「一枚の絵から」に〈海外編〉を追加

「一枚の絵から」〈海外編〉を読んだので、先日アップした〈日本編〉の記事に、〈海外編〉の言及作品も追加。

「眠りの森の美女」のコンセプトアートをとりあげているところなどが、いかにもこの著者らしい。
また、話が彼我の2次元作品にたいする感覚のちがいに及ぶのも、いかにもらしいところ。


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アニメーション美術

「アニメーション美術」(小林七郎 創芸社 1996)

初版は1986年。
手元にあるのは1996年に刊行された新装版。

よくできた入門書を読むと、たいへん興奮する。
以前、よくできたデザインの入門書である「ノンデザイナーズ・デザインブック」を読んだときも、大変興奮した(2008年に新版がでたよう)。
こんなにすごい本があるよと、周りに貸してまわった。
貸されたほうは迷惑だったろうなあと思う。

最近、興奮した入門書は「アニメーション美術」。
著者は、アニメーション美術界の巨匠。
代表作はありすぎて、どれを紹介すればいいのかわからない。
とりあえず、「ルパン3世 カリオストロの城」を挙げておこう。

アニメーションの美術というものは、考えてみると厄介だ。
まず、各作品によって、リアリティのレベルが変わってくる。
アンパンマンとジブリ作品の美術が同じというわけにはいかない。
そして、一度決めたリアリティのレベルは維持されなければならない。
また、アニメーションは集団作業だから、全体で一定の質を保たなければならない。
加えて、空想上の景色がでてくることも多い。

以上のような制約があるのだから、美術の入門書といっても、ただの絵画入門書というわけにはいかない。
では、本書はどういう方針によって書かれたか。

あるものよりないものを指摘してみよう。
まず、道具の説明がほとんどない。
この紙を、この筆で、この画材でなどといわない。
そして、この作品では、こういう意図をもって仕事をした、というような逸話や苦労話、ないしはエピソードが一切ない。
著者による製作過程の紹介といったものもない。

では、なにがあるのか。
あるのは、ものの見方だ。
この本は、終始それに徹している。
しかも、とても具体的。

はじめは、まず立方体と円柱の描きかたから。
光源を設定すると、「明暗2つの面が隣接する接点の付近は、特にその明暗が際立ちます」。
また、「周囲が暗闇でない限り、照り返しや乱反射により、反射光ができるはずです」。

それから、樹木と岩の描きかた。
「樹木を描くポイントは(枝分かれなどの)、前後関係、かみ合わせ、くい込み方を明確に意識して描き、明暗をつける」
「岩が岩らしく描けるようになるために、最も大切なことはその成り立ち、つまり岩の出来方を理解するのが描けるようになる早道なのです」

このあと、火成岩や水成岩の成り立ちが続く。
まったくもって具体的。
具体的な記述は、ほとんど詩的な表現に近づく。
これが入門書の魅力。
たとえば、大気について。

「昼間の青空は、私達の周囲にも大気として充満しています」

「幾重にも重なる青色の薄いベール、それを透して私達は物を見ているのだという考えで描けば、ベールの重なりの向こうにある遠くの物、強い太陽光にさえぎられた物かげのかすかな明るさなどは、ほのかな青味を使い分けることで表現できます」

わたしたちは青空のなかで暮らしているのだ――ということを、この文章は教えてくれる。
また、影について。

「影は、弱い光なのだと、考えるのが良いと思います」

この一文を知っていたら、影を同じ色で塗ることは避けられるだろう。
そして、はしばしに仕事への真摯な思いが記される。

「私は常々、アニメーションは作品が多くの人達に歓迎されるのだから、未熟な技術で、見る側に不快な経験を強制することだけは、なんとか避けたいと思っているのですが…」

「石ころ、岩、山、草木、建物などすべての姿に、描き手の感情を込めることで、生き物として受け止め、表現することが大切である」

読んでいて、思わず居住まいを正したくなる。
つまり、本書は技法書ではなくて、入門書。
これからも考え続けようとしているひとが、考え抜いたことだけを書いた、正真正銘の入門書だ。

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「彫刻の〈職人〉佐藤忠良」と「大きなかぶ」(再掲)


千葉県佐倉市の川村美術館で、「佐藤忠良スケッチ展」を観た(2006年2月11日)。

川村美術館には、レンブラントの「広つば帽を被った男」がある。
黒い帽子をかぶった男が、すこし目をひらいて、こちらを見つめている絵。

はなれたところからだと、おそろしく細密に描かれているように見えるけれど、近づくと、襟のレースのところなど、大胆な筆の跡がわかる。

近づくとはじめて、これを人間が描いたんだなとわかる。

佐藤さんのスケッチ展へ。

かたちを力強くとらえたスケッチ。
この力強さは、彫刻家が描く絵の特徴かもしれない。
手足が大きいのも特徴のひとつだろうか。
足の厚みなどをしっかり描く。

水彩で色をつけた絵もあった。
頭巾をかぶったお孫さんの絵や、落ち葉の絵など。
水彩には清明さがあり、見ているとうれしくなる。

自画像があった。
不敵な顔が、硬く、するどい線で描かれている。
60歳、と書き入れがある。
日付も記入されていて、これが1972年。

とすると、後半に展示されている、何枚もの木のスケッチは、70代、80代で描かれたのか。
なんというか、背すじの伸びる思いがする。

いい機会だと、
「彫刻の〈職人〉佐藤忠良」(奥田史郎/道家暢子編 草の根出版会 2003)
を、ぱらぱらと再読。

聞き書きなので読みやすい。
佐藤忠良さんは、絵本「おおきなかぶ」(福音館書店)の絵を描いたことでも有名。

ところが、あのカブは、ダイコンみたいに描いてしまったと、佐藤さんは語っている。

「実をいうと、この絵本の絵では、カブの葉っぱがよくみるとギザギザになっていて、ダイコンの葉になっているんですよ(笑い)」

そのあと、いかにも職人らしいことばがつづく。

「これを描いた当時は、観察力がまだ十分じゃなかったんですね」

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しんせつなともだち

「しんせつなともだち」(方軼羣(ファン・イーチュン)/作 村山知義/画 福音館書店 1965)

訳は君島久子。
《こどものとも》傑作集の一冊。

これはすでに古典となった絵本。
雪が降り、野山はすっかり真っ白。
食べものをさがしに出たこうさぎは、かぶを2つみつける。
ひとつは自分で食べ、もうひとつはろばさんのところへ。

「ゆきが こんなに ふって、とても さむい。ろばさんは、きっと たべものが ないでしょう。このかぶを もっていって あげましょう」

ろばさんの家にいってみると、ろばさんは留守。
そこで、こうさぎはかぶをおいてくる。

ちょうどそのころ、ろばさんはそとでさつまいもをみつけてきたところ。
家に帰ってみると、かぶがあるのでろばさんは不思議に思う。
さつまいもを食べたあと、食べものがないと思われるやぎさんのうちにかぶをもっていくと、やぎさんは留守で…。

以下はくり返し。
ラストはこれ以外にない、予想どおりだけれど嬉しいラスト。

絵は、ちょっとロシア風の朴訥とした感じの絵。
鹿の歩いている絵など、脚をくりだすリズムが感じられてうまい。
絵を描いた村山知義というひとはどんなひとだろうと思い、奥付をみてびっくりした。
このひとは、「忍びの者」(全5巻 岩波現代文庫 2003)の作者だ。

こんな童画めいたものも描いていたとは、いままで気がつかなかった。
絵本、「おなかのかわ」(瀬田貞二/再話 福音館書店)の絵もこのひと。
ハンチング帽をかぶった、粋な格好をしたネコの絵が描かれていたと記憶しているけれど、どうだったか。

タイトルだけおぼえて知った気になっている絵本も、ちゃんと読んでみるといろんな発見があるなあと思った次第。

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せかいいち大きな女の子のものがたり

「せかいいち大きな女の子のものかだり」(ポール O.ゼリンスキー/絵 アン・アイザック/文 冨山房 1996)

訳は落合恵子。

これは絵本。
タイトルどおり、とても大きな女の子のお話。
女の子の名前はアンジェリカ。
どれくらい大きいかというと、2歳のとき、父さんからもらった斧で丸太小屋をつくってしまったほど。
それからも、空をゆく鳥を手でつかんだり。
雲をしぼって、雨を降らせて、小屋の火事を消したり。
裏表紙をみると、帽子のリボンのところに白頭ワシが巣をつくっているみたいだ。

さて、ある夏のこと。
とてつもなく大きなクマが、食べものをねらい、あちこちの村を襲うという事件が起こった。
ひとびとは相談し、力自慢をあつめて、クマを退治することに。
名乗りを挙げる男たちにばかにされながらも、アンジェリカも参加。

アンジェリカをばかにしていた男たちは、クマに手もなくひねられる。
そこで、いよいよアンジェリカの出番。
世紀の大格闘が幕をあける。

大格闘はこんなふう。

「アンジェリカが クマを むんずと つかんで、たかくたかく、空の はるか かなたへ なげとばしたので、 クマは よるに なっても おちてこなかった」

しかし、クマの毛皮を手に入れると心にきめていたアンジェリカは、竜巻をつかみ、それでクマをひっかけて、地上へと引きずりおろす。

これはまさにホラ話の話法。
あまりのありえなさに、読んでいて心が躍る。

また、絵がいい。
アンジェリカとクマの巨大感はすばらしい。
それに細部までていねいに描かれていて、細かい仕掛けがほどこされているので、見飽きない。
たとえば、アンジェリカの頭のあたりにいつも白頭ワシが飛んでいるとか。
表紙を模写して思ったけれど、アンジェリカの赤毛はお母さんゆずりらしいとか。

でも、なによりいいのはアンジェリカが生き生きと描かれていることだ。
クマと相対したとき、アンジェリカは余裕で寝そべり、不敵な笑みを浮かべる。
この本のページをひらくとすぐあらわれるのは、肖像画なのか、すまし顔をしたアンジェリカだ(手につまむようにもっているのはヒマワリ!)。

さきほど、帽子に巣をつくっている白頭ワシについてふれたけれど、そのとき日本の絵本「八郎」(斉藤隆介/文 滝平二郎/絵 福音館書店 1980)のことを思い出した。
これは、大きな男の子の話。
たしか、八郎の頭にも鳥の巣があったと思う。

アンジェリカも八郎も、ともに皆のためになることをするのだけれど、その印象はずいぶんちがう。
八郎は、悲壮かつ自己犠牲的。
いっぽうアンジェリカは終始ユーモラス。
このちがいなんだろう。
主人公の性別がちがうと悲壮になりやすいのか、それともお国柄がそうさせやすいのか。
そんなことも、ちょっと考えてしまったけれど、まあたんに作者たちの作風のちがいなのかも。

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夜のスイッチ

「夜のスイッチ」(レイ・ブラッドベリ 晶文社 2008)

絵は、マデリン・ゲキエア。
訳は、北山克彦。

この本は絵本。
むかし、夜の嫌いな男の子がいた。
男の子は明かりがないといられない。
夏の夜、ほかの子たちはそとで遊んでいるのに、その子は遊びにでられない。
そんな男の子のもとに、ある日ダークという名前の女の子があらわれる。
ダークは男の子に、夜のスイッチの存在を教える。
「夜のスイッチをいれると、星にスイッチが入るわ!」


じつをいうとレイ・ブラツドベリは苦手な作家で、一冊読めたためしがない。
ブラッドベリの詩情をうけつけるチャンネルが、こちらにないのだろう。
でも、この絵本は楽しめた。
楽しめたのは、マデリン・ゲキエアの絵と、この本のつくりかたが大きい。
少ない線で、しっかり形をとらえた絵はスマートだし、その構成は大胆。
配色もセンスがいい。
散文詩のようなブラッドベリの文章を、じつによく絵本というかたちに昇華している。

子どもよりも、絵本好きの大人が喜びそうな絵本だ。


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崖の上のポニョ

「崖の上のポニョ」(宮崎駿 徳間書店 2008)

スタジオジブリ絵コンテ全集16。

先日、遅ればせながら映画「崖の上のポニョ」を観てきた。
とても面白かった。
つじつまなんかどうでもいいという感じが、濃厚にある。
あるイメージを羅列しただけの映画は、観ているとだんだんつらくなってくるものだけれど、この映画はそうはならない。
場面と場面が、それなりにつながっている感じがするところに、妙味があるのだろう。

くわえて、場面ごとの表現力が圧倒的。
イメージが、こちらの想像をはるかに越え、ほとばしっている。

映画が面白かったので、絵コンテも買って読んでみた。
絵コンテというのは、映像作品をつくるうえでの設計図といえるもの。
カメラワークや、その場面の秒数、登場人物のセリフや演技、効果音など、作品を成り立たせるうえで基本的なことが記されている。
もっと簡単にいうと、絵が描いてあり、横に絵の説明がある。
アニメーションは、ゼロからすべてをつくりあげるから、この設計図はとても重要。

絵コンテは、すべて宮崎監督の手によって描かれている。
宮崎監督の絵のうまさは尋常ではない。
しかも、この絵コンテは過半が水彩で着色されている。
絵コンテが着色されるのが普通のことなのかどうかよくわからないけれど、それがフルカラーで出版されるというのは前代未聞のことじゃないだろうか。

絵コンテは、絵をみていくだけでも楽しいけれど、監督の手による注意書きも楽しい。
作り手の細心さというのは、受け手のそれをしばしば凌駕している。
主人公、宗介の母親であるリサが料理をしているシーン。
沸き立つ湯に青菜を入れるカットには、こうある。

「これは野菜が足りなくなりがちな亭主に食べさせようと青菜(季節はずれだがホーレン草でイイ)を入れるリサの手」

また、ポニョの初登場のシーン。
大勢の妹たちに、「年中組」、「年少組」と注意書きが書かれている。

画面をみても、妹たちが二手に分かれているなんて、まあ気づくことではないし、作品全体を通して、妹たちを分けた意図が貫徹しているかどうかも怪しい。
でも、この注意書きがスタッフにつたえられることによって、妹たちの演技に幅ができ、それが無意識のうちに観客にとどいているかもしれない。

(これは余談だけれど、この映画は説明が少ないから、最初のうちはキャラクター同士の関係がわからない。一緒に観ていた知人は、妹たちを、映画の中盤までずっとポニョの娘だと思っていたそうだ)

それから、ポニョが再会した宗介に突進していくところの説明文はこうだ。
「大真剣」

ところで、宮崎監督はシナリオをつくらず、いきなりコンテを書きはじめるという。
そして、コンテが全部完成しないまま、作画作業に突入するという製作スタイルをとっている。
そのせいかどうかわからないけれど、映画ではひとつひとつのシーンが妙に長いという印象をうけた。
シナリオがあって、すべてを把握してからコンテを書くのでは、こういうふうにはならないのではないかという気がする。
全体に奉仕しない細部は、どんどん削られていってしまうのではないか。

ひとつひとつのシーンが長くなるのは、考えながら一歩一歩すすんでいくためだろう。
冒頭、ビンにはまり、網に捕らえられるポニョの場面には、こんな書きつけが。
「ああ、出られるか…」
宮崎監督はポニョの身を案じている。
つまり、考えるというのは、登場人物のいる時空間に身をおくことなのだ。

この映画で好きな場面は多々あるけれど、なかでも宗介がポニョの入ったバケツをひっくり返してしまう場面は気に入っている。
5才の子がこんなことしてたら、必ずこうなるだろうという場面。
でも、必ずこうなるだろうというのは、後知恵にすぎない。
その時空間に入りこまなくては、思いつくことはないだろう。

この場面は、ストーリーの進展に、そう貢献しているわけではない。
映画全体からみれば、削ってしまってもかまわないくらい。
でも、削ってしまったら、この作品の臨場感というか、その場にいる感じ、「その場感」とでもいうものがなくなってしまったろう。

一歩一歩すすんでいるのだから、途中の一歩を抜かすわけはいかない。

そしてまた、この場面を観たときは本当に、大変だ!と思い、そう思った自分にびっくりした。
自分もすっかり5才児になっていた。
5才児のように「大変だ」と思ったのは、こちらの頭の年齢が低いせいかもしれないけれど、でも、あんまりそうは思いたくないから、この作品にはひとを5才児にする力があるんだということにしよう。

で、その力は、いきなり絵コンテを書きはじめるという、宮崎監督の製作スタイルに多分によっているのではないかというのが、絵コンテを読んだ得た感想。
絵コンテには、粘り強く展開される時空間に対する想像力が描かれている。

えー、なんだか、話がややこしくなってしまったけれど、こんなことを書くつもりじゃなかった。
絵コンテに描かれている説明文は面白いというつもりだった。
かわいそうなフジモトが、海のお母さんであるグラン・マンマーレと出会う場面の説明文はこうだ。

「フジモト感激」


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パンダのシズカくん

「パンダのシズカくん」(ジョン J.ミュース フレーベル館 2007)

訳は三木卓。

素晴らしい水彩画を描く絵本作家はたくさんいる。
ジョン J.ミュースもそのひとりだ。

水彩で、輪郭線を際立たせず、しかし空間がよく表現されていて、かつ書きこみすぎていない――と、いうような絵をジョン J.ミュースは描く。
ながめていると、じつに気持ちがいい。
「ふれ、ふれ、あめ!」(カレン・ヘス 岩崎書店 2001)も、「しあわせの石のスープ」(フレーベル館 2005)も、とてもよかった。

この本、原題を「Zen Shots」という。
なにかでこの本が出版されたのを知ったとき、読みたいなあと思ったのだけれど、その本が、この「パンダのシズカくん」だとは最初気づかなかった。
まさか、こんな邦題になっているとは。

タイトルはどちらも間違ってはいない。
表紙には、屋根の上で赤いカサをもった、大きなパンツをはいたパンダの絵が描かれている。
これがシズカくん。

風でとばされたシズカくんは、アディ、マイケル、カールの三人兄弟がいる家の裏庭に落ち、そこで兄弟たちと出会う。
シズカくんは律義者らしく、話し振りがとてもていねい。
訳者の手腕がでたところかもしれない。

シズカくんと出会った兄弟は、それぞれ丘の上のシズカくんのおうちに遊びにいく。
このとき、シズカくんが各自に合った、面白いお話をしてくれる。
この話が、禅味あふれたもの。

シズカくんはその容姿から、なんとなくアニメ「パンダコパンダ」のハパンダを連想させるのだけれど、パパンダが竹のことしか頭にないのにくらべて、シズカくんは賢者のおもむきがある。
シズカくんは人間のよくできたパンダなのだ。

この絵本は、どちらかといえば大人むけの絵本かもしれない。
でも、ことわざやら寓話やら故事来歴やらが好きな子ども(自分もそうだった)は、面白がってくれるかも。
パンダ好きの子も喜んでくれるだろう。


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エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする


「エルシー・ピドックゆめでなわとびをする」(エリナー・ファージョン作 シャーロット・ヴォーグ絵 岩波書店 2004)。

カテゴリーを考えるのは面白い。
かってにアンソロジーを考えたり、リストをつくったりするのとおんなじ。

ひとつのカテゴリーが引力になって、ぐるぐる作品があつまって、星雲をかたちづくるようになるといいのだけれど、たいていそうはいかない。
ろくに思いつかず、ひとつふたつの作品がくるくる回るだけになってしまう。

さて、そこで「エルシー・ピドックゆめでなわとびをする」だ。
ファージョンの短編を絵本にしたもの。
これが、なわとびをあつかった、素晴らしい絵本なのだ。

ケーバーン山のふもとで生まれたエルシー・ピドックは、生まれながらのなわとび名人。
その評判は妖精たちの耳にも入るほど。
エルシーは「なわとび師匠」のアンディ・スパンディに見込まれて、三日月の晩、眠りながら、なわとびのあらゆる秘術を学ぶことに。
それから長い年月がたち、新しい領主が山に工場をつくるといいだして…

もし「なわとびアンソロジー」が編まれたら、ぜひ入れてほしい傑作。
でも、なわとびにまつわる話なんて、これひとつしか思いつかない。

この絵本は、短編を絵本にしたものだから、絵本にしては字が多い。
また、物語を読む年ごろでは、体裁が絵本なので手にとられにくいだろう。

こんなに素晴らしいのだから、なんとかこの物語をよろこぶひとのもとに渡ってほしいと思う。




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ヨセミテ

「YOSEMITE ANSEL ADAMUS」(アンセル・アダムス 宝島社 1995)。

これは写真集。
ヨセミテというのは地名で、アメリカの国立公園らしい。
アンセル・アダムスはその国立公園の保護に尽力したらしい。
序文にそんなことが書かれている。

特筆すべきはそのモノクロの風景写真。
精細で、クリアで、夢のような、途方もない美しさ。

この本のなかで一枚、見たことがあるのがあった。
これは長田弘の「詩は友人を数える方法」の表紙につかわれてたような…。

で、確認。
やっぱりそうだった。

この写真集の話を知人にしたら、大学で履修していた「アメリカ文化史」という授業で、このアンセルさんがとりあげられていたそう。

ぜんぜん知らなかったけど、有名人だったんだ。

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