弔辞
テレ朝のモーニングショーでの国葬友人代表のスピーチを、電通作と述べたレギラーコメンテータ氏への批判がしばらく続いた。「電通作であるように自分には感じた」くらいなら個人的な意見で済むところを、いかにも電通が演出したというように言い切ったため、これは謝罪しかない。
もっとも菅前総理の弔辞の内容についても批判がなかったわけでもない。山県有朋本の引用は、そもそも先に安倍氏が親しかった財界人への弔辞の一節に使っており、明らかなコピペであったとのこと。内容も礼賛が過ぎるとの批判も聞いた。また3Aと呼ばれた安倍氏、麻生氏、甘利氏こそ友人仲間で、菅氏の友人代表にも異論があったようだ。私は全く内容を聞いても読んでもいないので、評価できないが、弔辞とは礼賛の塊で、そこは仕方がない。悪人も死して仏となるのである。
昔から優れた弔辞は発した人の評価を高める。もっとも政治家の場合は、電通は関与しなくても専門家がいるそうで、昔、池田勇人内閣の時代(1960年)。講演会で池田総理の目の前で、当時の社会党委員長浅沼稲次郎氏が、壇上に駆け上がった青年にナイフで刺されて亡くなった。この時の池田総理の弔辞(国会における追討演説)が秀逸だったが、名秘書ブーチャンこと伊藤昌哉氏の手になるものだったそうだ。単なる礼賛ではない、本物の追悼だ。
『前段省略・・・ 淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郞教授や高校時代の河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。
大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。
君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。
戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。
翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。中略・・・
淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。「沼は演説百姓よ よごれた服にボロカバン きょうは本所の公会堂 あすは京都の辻の寺」これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。中略・・・
君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。
私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。
ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。』
池田勇人君の故議員淺沼稻次郎君に対する追悼演説 1960年 による