と称賛された。その伊予守護、河野氏の末裔が、初代内閣総理大臣、伊藤博文である。

写真は、私の友人福岡県春日市在住の「尾上 五男氏」に頼んで撮影し送ってもらった。

復元された元寇防塁。

蒙古襲来(元寇)日本を守るために備えて築かれた元寇防塁、蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。

防塁の一部は築造時の高さに復元され、見学できるようになっている。

元寇との戦いの最前線であった福岡・博多には,今でも数多くの蒙古襲来に関係する史跡が残っており画像の防塁もその一つである。

伊藤博文の祖に当たる伊予国守護、河野通有は防塁の前に陣を張り勇敢に戦った。歴史書にも出てくる河野の後築地として有名である。

写真は、福岡県春日市在住の「尾上 五男氏」撮影。

大山祇神社境内回廊には、大正14年5月6日、第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が秋山好古、新田長次郎の案内で大山祇神社を参拝した記念の写真が開示してある。回廊に展示してあるので大分傷んでいる。

秋山兄弟生誕地所蔵の「第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が秋山好古、新田長次郎の案内で大山祇神社を参拝した記念の写真」

秋山兄弟生誕地所蔵の「第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が秋山好古、新田長次郎の案内で大山祇神社を参拝した記念の写真」4名をピックアップ。

左から「秋山好古・清浦奎吾・新田長次郎・愛媛県知事、佐竹義文」

広島県竹原市本町一丁目16番22号にある真言宗醍醐派長生寺。

長生寺の住職さんで、伊予国最後の守護河野通直の説明を通直の墓所前で伺った。

長生寺は度々災害で本堂や伽藍は崩壊し再建して来たが、河野通直の墓所は災害の被害には遭遇せず当時のまま残っているとの由。

註:初代内閣総理大臣、伊藤博文の祖は河野氏で、満州ハルピンから帰ったら先祖の河野通直の300回忌を松山市で行うと言われ満州に行かれたが、明治42年10月26日、ハルピンの駅で暗殺された。

その後親族が相集まり400回忌の法要をここ長生寺でされたそうだ。その時伊藤博文の法要も一緒にされたのではないでしょうか。

広島県竹原市本町一丁目16番22号、長生寺にある、最後の伊予守護・河野通直の墓所。

広島県竹原市観光協会が設置している「伊予守護・河野通直の墓」説明板。

長生寺に祀られている能島村上元吉と河野通直の位牌。

画像右が河野通直の位牌で、左の村上元吉の位牌と形がそっくりで新しい。

河野通直400回忌の法要をここ長生寺でされたそうだ。その時通直の位牌がなく村上元吉の位牌を模して作ったと住職から伺った。

平成15年5月12日、長生寺を訪問した時住職と談話その時許可を頂き撮影した村上元吉と河野通直の位牌。

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