かかし

「かかし」(ロバート・ウェストール/作 金原瑞人/訳  徳間書店 2003)
原書の刊行は1981年。

ウェストールは、イギリスの児童文学作家。
この作者のものは以前、「ブラッカムの爆撃機」を読んだことがある。
爆撃機に乗ることになった少年が語る、ゴースト・ストーリーで、素晴らしい作品だった。
いまでも、ときおり作品の最後の数行を思いだすほどだ。

カバー袖に書かれた作者紹介によると、ウェストールは、英国の児童文学にあたえられる賞として名高いカーネギー賞を2度受賞している。
最初が、「機関銃要塞の少年たち」(ロバート・ウェストール/作 越智道雄/訳 評論社 1980)。
2度目が、この「かかし」

本書の内容をひとことでいうなら、思春期の少年の煩悶を大変な臨場感でえがいた作品、ということになるだろうか。
テーマ、表現ともに、ずいぶんきびしい。
これが児童書だということに驚く。
一体だれが読むのだろうと思う。
児童文学というもののとらえかたが、彼我ではちがうのかもしれない。

では、内容を詳しくみていこう。
主人公は、全寮制の学校に通う少年、サイモン・ウッド。
パラシュート部隊の将校だった父は亡くなり、家族は母親と妹のジェーンと3人。
本書は、3人称サイモン視点で語られる。

まず冒頭で、去年の夏の参観日のエピソードが記される。
寄宿舎では、消灯後、意地の悪いボードンがほかの連中にからんだり、冷やかしたりするのが恒例となっている。
去年の夏、母親のことでからかわれたサイモンは、ボードンを叩きのめした。
殴りかかったあと記憶がとんで、気がつくとボードンがトイレの床に倒れ泣きじゃくっていた。
――悪魔たちがやってきた。
と、このときのことをサイモンは考える。

それから8か月後。
今夜もボードンは別の生徒をいじめている。
サイモンは、再び自分のなかに悪魔たちを入れて、ボードンを殺してしまおうとする。
が、そのとき、ふざけてばかりいるトリスが、またふざけだして、ことなきを得る。

その後、春の参観日。
ママが、白いレンジローバーに乗った男と一緒にあらわれる。
男は、ジョー・モートンという、著名な風刺画家。
モートンは校長先生に乞われて、その場で校長先生の似顔絵を描き、その絵はチャリティとして競売にかけられる。

イースターの休みに、家に帰ったサイモンは、ママがいつも夜、うきうきとでかけるのにうんざりする。
ママがつとめるギャラリーにいくと、ちょうどジョー・モートンの個展をやっているところ。

学校が再開。
サイモンは校長先生に呼びだされる。
ママがきていて、2人は車に乗り話をする。
ジョー・モートンと再婚することにしたと、ママはサイモンに告げる。
いまの家は売ってモートンのところに引っ越すから、あなたの荷物で残しておきたいものがあれば……。
あいつとは結婚しないでと、サイモンは訴えるが、結婚していいかどうかたずねにきたんじゃないのとママ。

自分のものはみんないらない。
結婚式にももどらない。
パパの軍隊の備品だけとっておいてほしい。
あれはぼくのだからね、とサイモン。

夏休みの最初のひと月は、ナンクのいる兵舎ですごした。
ナンクは、読んでもよくわからないのだけれど、おそらくサイモンの父親の友人。
パラシュート部隊の隊員たちは、皆サイモンの父親のことを知っている。
サイモンは、幼いころの家に帰ってきたような思いをする。

しかし、いつまでもそこにはいられない。
サイモンは、いまではママとジェーンが住むジョー・モートンの家に向かう。
だが、3人の仲むつまじい様子をみて、サイモンは玄関で固まってしまう。
そして、また悪魔たちがもどってくるのを、サイモンは感じる――。

このあたりで、全体の3分の1くらい。
このあと、物語はジョー・モートンの家と、その向かいにあるこわれかけた水車小屋を舞台に展開する。

ジョー・モートンの家で、どんどん孤立していくサイモンは、亡くなった父親に助けをもとめる。
すると、水車小屋の前にあるカブ畑に、3体のかかしがあらわれる。
水車小屋は、戦時中、三角関係のもつれから殺人事件が起こった場所だった。
サイモンの祈りは、邪悪な霊を呼びさましてしまったのか。
かかしは、倒されてもいつのまにか立ち上がっている。
そして、だんだん家に近づいてくる――。

というわけで、後半はゴースト・ストーリーじみた展開になるのだけれど、実際はそうならない。
いや、そうなっているのかもしれない。
このあたりの書きかたは、あいまい、
虚実をはっきりさせないのは、イギリス児童文学のお家芸だろう。

本書は、先にも書いた通り、3人称サイモン視点。
サイモンの1人称で書かれていたら、この作品はロマン派の作品のようになったかもしれない。
が、この作品は3人称なので、ときどきサイモンからはなれた記述がなされる。
しかし、サイモンからはなれた記述をするといっても、語り手が客観的な記述をするとはかぎらない。
このあたりの、ほとんど詐術といってもいいような、巧妙な語り口には脱帽する。
それに、全編にみなぎる不穏な雰囲気といい、人格をもっているような水車小屋の描写といい、その筆力は素晴らしいのひとこと。

家庭内で孤立したサイモンは、どんどんあやしう物狂おしくなってくる。
3人称から1人称へ、客観から主観のほうへ決壊していくといったらいいだろうか。
そんなサイモンを、正気の世界に引き止める役割を果たすのが、サイモンの友人であるトリス。
ジャージー島でトマト畑を経営している両親をもつトリスは、サイモンに手を焼いたママに誘われ、ジョー・モートンの家に遊びにくる。
いつもふざけてばかりいるトリスは、自意識の水位が低いタイプで、他人の緊張をほぐすことができる。
「トリスは悪魔を出し抜くことができる」のだ。
読後、トリスのような友達がいてよかったねえと、思わずサイモンに声をかけたくなる。

少年の心によく寄り添ったこの作品は、その迫力からいって、賞をとるのにふさわしい。
たしかに傑作だ。
でも、それにしてもと、当初の疑問が頭をもたげてくる。
傑作にはちがいないけれど、一体だれが読むのだろう?



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