コディン(承前)

続きです。

ある日、町にコレラが広がる。
住人たちは逃げだし、コディンやアドリアンたちも町からはなれた台地にテントを張り避難。
じき、アドリアンの母親の体調が悪くなる。
が、コディンの親身の看病により一命をとりとめる。

このコレラ騒動のとき、ある事件が起こる。
コディンの情婦であるイレーヌと、コディンのもう一人の、形ばかりの義兄弟であるアレクシスとが親しくなっていたのだ。
それに気づいたアドリアンは、コディンにそのことを勘づかれないように振る舞う。
けれど、結局コディンの知るところに。
コディンはアドリアンに、義兄弟の契りの解消をもとめる。

《「だって、だってよ、この世じゃ兄弟愛なんて成り立たねえからさ……」》

無償の愛をもとめる無法者、コディンの物語。
このあと、話は一直線に惨劇へと進む。

「キール・ニコラウス」
再び3人称。
アドリアンは14歳。
小学校を卒業し、酒場のボーイになったものの、その奴隷のような生活とは1年で縁を切り、いまはただ読書をしたり、ぶらついたりしている。

キール・ニコラスは近所に住む、菓子屋をいとなむアルバニア人。
金もなければ、若くもなく、薄汚い、年齢不詳のおじさん。
外国人のため、近所からさげすまれ、《ヴェネティク》――いかがわしい外国人などと呼ばれている。
ニコラスが騎兵隊兵舎で、兵士たちに、プラチンタとコヴリギを売る許可を得てからは、「金は貯まる一方だねえ!」などと、おかみ連中たちにやっかまれる始末。
ニコラスはアドリアンに、こうぼやく。

《「――俺が1スーもなく、しおたれて、籠に3個のコヴリギを入れて、いろんな街を流していた頃は、俺は《シラミのたかった奴》だったさ。20年間働きづめで体もぼろぼろになって、ようやく今日では2スー貯えられるようになると、まわりの連中は何ともさもしい目でこちらをじろじろ見ちゃ、《薄汚いアルバニア人》呼ばわりするのさ。――」》

さて、菓子屋の手伝いをはじめたアドリアンは、最初こそ近所の子どもたちから物笑いにされる。
が、じき、連中はお愛想をいっては菓子をねだるように。
なかには、きわどい格好をして菓子をねだる女の子もいて、女性に甘いニコラスはつい菓子をあげてしまったりする。

ニコラスには、じつは年下の内縁の妻がいる。
レレア・ズィンカという名前。
レレアは、もとはタバコ工場の女工で、羽振りのいい男に見初められ、結婚した。
が、1年後、17歳のときにニコラスに口説かれて駆け落ちしたのだった。
いまではこの奥さんは、結核のためやつれ果て、なかばやけになっている。

レレア・ズィンカは、毎週土曜日に大掃除をし、部屋の模様替えをする。
日曜日にはパーティーを開き乱痴気騒ぎ。
それから、ニコラスを罵倒したり、連れてきたアコーディオン弾きを怒ったり、女友だちにいやみをいったり。

それでみんな腹を立てるが、翌週にはまたやってきて同じことをくり返す。
ニコラスは、奥さんのわがままをなんでも聞いてやろうとする。

ニコラスは兵舎でも菓子を売っている。
ところが、売り子も兵隊も盗みをする。
兵舎のなかでは、上官が部下をいたぶっていて、アドリアンもそれを目の当たりにする。
ニコラスは兵舎のことを「不幸製造工場」と呼んでいる。

さて、こうして外国人であることを気兼ねして、平身低頭して暮らしているニコラスだが、夜から早朝、お菓子づくりをしているときは本来の姿にもどる。

《キール・ニコラスが頭上で透明になった生地をくるくると旋回させている様を、アドリアンが目の当たりにするこの時こそ、恐るべき敵の猛攻と闘っている英雄の姿を彷彿とさせるのだ。》

この作品には、読書にまつわるエピソードがおさめられている。
アドリアンは本好きだが、ニコラスはそうではない。
「本のなかには美しいことや、真実が書かれているよ」とアドリアンがいっても、ニコラスはとりあわない。

ニコラスは、アテネで哲学の大物教授になったという、自分の伯父の話をアドリアンに聞かせる。
この伯父は、自分だけいい暮らしをして、ほかの連中を見下していた。
兄弟や親戚にろくに援助もしなかった。
本というものは、それを書く連中を立派にはしていない。

ニコラスの話を聞き、アドリアンは動揺する。
人間を愛さずに、どうして人間のためになる本なんか書けるんだろうかと、アドリアンは考える。
ちょうどそのとき読んでいたのが、ドストエフスキーの「罪と罰」。
ドストエフスキーも、ニコラスの哲学教授のように無情な心のもち主なのだろうか。

それを確かめようと、アドリアンは中学校に通っている友人に声をかける。
そして、馬鹿にされながらも、ドストエフスキーの自伝的作品「死の家の記録」を図書室から借りてきてもらう。
一心不乱に本を読んだアドリアンは、ドストエフスキーに対し申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
そして、ニコラスの家に駆けこみ、その内容を読んで聞かせる。
ニコラスは、自分の信念は曲げない。
でも、アドリアンの話を最後まで黙って聞いてくれた――。

菓子屋のキール・ニコラスを主人公とした、スケッチ風の作品。
アルバニア人のためさげすまれ、あなどられながらも、キール・ニコラスは誠実にはたらく。

作者のイストラティも、父親がギリシア人、母親がルーマニア人であり、しかも私生児だった。
本書の作品はすべて父親を乞うような話だけれど、それは作者の境遇から説明できるかもしれない。

また、「コディン」と「キール・ニコラス」を読んで印象に残るのは、アドリアンの母親の立派さ。
日雇いの洗濯婦であるこのお母さんは、コモロフカに流れ着いても、ニワトリを育て、鉢植えの手入れを怠らない。
アドリアンには、こざっぱりした身なりをするように気をくばる。

コディンがはじめてアドリアンを認めたのは、お使いを頼んだとき、アドリアンが駄賃をほしがらなかったから。
また、キール・ニコラスがアドリアンを認めたのは、お菓子を買ったあと、アドリアンがほの子たちとちがって泥坊猫(フリボン)みたいに目をそらさず、自分を真っ直ぐみたからだ。
いずれも、母親の薫陶のたまものだ。

全体をおおう貧しさも、特徴のひとつ。
貧しさは痛ましいけれど、ものごとをシンプルにし、作品に力強さをあたえる場合がある。
本書もそんな作品といえるだろう。

最後にもうひとつ。
この小説は、少年が世間で出会った人物についてえがいたものだ。
この、「少年が世間で出会った人物についてえがく」という形式は、それだけで作品の面白さをいくぶんか保証してくれるものだろう。
この形式で書かれた、いろんな国の小説を読んだら、きっと楽しいにちがいないと思う。


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