タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
かぐや姫の物語
「かぐや姫の物語」(高畑勲(ほか)/著 スタジオジブリ 2013)
映画「かぐや姫の物語」をみた。
絵コンテを買い、読んだ。
みる前に一番興味があったのは、みかどが、かぐや姫にいいよる場面。
ここで、いやがるかぐや姫は、原文によれば、「きと影になりぬ」。
この場面、現代語訳によって解釈がちがう。
「竹取物語」(大井団晴彦 笠間書院 2012)では、
かぐや姫は、さっと「影になってしまった」。
「ビギナーズクラシック 竹取物語」(角川書店/編 武田友宏/執筆担当 角川書店 2001)では、
「ぱっと人間の体が消えて、発光体になった」
一体、かぐや姫は影になったのか、光ったのか。
現代の感覚では、「影になってしまった」が妥当だろう。
でも、角川版・武田さんの解説によれば、古語の「影」は、現代語と大いに異なるという。
《(影とは)現代語では、光の当たった物体の背後にできる暗い影をいうが、古語では光源や放射された光そのものをさすのがふつうだ》
《すなわち、「月影」は月や月光、「日影」は太陽や日光のことである》
では、映画はこの場面で、どちらの解釈をとったのだろう。
結論をいうと、「さっと影になってしまった」だった。
また、物語の冒頭、竹のなかにあらわれたかぐや姫の描写についても気になっていた。
原文は、「いと美しうて居たり」。
この「美しい」は、現代語訳では、「かわいい」と訳される。
でも、この「美しい」は、美しいであって、「かわいい」ではないのではないか。
そう書いたのが、「心づくしの日本語」(筑摩書房 2011)のツベタナ・クリステワさん。
では、この場面は映画ではどうか。
これも、結論だけいうと、「美しい」は美しいだった。
竹取翁はかぐや姫をみて、美しいというが、かわいいとはいわない。
しかも翁は、あらわれたかぐや姫をみて──おそらくはその神々しさに打たれて──思わずおがむ。
この描写には、クリステワさんも満足するのではないか。
さて、絵コンテの話。
この絵コンテは、登場人物の芝居がていねいに指示されている。
そのため、大変厚い。
まるで辞書のようだ。
絵コンテでいつも面白いのは、監督による書き入れ。
たとえば、かぐや姫の求婚者のひとり、倉持の皇子(くらもちのみこ)が熱弁を振るう場面。
倉持の皇子は、求婚のために必要な《蓬莱の玉の枝》を持参して、かぐや姫のもとにやってくる。
そして、これを手に入れるのにどれだけ苦労したか、とうとうとと語る。
映画では、倉持の皇子は熱弁ばかりか、大熱演までみせる。
この場面で、倉持の皇子は艱難辛苦のすえ蓬莱山にたどり着き、天女とことばを交わしたといいだす。
天女は、「自分の名前は「うかんるり」だ」と名乗ったなどと、まことしやかなことをいう。
ここは原文では、「我が名はうかんるり」。
「わが名は、うかんるり」か、「わが名、はうかんるり」かで解釈は分かれる。
「はうかんるり」では、「宝冠瑠璃」などと、漢字が当てられたりするらしい。
映画では、「うかんるり」を採用したようだ。
この場面に、こんな監督の書き入れが。
「大好きなセリフです」
「うかんるり」にしろ「ほうかんるり」にしろ、この天女の名前は意味不明。
倉持の皇子がもっともらしくでっち上げた名前にすぎない。
でも、監督はこのでっち上げが、「大好き」だという。
そのセンスが面白い。
それから、かぐや姫とお付きの女童(めらわめ)が羽根突きをする場面。
そこにはこんな書き入れが。
「羽根突きは、室町時代、毬杖(ぎっちょう)が変化して生まれた、とウィキ他にあるが、毬杖はホッケーのようなスポーツであり、ちがいが大きすぎて、にわかには信じがたい」
「平安に羽子板があったという文献はないらしいが、なかったという文献もない」
「あった」と「なかった」に下線が引いてある。
また、映画の終盤近く。
かぐや姫とその兄貴分の捨丸(すてまる)が、抱きあいながら空を飛ぶ場面。
そこには、こう。
「抱擁!」
続けて、こんなことが。
「77年の人生で、はじめてこの字を書いたのではないかと思います」
なんとも愉快な書き入れだ。
それにしても。
この映画は、人物も背景も淡彩でえがかれている。
にもかかわらず、空間がつくられ、2人が情感豊かに宙を舞う。
おそるべき力技だ。
この映画では、竹取物語を映画化するに当たって、さまざまな発明がなされている。
そのことも印象深い。
まず、5人の求婚者たちがこなさなくてはいけない難題のその出題の仕方について。
この処理はじつにスマート。
さらに、原作では一番最初にあらわれる石作の皇子(いしづくりのみこ)を、最後にもってきている。
これもうまい。
それから、かぐや姫がなぜ月に帰らなければならなくなったかについて。
なるほど、その手があったかという感じだ。
映画のかぐや姫は、原作同様みるみるうちに大きくなる。
ただ大きくなるのではなく、ものに感じて大きくなる。
羽衣伝説と接続するところだけは、いささか唐突だろうか。
でも、映画のストーリーからすれば納得のいくところ。
最後に、映画全体の感想。
映画は、「竹取物語」というより、「タケノコ物語」といった風。
淡彩の印象が強いせいだろうか、全体の印象は淡い。
よくできた、人形アニメーションをみたような後味。
くっきりとした淡さといった、矛盾した形容が思い浮かぶ。
それから。
映画をみて一番驚いたのは、月のひとたちが奏でる音楽だった。
そうか、月のひとたちはこんな音楽を演奏するのかと思ったものだった。
映画「かぐや姫の物語」をみた。
絵コンテを買い、読んだ。
みる前に一番興味があったのは、みかどが、かぐや姫にいいよる場面。
ここで、いやがるかぐや姫は、原文によれば、「きと影になりぬ」。
この場面、現代語訳によって解釈がちがう。
「竹取物語」(大井団晴彦 笠間書院 2012)では、
かぐや姫は、さっと「影になってしまった」。
「ビギナーズクラシック 竹取物語」(角川書店/編 武田友宏/執筆担当 角川書店 2001)では、
「ぱっと人間の体が消えて、発光体になった」
一体、かぐや姫は影になったのか、光ったのか。
現代の感覚では、「影になってしまった」が妥当だろう。
でも、角川版・武田さんの解説によれば、古語の「影」は、現代語と大いに異なるという。
《(影とは)現代語では、光の当たった物体の背後にできる暗い影をいうが、古語では光源や放射された光そのものをさすのがふつうだ》
《すなわち、「月影」は月や月光、「日影」は太陽や日光のことである》
では、映画はこの場面で、どちらの解釈をとったのだろう。
結論をいうと、「さっと影になってしまった」だった。
また、物語の冒頭、竹のなかにあらわれたかぐや姫の描写についても気になっていた。
原文は、「いと美しうて居たり」。
この「美しい」は、現代語訳では、「かわいい」と訳される。
でも、この「美しい」は、美しいであって、「かわいい」ではないのではないか。
そう書いたのが、「心づくしの日本語」(筑摩書房 2011)のツベタナ・クリステワさん。
では、この場面は映画ではどうか。
これも、結論だけいうと、「美しい」は美しいだった。
竹取翁はかぐや姫をみて、美しいというが、かわいいとはいわない。
しかも翁は、あらわれたかぐや姫をみて──おそらくはその神々しさに打たれて──思わずおがむ。
この描写には、クリステワさんも満足するのではないか。
さて、絵コンテの話。
この絵コンテは、登場人物の芝居がていねいに指示されている。
そのため、大変厚い。
まるで辞書のようだ。
絵コンテでいつも面白いのは、監督による書き入れ。
たとえば、かぐや姫の求婚者のひとり、倉持の皇子(くらもちのみこ)が熱弁を振るう場面。
倉持の皇子は、求婚のために必要な《蓬莱の玉の枝》を持参して、かぐや姫のもとにやってくる。
そして、これを手に入れるのにどれだけ苦労したか、とうとうとと語る。
映画では、倉持の皇子は熱弁ばかりか、大熱演までみせる。
この場面で、倉持の皇子は艱難辛苦のすえ蓬莱山にたどり着き、天女とことばを交わしたといいだす。
天女は、「自分の名前は「うかんるり」だ」と名乗ったなどと、まことしやかなことをいう。
ここは原文では、「我が名はうかんるり」。
「わが名は、うかんるり」か、「わが名、はうかんるり」かで解釈は分かれる。
「はうかんるり」では、「宝冠瑠璃」などと、漢字が当てられたりするらしい。
映画では、「うかんるり」を採用したようだ。
この場面に、こんな監督の書き入れが。
「大好きなセリフです」
「うかんるり」にしろ「ほうかんるり」にしろ、この天女の名前は意味不明。
倉持の皇子がもっともらしくでっち上げた名前にすぎない。
でも、監督はこのでっち上げが、「大好き」だという。
そのセンスが面白い。
それから、かぐや姫とお付きの女童(めらわめ)が羽根突きをする場面。
そこにはこんな書き入れが。
「羽根突きは、室町時代、毬杖(ぎっちょう)が変化して生まれた、とウィキ他にあるが、毬杖はホッケーのようなスポーツであり、ちがいが大きすぎて、にわかには信じがたい」
「平安に羽子板があったという文献はないらしいが、なかったという文献もない」
「あった」と「なかった」に下線が引いてある。
また、映画の終盤近く。
かぐや姫とその兄貴分の捨丸(すてまる)が、抱きあいながら空を飛ぶ場面。
そこには、こう。
「抱擁!」
続けて、こんなことが。
「77年の人生で、はじめてこの字を書いたのではないかと思います」
なんとも愉快な書き入れだ。
それにしても。
この映画は、人物も背景も淡彩でえがかれている。
にもかかわらず、空間がつくられ、2人が情感豊かに宙を舞う。
おそるべき力技だ。
この映画では、竹取物語を映画化するに当たって、さまざまな発明がなされている。
そのことも印象深い。
まず、5人の求婚者たちがこなさなくてはいけない難題のその出題の仕方について。
この処理はじつにスマート。
さらに、原作では一番最初にあらわれる石作の皇子(いしづくりのみこ)を、最後にもってきている。
これもうまい。
それから、かぐや姫がなぜ月に帰らなければならなくなったかについて。
なるほど、その手があったかという感じだ。
映画のかぐや姫は、原作同様みるみるうちに大きくなる。
ただ大きくなるのではなく、ものに感じて大きくなる。
羽衣伝説と接続するところだけは、いささか唐突だろうか。
でも、映画のストーリーからすれば納得のいくところ。
最後に、映画全体の感想。
映画は、「竹取物語」というより、「タケノコ物語」といった風。
淡彩の印象が強いせいだろうか、全体の印象は淡い。
よくできた、人形アニメーションをみたような後味。
くっきりとした淡さといった、矛盾した形容が思い浮かぶ。
それから。
映画をみて一番驚いたのは、月のひとたちが奏でる音楽だった。
そうか、月のひとたちはこんな音楽を演奏するのかと思ったものだった。
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