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高松城(玉藻公園)研修

2014年11月12日 | 伊予松山歴史散策
松山観光コンベンション協会所属の松山ボランティアガイドの会の研修に今年は、伊予松山藩と非常に関係の深い高松城と栗林公園を研修の地に選定し11月9日、日帰り研修を行って来た。この日は一日雨天で残念であった。
高松城は、日本三代海城の一つで、日本の香川県高松市玉藻町にあった城である。別名・玉藻城、国の史跡に指定されている。別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。
近世城郭の海城としては、最初で最大で、本丸に建てられた天守一層は、萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上層が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また明治17年(1884)にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。
現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。
安土桃山時代
• 天正15年(1587)生駒親正が讃岐国17万6千石の大名に封ぜられ引田城に入城する。
• 同年、引田城は手狭であったので聖通寺城に移る。
• 天正16年(1588)聖通寺城でも不便を感じ、香東郡篦原庄玉藻浦に高松城の築城を開始する。
• 天正18年(1590)高松城完成。
江戸時代
• 寛永16年(1639)生駒氏4代・高俊、生駒騒動により出羽国矢島藩1万石に転封となる。
• 寛永19年(1642)水戸藩初代藩主・徳川頼房の子の松平頼重が12万石で入封。城の整備に着手する。2代頼常にも改修が引き継がれる。
• 正保元年(1644)頼重、城内の飲料水確保のため水道を造り、城下の亀井・大井戸・今井戸より水を引く。
• 寛文9年(1669)小倉城を模した3層5階の天守が完成。頼重隠居。隠居所として城の南西に栗林公園を造築する。
• 寛文11年(1671)松平氏による城の大改修が始まる。
近代・現代
• 明治17年(1884)老朽化のため天守が破却される。
• 明治23年(1890)高松城、旧藩主松平家に払い下げられる。
• 昭和29年(1954)高松市が松平家より高松城を譲渡される。
• 昭和30年(1955)3月2日、国の史跡に指定される。5月5日、高松市立玉藻公園として一般公開される。
• 平成18年(2006)4月6日、日本100名城(77番)に選定される。
• 平成19年(2007)天守台の解体・補強・積み直し工事を開始。
• 平成25年(2913)3月20日より天守台の一般公開を再開。


松平高松藩、高松城跡表示板
徳川御三家は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のことを御三家呼ばれた。家康の9男、徳川義直・尾張徳川家・62万石 10男、徳川頼宣・紀州徳川家・56万石 11男、徳川頼房・水戸徳川家・35万石、御三家も血統の保存対策として支藩を持つ必要があり、御連枝と呼ばれる分家を持った。高松藩は、水戸徳川家の水戸連枝親藩である。なお、尾張徳川家連枝親藩が美濃高須松平家、紀州徳川家連枝親藩は、伊予西条松平家が御三家支えた。
高松藩初代藩主は、水戸徳川長男:松平頼重が、水戸徳川家を三男光圀が第二代目水戸藩主となる。しかし光圀は、その後長男を高松藩主に、高松藩主の長男を本家水戸家の藩主とする。
徳川頼房は長男頼重をもうけたが、兄の尾張義直、紀伊頼宣にまだ嫡男がなかったことから、それをはばかり、頼重を高松藩主にした。やがて、二人の兄にも子が生まれた後、水戸光圀が生まれたため、これを嫡男とした。

高松藩の第9代藩主松平 頼恕 (まつだいら よりひろ)は、その四男、松平勝(かつ)成(しげ)が、伊予松山第13代と第15代藩主となる。


桜御門跡、昭和20年7月4日、高松空襲により焼失。


平成17年から25年に渡り天守台の修復工事が行われた。今後は天守の復元が待たれる。


平成17年から25年に渡り天守台の修復工事が行われた際、発掘された地階部分。


二ノ丸から本丸を結ぶ鞘(さや)橋(ばし)で、江戸中期頃に屋根が付帯された。


北側にある水門から海水が内堀に入り、一緒にタイやチヌが入り込み生息している。


高松城唯一の藩政時代の建造物、月見櫓・水手御門・渡櫓。


国指定重要文化財「月見櫓」。


月見櫓内部。普段は開放して無く、日曜日のみ見学できる。


讃岐の名産「庵治石」で建造された披雲閣庭園にある立派な灯篭。


披雲閣で、藩政時代藩主の住居として使われていたが、明治時代老朽化により取り壊された。現在の建物は、大正6年立て替えられた。(旧松平家高松の別宅)


旧松平家高松の別宅の表示板。


史跡高松城跡パンフ。


コメント
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