中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

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プロジェクトZ第10回

2008年05月04日 | Weblog
チーグラー触媒(I社長の決断)

ポリエチレンと日本人が初めて出会ったのは、第二次世界大戦中敵国から接収したレーダーの絶縁材料として使われていたものであったと言われる。

余談となるが、筆者の父は先の大戦中、広島県呉の海軍工廠に勤務しており、瀬戸内海の秘密基地で主に潜水艦のメンテナンスに従事していたそうである。開戦後同盟国ドイツの技術者が基地を訪れた際、日本の潜水艦を診て電気系統の遅れを指摘し、「10年は遅れている。これでよく戦争を始めたものだ。」と言っていたと聞いたそうだ。日本にレーダーはまだ実用化されていなかった。

 しかし、当時ポリエチレンの製造には1000気圧以上もの圧力を必要とした。これを常圧でも合成可能にしたのが、ドイツのカール・チーグラー博士の手になるチーグラー触媒である。チーグラー博士が実験室でこの合成法を見出したのは1953年(昭和28年)とある。

 翌、昭和29年M社の初代社長(会長)となるI氏は欧米視察団の一員としてドイツを訪れた際、チーグラー博士のマックスブランク石炭研究所を訪れてその成果を目にする。しかし、その方法によって合成されたポリエチレンはコーヒー色であり、果たしてこれが工業化に耐え得るものか全く予測できないものであった。

 しかし、I社長は決断する。独占契約料はオプション料を合わせて、当時の価格で120万ドル(邦貨で4億3,200万円)。これはM社の発足時の資本金2億5,000万円をはるかに凌ぐものであった。しかも工業化のノウハウは全くなかったのである。ノウハウなしの技術導入は、それまでのわが国にほとんど例のないことであった。とある。その決断が低圧法ポリエチレンをわが国で最初に工業化する栄誉をM社にもたらし、チーグラー触媒とその重合技術において世界を凌駕し、その後のM社に、同業他社に抜きん出たロイヤリティ収入さえもたらすことになる。

 
   この稿は、M社20年史及び30年史を参考(一部抜粋)にさせていただきました。
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プロジェクトZ第9回

2008年05月02日 | Weblog
触媒科学国際シンポジウム

 2003年3月。C県K市KAホールで大手化学会社であるM社による第1回表記シンポジウムが開催された。わが国の化学会社1社で開催するシンポジウムとしては、そこに集まった学者のレベルからして破格のものであった。ノーベル賞受賞者2名を含む国内外12名の講演者は皆、ポリマー重合触媒開発の先導者であった。その講演者の中で、トリを務めたのは主催会社であるM社のK博士であった。K博士あればこそ、このシンポジウムにこれだけの学者を呼ぶことが出来たともいわれる。

 ポリエチレンとかポリプロピレンという言葉は、今では多くの人が知るところとなった。汎用樹脂として世界中で生産され、生活に深く入り込んでいるプラスチックであることは論を待たない。2003年当時で世界の生産量は8000万トンを超えているが、その多くはM社K博士らが開発した高性能触媒から生産されていた。

 「ご列席の皆様、本日はここに第1回触媒科学国際シンポジウムを開催することができましたことを大変光栄に思っております。」M社N社長の開会の挨拶である。

 M社の起源を遡れば、そこにまた素晴らしい先人がおられた。すでに故人となられて久しいが、この晴れやかな式典に天国で感慨を深くされたことであろう。M社初代社長であるその人の感性(功績)がK博士の業績につながり、ここに世界にさえ発信できるシンポジウムを開催出来たのである。


     この稿は、M社関連のネット情報を参考にし、引用させていただきました。

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