燃える闘魂
落語家の三遊亭円楽さんが、72歳の若さで亡くなったとの訃報に続いて、自宅療養中だったアントニオ猪木さんが心不全で亡くなられた。79歳であった。2月生まれなので、学年は私など団塊世代先頭集団より5学年先輩となる。就職した当時、独身寮でも、職場でも、部活動でも中心的存在で活躍していた先輩の中心がその5学年先輩たちだったことで、猪木さんと交流があったわけでもないが、今更にこの年代の先輩たちには親しみを感じる。
力道山に始まるプロレスブームで、日本にも多くのプロレスラーが輩出したが、猪木さんは、自分にとっても別格の存在であったことは間違いない。プロボクシングヘビー級世界王者アリとの一戦は、猪木さんが単なるショーマンではなく、かつてこの国を支配した武士であり、本物の格闘家であることを示した。
ただ、強いだけでなく、優れた感受性と人間としての優しさに溢れていた人物であったことは多くの方々が語られておられる通りであろう。
これまでも多くの有名人の訃報に接した。政治家、芸能人、往年のプロスポーツ選手、そして亡くなった年齢は、段々と自分の年齢に近づいてくる。勿論、円楽さんのように2学年も若い方も亡くなる時は亡くなってしまう。すでに男性の平均年齢は80歳を超えていると思うが、70歳代の方の訃報は多い。傘寿80歳の壁とも言われたりする。すなわちすでに後期高齢者に入った自分にとって、死が現実的なものとして近づいてくることを感じる昨今でもある。
会社でお世話になった先輩諸氏で、年賀状を交換していた方たちとも自身が古希を迎えた時期に交際を絶ったため、その後の消息は分からない。
敗戦そして戦後という、この国の未曽有の国難の中で、共に育まれた戦友、先輩たちとも言える。そして終戦時、たとえ赤ん坊で何の記憶もなくても、団塊世代のように終戦後に生を受けた世代とは世代間の見えない差がるように感じていた。猪木さんなどその先輩世代の代表であろう。
テレビで観た話だけれど、なかにし礼さんが、療養中の石原裕次郎さんから直接作詞を依頼され、「わが人生に悔いなし」という詞を書いた。その時、作曲を誰に依頼するかと、なかにし礼が考えた時、彼は自分と同じ終戦後満州からの引揚者であった加藤登紀子に白羽の矢を立てた。加藤は昭和18年12月の生まれで、引き上げ時の記憶はない。しかし、なかにしにとっては、同じ満州からの引揚者としての強烈な同朋意識があったように話されていた。「わが人生に悔いなし」は、大スター裕次郎を葬送する大ヒット曲となった。
難病を患いながらも、燃える闘魂は生き続けた。壮絶な格闘界でのストレスが、彼の体に徐々に異変をもたらせていたとも感じるのだが、最後まで立派に生き抜かれた姿は、NHKの「クローズアップ現代」でもアップされ、人々にエールを送り続ける。それはどのような世界に生きたとしても、本物こそが放つオーラなのだ。