光ほのか

「光ほのか」(マルグリット・オード 新潮社 1994)
訳は、堀口大学。
新潮文庫の一冊。
発行は1956年で、手元にあるのは復刊版。

冒頭に、訳者によるはしがきがついている。
作者のマルグリット・オードは、中部フランスの寒村に生まれ、育児院で成長。
羊飼い娘をしていたが、パリへ出て、裁縫女になる。
が、眼を病み、自身のなぐさみに書いた「孤児マリイ」が評判になってフェミナ賞を受賞。
不意の収入を得たが、それは甥たちの養育費に当て、自分は生涯屋根裏部屋に暮らしたという。

本書は、こんな経歴をもつ作者による絶筆作品。
訳者によれば、作者の人生が大いに反映されているとのこと。

ぜんぜん知らない作家だったけれど、この作品の美しさには、大いに心をうごかされた。
日本の作家でいうと、幸田文を思い起こさせるような作風。

では、簡単にストーリーを。
表題の「光ほのか」というのは、女主人公のあだ名。
原題は、「ドゥース・リュミエール」。
普通ならこれをそのままタイトルにするだろうけれど、「光ほのか」というタイトルは、主人公のあだ名というだけでなく、作品全体に象徴として響いている。
そのため、訳す必要があったと訳者ははしがきで書いている。

主人公は本名エグランティヌ・リュミエール。
でも、ここは訳者に習って「光ほのか」と呼ぼう。
ほのかは祖父と2人暮らし。
祖父は、果樹園で小作人としてはたらいている。

ほのかが生まれたとき、母は亡くなってしまった。
そのとき母を追い、父も死んでしまった。
祖父はふさぎこみ、借財が増え、結果もっていた果樹園を手放すことになってしまった。
祖父がいまはたらいている果樹園は、もとは自分のものだったものだ。

おかげで、祖父はほのかのことをうとましく思っている。
ほかに、家にはトゥー坊という名前の、ほのかの弟分の犬がいる。
祖父がふさぎこんでいるとき、ほのかはクラリッス小母さんに預けられていた。
その小母さんの家から、祖父の家にもどるとき、ほのかが拾ったのがこのトゥー坊だ。

こんな境遇のほのかだけれど、性格は怜悧で活発。
そして、とても温良。

前半の、娘時代の描写は幸福に満ちている。
果樹園の主人の息子であるノエル少年と知りあい、トゥー坊と一緒に松林の池(ほのかの父が身投げした池だ)にでかけていってよく遊ぶ。
学校にもいくようになり、最初こそいじめられるけれど、じき優しくしてくれる友人ができる。
ほのかは声が美しい。
ノエル少年とトゥー坊、そしてクラリッス小母さんと一緒に野外で遊び、歌をうたった思い出は生涯の宝となる。

そのうち、ノエル少年は遠くの学校へ通うことに。
ほのかは美しく成長。
学校を卒業してもどってきたノエルは、ほのかと再会。
再会の描写はういういしい。
2人は結婚を約束する。

このあたりまでが前半。
後半は次々と不幸が襲ってくるので、読むのがつらい。

ノエルには性悪の兄がいて、こいつが2人の仲を裂く。
身の置きどころがなくなったほのかは、パリにでて裁縫女となる。
声が美しく、音楽の好きなほのかは、隣人のオルガン弾きにみいだされ、歌をうたうようになる。
オルガン弾きも不幸を抱えている。
女優の妻に去られ、ひとり娘のクリスティヌは病気がち。
いつしか、ほのかはオルガン弾きと身を寄せあうようになるものの、脳裏にはノエルの面影があって――。

文章は3人称。
語り手の力が強く、描出話法はあまりない。
描写がとてもみずみずしく感じられるのは、現在形が多いからかもしれない。
娘時代の描写や、暴風雨といった自然描写、オルガン弾きの娘が療養している島の描写など、じつに新鮮で印象的。

以前、「いと低きもの」という小説を読んだとき、語り手の力が強く、かつ空間と時間がある、つまり「場面」がちやんとある作品は、一体どんなものになるのだろうと思ったものだった。
今回、その答えがみえたような気がする。
おそらく、それは叙事詩のようになるのだ。

ほのかはいつも受身で、自己主張に乏しい。
自分を守るということをまるでしない。
そんなことは念頭にすら思い浮かばない。

叙事詩は、たいてい運命に直面する英雄の悲劇をあつかうものだけれど、この作品で英雄の位置にあるのは、善良な娘だ。
そして、性格とは運命のことだろう。

いま調べてみたら、この作品は現在絶版とのこと。
みすず書房の「大人の本棚」シリーズなどに入れられたら、いまでも読者が得られるかもしれないと思ったけれど、どうだろうか。
あんまり古風すぎて、もはや読者は得られないだろうか。



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