チーグラー触媒(I社長の決断)
ポリエチレンと日本人が初めて出会ったのは、第二次世界大戦中敵国から接収したレーダーの絶縁材料として使われていたものであったと言われる。
余談となるが、筆者の父は先の大戦中、広島県呉の海軍工廠に勤務しており、瀬戸内海の秘密基地で主に潜水艦のメンテナンスに従事していたそうである。開戦後同盟国ドイツの技術者が基地を訪れた際、日本の潜水艦を診て電気系統の遅れを指摘し、「10年は遅れている。これでよく戦争を始めたものだ。」と言っていたと聞いたそうだ。日本にレーダーはまだ実用化されていなかった。
しかし、当時ポリエチレンの製造には1000気圧以上もの圧力を必要とした。これを常圧でも合成可能にしたのが、ドイツのカール・チーグラー博士の手になるチーグラー触媒である。チーグラー博士が実験室でこの合成法を見出したのは1953年(昭和28年)とある。
翌、昭和29年M社の初代社長(会長)となるI氏は欧米視察団の一員としてドイツを訪れた際、チーグラー博士のマックスブランク石炭研究所を訪れてその成果を目にする。しかし、その方法によって合成されたポリエチレンはコーヒー色であり、果たしてこれが工業化に耐え得るものか全く予測できないものであった。
しかし、I社長は決断する。独占契約料はオプション料を合わせて、当時の価格で120万ドル(邦貨で4億3,200万円)。これはM社の発足時の資本金2億5,000万円をはるかに凌ぐものであった。しかも工業化のノウハウは全くなかったのである。ノウハウなしの技術導入は、それまでのわが国にほとんど例のないことであった。とある。その決断が低圧法ポリエチレンをわが国で最初に工業化する栄誉をM社にもたらし、チーグラー触媒とその重合技術において世界を凌駕し、その後のM社に、同業他社に抜きん出たロイヤリティ収入さえもたらすことになる。
この稿は、M社20年史及び30年史を参考(一部抜粋)にさせていただきました。
ポリエチレンと日本人が初めて出会ったのは、第二次世界大戦中敵国から接収したレーダーの絶縁材料として使われていたものであったと言われる。
余談となるが、筆者の父は先の大戦中、広島県呉の海軍工廠に勤務しており、瀬戸内海の秘密基地で主に潜水艦のメンテナンスに従事していたそうである。開戦後同盟国ドイツの技術者が基地を訪れた際、日本の潜水艦を診て電気系統の遅れを指摘し、「10年は遅れている。これでよく戦争を始めたものだ。」と言っていたと聞いたそうだ。日本にレーダーはまだ実用化されていなかった。
しかし、当時ポリエチレンの製造には1000気圧以上もの圧力を必要とした。これを常圧でも合成可能にしたのが、ドイツのカール・チーグラー博士の手になるチーグラー触媒である。チーグラー博士が実験室でこの合成法を見出したのは1953年(昭和28年)とある。
翌、昭和29年M社の初代社長(会長)となるI氏は欧米視察団の一員としてドイツを訪れた際、チーグラー博士のマックスブランク石炭研究所を訪れてその成果を目にする。しかし、その方法によって合成されたポリエチレンはコーヒー色であり、果たしてこれが工業化に耐え得るものか全く予測できないものであった。
しかし、I社長は決断する。独占契約料はオプション料を合わせて、当時の価格で120万ドル(邦貨で4億3,200万円)。これはM社の発足時の資本金2億5,000万円をはるかに凌ぐものであった。しかも工業化のノウハウは全くなかったのである。ノウハウなしの技術導入は、それまでのわが国にほとんど例のないことであった。とある。その決断が低圧法ポリエチレンをわが国で最初に工業化する栄誉をM社にもたらし、チーグラー触媒とその重合技術において世界を凌駕し、その後のM社に、同業他社に抜きん出たロイヤリティ収入さえもたらすことになる。
この稿は、M社20年史及び30年史を参考(一部抜粋)にさせていただきました。